君が君からいなくなる前に、僕が僕じゃなくなる前に。
カーガッシュ
第1話
自分の中に他人が入り込んでくる。そんな感覚そうそう体験できるものではない。それが僕自身の身に起きてしまったからこそ、僕はここにいる。無機質な白い壁に囲まれた待合室。文庫本のページをめくる音、それ以外、一切の音がしないこの部屋で、僕は実質的な死刑宣告が下されるのを待っていた。
「大丈夫?顔、真っ青だよ。」
先ほどまで、誰もいなかったはずのこの部屋、それもすぐ隣から声が上がった。声の先に視線を向けると、学生服のブレザーを着た、僕と同い年くらいの女の子が座っていた。
「しばらく眠れてないんだ。」
そう答えると彼女は手鏡を取り出し僕の顔を映し出した。
「確かにひどい顔だな。」
鏡に映し出された顔は、真っ青で一切の生気が感じられなかった。もう何日も鏡を見ていなかったのか、自分の顔を見るのが、なんだか久しぶりな気がした。
手鏡から彼女へ視線を戻すと、彼女は僕の持っている文庫本に視線を向けているようだったが長い黒髪のせいで、その表情を窺い知ることはできない。
「その本…。やっぱり君もそうなんだね。」
そんな抽象的な言葉だったが、今の僕には彼女の言葉が何を指しているのか自然と理解できた。
「ああ。たぶんね。診察はこれからなんだ。君もここにいるってことは、そうなんだろ?」
彼女が使った言葉に準じてそう返す。
「お互い、運がないねえ。」
彼女は無理やり明るくふるまっているかのような、チグハグな笑顔を浮かべながらそう言った。この少女にこんな笑顔を浮かべさせてしまうこの病、その原因を作った大人達を僕は嫌悪した。
「天谷さん。診察室へお入りください。」
天井のスピーカーから声がした。
「君、天谷君っていうんだ。」
「そういえば、自己紹介がまだだったね。僕は天谷 翔。《あまや しょう》」
「私は、朝倉 雪菜。《あさくら ゆきな》よろしくね。」
簡単な自己紹介を済ますと僕は立ち上がった。
「じゃあ、行ってくる。」
そういって僕は診察室の扉を開いた。どこにでもある、何の変哲もない扉なのに、まるで鉄でできているかのように、重たかった。
「天谷さんですね。おかけ下さい。」
診察室に入ると、白衣を着た三十歳手前くらいの女医さんが座っていた。その言葉に従い、ポツンと置いてある丸椅子に腰を下ろした。
「今日は、先祖返りの疑いがある。ということでよろしいですか」
「はい。最近、全く違う人の夢をよく見るんです。」
このせいで僕はほとんど眠れなくなっていた。眠りにつくことができてても夢の中で他人の人生を追体験しているようなもので、起きた時には全身、疲労困憊だ。
「それは、よくある初期症状ですね。じゃあ、早速、魂、見てみましょうか。」
そういうと彼女はデスクの引き出しから、少し大きめの眼鏡を取り出した。
「それで魂が見えるんですか。」
気になってそう聞くと親切に説明をしてくれた。
「はい。このレンズは特殊なもので、通常、肉眼では視認できない魂を視認することができます。すごく目が疲れますけどね。」
眼鏡をかけた彼女は僕の頭の少し上に、視線を向けた。
「そうですね。魂が二つに分離し始めています。これは先祖返り、正式に言うと後天性他者記憶再来症ですね。」
眼鏡を外しながらそう言った。
「やっぱりそうですか。」
「気を落とすなさないで、というのは難しいかもしれませんがまだ初期症状です。あまり重く考えないでください。」
十分覚悟はしてきたつもりだったが、いざ自分が不治の病だといわれると、くるものがある。
「それで、僕はあとどれくらい僕でいられるんでしょうか。」
「この病は個人差はありますが、大抵は十九歳になる前に自分を失います。天谷さんは今、十六歳ですので、あと二年と少しといったところだと思います。」
後二年と少し。これが僕の余命ということになる。そう考えた瞬間、体中に悪寒が走った。
「大丈夫ですか。顔色、すごく悪いですよ。」
「大丈夫。それより説明、続けてもらっていいですか。」
顔色が悪いのはおそらく寝不足のせいなので放っておく。
「分かりました…。」
そういうと彼女はおもむろに説明を始めた。
「後天性他者記憶再来症。通称先祖返りは、魂を使った完全記憶術が原因です。」
そのくらいは僕でも知っていることだったが、口を挟まずに説明を聞いた。
「魂の存在が証明されて、もう五十年ほど経ちますが、完全記憶術が使われ始めたのはそれから五年後です。魂の存在が証明されてからも研究が続けられ、魂は脳よりも優れた記憶媒体になりえることが判明しました。それを利用した完全記憶術は爆発的に広まり、全世界で使わない人はいないくらいになりました。完全記憶術の発展により教育機関は徐々に減っていき、義務教育の代わりに記憶データを埋め込み、九年間の教育を一瞬で終わらせるようになりました。」
義務教育が撤廃されていた時期があったなんて、さすがに知らなかった。当たり前のように、僕は小中学校を卒業している。
「それから、数年後、完全記憶術を使ったいわば、第一世代の人間が寿命や事故、全く関係のない病気等で亡くなっていきます。するとその後、生まれてきた第二世代の一部に第一世代の記憶が残っていることがありました。これにより、輪廻転生までもが証明されることになりました。魂に焼き付いた記憶は輪廻転生を繰り返しても消えることがなくなる場合がある。これは先天性他者記憶再来症です。先天性のものは魂が分離し、別の人格になり替わるといったことはありません。ただ前世の記憶がある。というだけです。」
「僕も先天性の先祖返りの人に会ったことがあります。」
「結構いるみたいですよ。先天性先祖返りの方。この病院の患者さんにもいらっしゃいます。先天性先祖返りのたった一つの弊害、死んだときの記憶を思い出してしまった方たちです。人生最大の苦しみを味わった。その時の記憶があるため心を病んでしまう方が少なくありません。そういった方たちのカウンセリングなんかも行っているんですよ。」
「先天性のものにもそんな弊害があるなんて知りませんでした。」
素直に思ったことを口にした。
「あまり知られていませんからね。それより、顔色、よくなってきましたよ。さっきまでは今にも死にそうな顔してましたから。」
そういわれてみると、さっきよりは気分がよくなっている気がした。
「じゃあ説明を続けますね。天谷さんが患ったのは後天性のものです。これは、思春期の魂が不安定な時期に、前世の記憶を持った魂と本人の魂が分離することで起きる病です。」
これを聴いて一つの疑問が思い浮かんだ。
「二つに分離するのはわかるんですが、そこからどうして人格が変わってしまうんですか。」
そう質問すると、
「一人の人間の中には一つの魂しか存在することができません。完全に魂が分離して、二つに分かれてしまうと、どちらかが消える…。この消えるのは二つのうちの生きていた時間が短いほうつまり若いほうが消えてしまうんです。この病気が発症するのは、思春期の少年少女だけですから、大抵の場合は人格が入れ替わってしまう。というわけです。」
「なるほど。僕が見た夢の記憶は、明らかに大人の人だった。要するにそれだと、消えてしまうのは僕の方ということになりますね…。」
「申し上げ辛いですが、その通りです。治療法は見つかっていません。魂はまだ解明されていないことも多く、見つかる可能性も限りなく低いと思います。」
そう告げられ、今になって自分が本当にいなくなってしまうという実感が湧いてきた。
「そうですか。分かりました。」
震えた声で返事をした。
「私は魂は人間が手を出していいものではなったと思っています。生まれてくる子供たちにこんなリスクを背負わせるなんてことがあっていいはずない。人類は完全記憶術を使う前にもっと慎重になるべきだったと思います。本当にごめんなさい。あなたたちを救うことができなくて。子供たちにこんな重荷を背負わせてしまって。」
ああ。なんて優しく、まっすぐなんだろう。深々と頭を下げながらそういう彼女を見てそう思った。
「なんで先生が謝るんですか。先生だって完全記憶術を使った世代じゃないのに。」
自然と口にしていた。
「確かに私が生まれるころには完全記憶術を使用可能にする脳と魂をつなげる施術は禁止になっていました。それでも五十人に一人という先祖返りを患う、けして低くない可能性の中、大人になることができたのは、何か意味があったのではないかと私は思います。それが私にとって先祖返りの治療だと思ったんです。大人が子供を守るのは当たり前のことなのに、その大人が子供たちを苦しめる原因を作ってしまった。それが一人の大人として、親として申し訳ない。」
僕は彼女の言葉を聴いてこれに答えなければならないとそう思った。
「僕に
思ったことをそのまま口にした。
「そういってもらえると嬉しいです。医者になって本当に良かったと思いますよ。」
そう言って笑顔を浮かべた。
「では最後に、これは先祖返りの患者さん、全員に案内しているのですが…。」
そういうと引き出しからパンフレットのような、小冊子を取り出した。
「先祖返りの患者さんが通う学校に行ってみませんか。」
そのパンフレットの表紙には待合室で話した女の子、朝倉さんが着ていたブレザーを着た女の子の写真が載っていた。
「行きます。」
短くそう答えて僕はパンフレットを受け取り、診察室を後にした。扉は紙でできているかのように軽くなっていた。
君が君からいなくなる前に、僕が僕じゃなくなる前に。 カーガッシュ @ka_gashy
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