Vol.5 【対価の意味】
5月。
しとしとしと。
厚い雲に覆われた梅雨空から、静かに雨が降り続ける。
私は最近お気に入りの喫茶店に1人来てはコーヒーを飲んでいる。
「はぁ」
雨、か。
この雨の中でも走り回ってお仕事している人達がいるんだろうな。
それに比べて私は。
「ねえ、マスター」
「はい、どうされました?」
「お金って何なのかしらね」
「ふむ、それはまた広い質問ですね」
「あーうん。そうね。
例えば、マスターはこうしてコーヒーを淹れてお客様に出す対価としてお金を受け取るわけでしょ」
「そうですね」
「料理屋だったらご飯の対価だし、商店だって商品の対価にお金を貰うわけで。
それらは提供しているものに見合ったお金を受け取ってるわけじゃない。
じゃあ、プロ野球選手やアイドルって、スポーツして、歌って踊って、それだけなのに、汗して働いている人の何十倍何百倍もお金を受け取ってるでしょ。
それってどうなのかなって思って」
もちろん私も、プロ野球選手やアイドルがただ遊んでお金を貰っているわけじゃない事は知ってる。
それになる為に、並々ならぬ努力が必要だって事は良く知ってる。
それでもね。
こうして今、私を幸せにしてくれるこの喫茶店が、それらに負けてるとは思えないもの。
そこのところ、マスターはどう思っているのかな。
「そう、ですね。
そういう意味であれば、お金はどれだけ多くの人を幸せに出来たか、その対価とも言えますね」
「幸せにした人の数?」
「はい。先ほどの話であれば、私が幸せに出来るのは、このお店に来て下さった方々だけです。
どんなに多く見積もっても1日に1000人は行きません。
それに対してアイドルであれば、ライブ会場に来たファンの人数万人、メディアを介せば数百万を超える人たちに喜びや感動を提供している訳ですよね。
そう考えれば、多くのお金を受け取っていてもおかしくは無いのではないでしょうか」
「でもでも、幸せにするって言っても、気分のお話でしょう。
何かが残る訳でもないし、設備費とか、掛かった経費を考えるとそんなに高いお金をもらうのってどこか騙しているような気がして」
まるで100円のコーヒーを500円で売り付けているような。
そう言いかけて慌てて口をつぐんだ。
いけないいけない。
これじゃあまるでマスターのコーヒーが100円の価値しかないって貶しているようなものよね。
「例えばですが。
私のお出ししているこのスペシャルコーヒーは500円ですが、高すぎると思われますか?」
ドキッ!!
え、もしかして私口に出してた!?
「もしそうだとして、それでも来て下さるお客様はなぜ来てくださるのでしょうか」
「なぜ?」
「はい。私はまたお越しくださいとは言いますが、首根っこ掴まえて、無理やりコーヒーを飲ませたことはありません」
「そ、そりゃあ、そうよね」
「ええ。つまり、お客様自身が、ここで飲むコーヒーに500円払っても飲む価値があると認めてくださっているということです。
それは、あなた様も一緒ですよね。そうでなければ、わざわざ駅から離れたこのお店に何度も通いはしないでしょう」
「そうね」
「それと同じなのではないですか?
アイドルのファンの方々も、強引にライブに連れてこられた訳ではなく、その価値があると思ったからお金を払ってライブに来て下さるのです。
とてもありがたい事ですよね。
私達は往々にして『この物の価値を幾らだ』と決められがちですが、そこに明確な基準は無いのだと思います。
最後はその人自身が価値があると判断するかどうかですよ」
みんなが価値を感じている、か。
うん、そうなんだね。
と、ちょうどその時、テーブル席に座っていた人たちのスマホから音楽が流れ出した。
あ、これってわたしたちの……
「ああ、この音楽は」
「え、マスターもこういうの聞くんですか?」
「ええ、娘が大好きでして。
カラオケで良く歌ってますよ。
特に最近出た『やすらぎの場所』っていう曲がお気に入りですね」
「へ、へぇ」
「私も先週初めて聞いたのですが、目を閉じるとここに来てくださるお客様の笑顔が思い浮かびましてね。
とても幸せな気分になれました。
あの歌にならお金を払う価値があると心から思いますよ」
「そ、そうですか」
うわぁ、やばい。
ちょっと顔が熱いんですけど。
「と、すみません。
話が逸れてしまいましたね。
つまりは誰かを幸せにした正当な対価であれば、胸を張って良いと思いますよ」
「はい!ありがとうございます。
お陰様で色々吹っ切れました。
私も、このお店はマスターが思ってるよりずっと価値があると思いますよ」
「それはそれは。ありがとうございます」
と、電話だわ。
マネージャーからね。
「ありがとうございました、マスター。
また来ます♪」
お店を出て電話に出る。
さあ、私の歌で幸せになってくれる人のために気合い入れていこう!!
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