毛脩之6 拓跋燾に寵さる 

毛脩之もうしゅうし洛陽らくようにいた頃、道教のひと、

寇謙之こうけんしに学んでいた。

拓跋燾たくばつとうもまた寇謙之を尊崇していたため、

その守護者として振る舞っていた

毛脩之は拓跋燾に重んぜられ、

北魏ほくぎの都、平城へいじょうにまで召喚された。


平城にて毛脩之は、

北魏のとある書記官のために

羊のスープを作成した。

それがよほどの美味だったのだろう。

書記官は拓跋燾にこのスープを献上。

食べた拓跋燾も大喜びであった。

そのため毛脩之は、太官令たいかんれいとなった。

ようは皇帝の食膳担当である。


この地位にもつけば、

拓跋燾からの恩寵は重くなる。

尚書、光祿大夫、南郡公、太官令……

という肩書きが載るようになった。


後日、北魏に劉宋りゅうそうからの降将、

朱脩之しゅしゅうしという人がやってきた。

かれもまた、拓跋燾に寵愛された。


南土の人だ(ついでに名も一緒だ)!

毛脩之、かれと大喜びで交流した。

やがて話は、現在の劉宋のことになる。


「今、かの地で権勢に

 あずかっているのは誰だろう?」


脩之が聞くと、脩之は答える。


殷景仁いんけいじんです」


脩之の答えに、脩之は笑う。


「本当かね? 

 南土に私がいた頃のかれは、

 幼少であったのにな!

 もし南土に戻ることが許されるならば、

 彼には盛装をもって詣でねばな!」


さらに後日。

脩之にも、望郷の念が募ってきた。


脩之は脩之の家に訪れ、

離れ離れとなった家族の様子を聞く。

脩之はそれに答えたあと、併せて言う。


「ご子息の元矯もうげんきょうどのが、

 立派に切り盛りしておりますよ。

 人々に称賛されております」


あぁ、そうか、そうなのか……!

脩之、しばし悲嘆にくれ、言葉を失う。

出てきた言葉はただの一言、

「あぁ!」であった。


しかし、脩之は今や北魏の重鎮。

敵国の人間にいつまでも

思いを寄せるわけには行かない。

以後、家族について

問い合わせることはなかった。


またある時、脩之のもとに

しばしば魏宋国境エリアの

人間が出入りするようになった。


かれは言う。拓跋燾に取り入り、

中国古来の礼法を伝えましょう、と。


南北に併存した皇帝のうち、

北の皇帝をより重んじようとした、

となるだろうか。

劉義隆りゅうぎりゅうにしてみれば、

自らの立場を軽んずるような

振る舞いに映ったのだろう。

脩之周りのこの動きに対し、

問責状を送っている。


のちに朱脩之が帰国すると、劉義隆に、

この動きが起こった理由を釈明。

その話を聞き、劉義隆、

そういう事なら、と納得したという。


毛脩之、北魏では多くの側妾を得、

また、多くの子をなした。

そして443年、北魏で死んだ。

72歳だった。




初、脩之在洛、敬事嵩高山寇道士、道士為燾所信敬、營護之、故得不死、遷于平城。脩之嘗為羊羹、以薦虜尚書、尚書以為絕味、獻之於燾、燾大喜、以脩之為太官令。稍被親寵、遂為尚書、光祿大夫、南郡公、太官令、尚書如故。其後朱脩之沒虜、亦為燾所寵。脩之相得甚歡。脩之問南國當權者為誰?朱脩之答云:「殷景仁。」脩之笑曰:「吾昔在南、殷尚幼少、我得歸罪之日、便應巾韝到門邪!」經年不忍問家消息、久之乃訊訪、脩之具答、并云:「賢子元矯、甚能自處、為時人所稱。」脩之悲不得言、直視良久、乃長歎曰:「嗚呼!」自此一不復及。初、荒人去來、言脩之勸誘燾侵邊、并教燾以中國禮制、太祖甚疑責之。脩之後得還、具相申理、上意乃釋。脩之在虜中、多畜妻妾、男女甚多。元嘉二十三年、死於虜中、時年七十二。元矯歷宛陵、江乘、溧陽令。


初にして、脩之の洛に在りたるに、嵩高山の寇道士に敬事し、道士は燾に信敬さる所と為り、之を營護し、故に死せざるを得、平城に遷る。脩之は嘗て羊羹を為し、以て虜の尚書に薦まば、尚書は以て絕味と為し、之を燾に獻ざば、燾は大いに喜び、脩之を以て太官令と為す。稍さか親寵を被り、遂には尚書、光祿大夫、南郡公、太官令と為り、尚書は故の如し。其の後に朱脩之の虜に沒せるに、亦た燾に寵さる所と為る。脩之は相い甚だ歡ぜるを得る。脩之は南國の權に當る者は誰ぞの為したるやを問う。朱脩之は答えて云えらく:「殷景仁なり」と。脩之は笑いて曰く:「吾れ、昔に南に在りて、殷は尚おも幼少なれば、我が罪の日より歸せるを得たるに、便ち應に巾韝して門に到りたるや!」と。年を經るに忍びず家の消息を問わば、之に久しうして乃ち訊訪し、脩之は具さに答え、并せて云えらく:「賢子の元矯は、甚だ能く自處し、時人の稱うらる所と為る」と。脩之は悲しみて言を得ず、直視して良や久しうし、乃ち長歎して曰く:「嗚呼!」と。此より一にも復た及ばず。初にして、荒人の去來せるに、脩之に言いて燾が邊を侵さんと勸誘し、并せて燾に以て中國禮制を教えんとせば、太祖は甚だ疑い之を責む。脩之は後に還ぜるを得、具さに相い理を申さば、上は意を乃ち釋す。脩之は虜中に在りて、多きの妻妾を畜い、男女は甚だ多し。元嘉二十三年、虜中にて死す、時は年に七十二なり。


(宋書48-18_寵礼)



寇謙之

北魏における道教国教化に甚大な功績のある人。崔浩さいこうも拓跋燾も彼に傾倒していたため、いわゆる仏難、北魏における大規模な仏教弾圧が発生した。


朱脩之

おいやめろ同名とか。しかもこの記事で毛脩之と朱脩之がいるのに当たり前のように諱呼びルールを徹底してきやがる。お陰で途中で訳わかんなくなった。まぁあの朱序しゅじょ将軍のお孫さんと言う事で、なかなかにトキメく家系の人ではあるんですが。


宋書記事はこれで終わりですが、このあと魏書にはもう少し毛脩之の北魏での実績が載っています。崔浩さんと仲良くお話してて面白いんで、もはや426年はぶっちぎりますけど、アディショナルタイム的に全記事を追ってこうと思います。

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