ちっちゃなマトリョーシカ
宇枝一夫
ちっちゃなマトリョーシカ
洗濯機をのぞくと、ちょっと湿ったハンカチが取り残されていた。
母が干し忘れたのか、洗濯ばさみで吊してあげる。
初めての作業に、ハンカチに描かれた笑顔は風に揺れて、よりいっそうの笑顔になる。
物心ついたときからそばにいる笑顔。
私がねだったのか、母の気まぐれか。
いつもポケットに入っている笑顔。
「それが好きなの?」の問いに「なんとなく」
『小』、『中』と私がマトリョーシカを
おいしかったときは、笑顔で唇を拭いた。
悲しかったときは、笑顔で涙を拭いた。
『高』を被ると、ところどころほつれてきたけど、笑顔は変わらずだ。
『大』を被ったあたりから、もう子供じゃないと、タンスにしまいっぱなしになった。
そんな私も、『社会人』というマトリョーシカを被り、新しい生活へと旅立つときが来た。
タンスを整理していると、かつての笑顔が現れた。
四隅はボロボロで、ところどころ、カビのような黒いシミ。
それでも、私に薄い笑顔を向けてくれる。
私は、ゴミ袋へ放り込んだ。
その
『わたしも、あなたも、一人じゃないよ』
たわいのない夢の出来事だと、意味を考えなかった。
何気なくゴミ捨て場へ足を運ぶと、ゴミ袋は回収されていた。
新しい部屋、新しい服、新しい
新しい街、新しい景色、新しい組織。
すべてが新しかった。
つらいこと、悲しいこと、でも新しさが私を
そんな新しさに曇りが生じた頃、パートナーができた。
『夫』のマトリョーシカを被ったパートナーは、『妻』のマトリョーシカを被った私に、新しい笑顔を向けてくれた。
やがて私の中から、ちっちゃなマトリョーシカが生まれ、同時に私は『母』のマトリョーシカを被る。
『父』のマトリョーシカを被った彼は「そらいけ!」とばかりに、ちっちゃなマトリョーシカの為に笑顔が描かれたグッズをたくさん買ってきた。
名前も笑顔も知っているけど、私には縁のなかった別の笑顔。
「子供なんだから」
その一言と鼻から漏れるため息で、彼の所行をすべて
ちっちゃなマトリョーシカのために、二人の大きなマトリョーシカはがんばった。
いつの間にか、互いに笑顔を向ける日々が少なくなっていった。
気がついていた。気がつきたくなかった。
三人なのに時折、孤独感に
ちっちゃなマトリョーシカも、ハイハイからヨチヨチへと歩き始める。
ヨチヨチのマトリョーシカの手を取り、あるお店に入った。
いつも通りの、ちょっと疲れた顔で。
ふと、目に止まる、見知った笑顔。
色もデザインも大きさも、さほど変わらない、あの時のハンカチ。
そして、変わっていない、あの時の笑顔。
思わず手に取り、じっと見つめる。
(こんなにちっちゃかったっけ?)
ハンカチなのか、笑顔なのか、
それとも……私自身?
「こりぇがひい~!」
腰のあたりから聞こえてくる、ヨチヨチなマトリョーシカの声。
腰を下ろすと、私によく似た、私じゃない、ちっちゃなマトリョーシカがハンカチを差し出していた。
描かれているのは、『父』となった彼が、ちっちゃなマトリョーシカのために買ってあげた笑顔。
「じゃあ、それにしようか」
買い物の度に繰り返される、いつもの出来事。
だけど今だけ、既視感に包まれる。
買い物かごを向けると、ちっちゃな手は大事そうにかごの底へ笑顔を置いた。
立ち上がり、手を握るためハンカチを戻そうとする。
『これがいい~』
私が叫ぶ。
私の中の、一番小さいマトリョーシカが。
『そう、じゃあ、それにしよっか』
一番小さいマトリョーシカに刻まれた、私じゃない、私によく似た声。
遠い昔の、薄くなった、懐かしい記憶。
思い出した。
笑顔との出会い。
そして、別離の言葉を。
大きなマトリョーシカの手も、優しくかごの底へ笑顔を置く。
『ただいま』
心に向けられた笑顔。
私に届けられた、笑顔からの挨拶。
やがて私は、ハンカチに描かれた笑顔を二人に向ける。
風に揺れる、二種類の笑顔。
それを見つめる、三つの笑顔。
やがて、四つの笑顔になるだろう。
二人目のちっちゃなマトリョーシカが生まれたとき、私も子供になる。
ハンカチと同じ笑顔で、部屋を埋め尽くすと決めたのだ。
ちっちゃなマトリョーシカ 宇枝一夫 @kazuoueda
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