天使の理

篠岡遼佳

天使の理

 ハァ、ハァ、ハァ――――


 月のない夜。裸足のふたりが星明かりだけを頼りに走っていた。

 呼吸音だけが嫌に耳につく。


「早く、とにかく早く、走って!」

「なぜですか?」

「あなたが危ないのよ!」


 先行する少女は走り続ける。相手の手を取って、村はずれの小さな湖まで。

 しかし、追いかける大人達の方が歩幅も大きく、松明を持って足元を照らしている。高く茂った芦を踏んだあとを、辿られてしまう。


 湖に着いたときには、すでにふたりは囲まれていた。

 松明が湖とふたりを照らし出す。

 少女と、その相手――非凡な美しさと、背中の両翼。

 それは紛れもなく、天使だった。




 その村は、食糧難にあえいでいた。

 周期的にやってくるイナゴの大群に穀物をすべて食い尽くされてしまい、村の食料庫はイノシシと熊に襲われていた。


 しかしそんなとき、全世界に光が射した。

 後に「ことわりの日」と呼ばれるその日は、空のさらに上に存在するものからの光の救いだった。

 光は告げた。

「天から使者を遣わす」と。

 そしてそれは、この村でも、その通りになった。


 天使は奇跡の末端を、祈ることで起こすことが出来た。

 村は危機を脱した。害虫と獣はいなくなり、通常どおりの収穫量が続いた。


 天使のために、高い祈りの小屋を作った。

 人々は天使に祈り、天使は空の高みに祈った。

 病があれば、天使はその血ですべての病を治した。

 怪我があれば、天使はその手を当てることですべての怪我を癒やした。


 天使なくしては、村は成り立たない。

 ――しかし、都会から来た旅人は言った。

 都の方ではもう天使はいないと。

 天使には「昏き理」があり、それを犯すことで天に帰ってしまうのだと。


 だとしたら、今のままでいいではないか。

 いやいや、ちがうね、考えてもみろ、神に届く翼だぞ。売れば莫大な金になる。

 けれど、どうしたら?

 翼をもいでしまえばいい。片方だけでも祈りは届く。



 そして、世話役の少女と天使は逃げた。

 少女は叫んだ。

「神様がお遣いになったものに、何をしようというの!」

 大人達はゆっくりとふたりに近づきながら言った。

「わかっているだろう。この村は金がない。もっといい生活がしたいだろう。裸足のままでは辛かろう。

 だから、天使を寄越せ!」


 抵抗した少女は湖に突き飛ばされた。

 天使はそれを見ていた。

 天使は祈らなければ何も出来ない。

 少女は喘ぎ、もがき、苦しみ、やがて湖に沈んだ。

 天使は捕らえられ、片翼を根元から、ブチリと鉈で絶たれた。




「高き御方、高き御方、そこへ帰りたいのです。ここにはもう居たくありません」

『遣わしたものよ、よく聞きなさい。片翼で空は飛べないよ』



 天使は、日々祈った。

 祈りの力は、しかし、死んだものを蘇らせることは出来なかった。

 天使は、それでも祈った。

 だんだん高き御方の声が遠くなっていく気がしたからだ。 

 翼は光を捉えてその身を浮かせることが出来る。 

 祈りは光へ変えることで御方に届く。

 しかし、片翼では光に限りがある。

 祈っても祈っても、高き御方からの返事は、遅く、遠くなっていくのだ。


 絶たれた翼が、ないはずなのに痛む。

 湖で溺れた少女のことを、訳もなく思い出す。

 天使は涙を流すということを知らなかった。

 天使は床に伏せった。

 衰弱は明らかだった。祈っても実りが良くない年も続いた。

 だから、村の大人達は決めた。

 血を根こそぎ奪い、そして天使を殺そうと。


 だが、それは決行されなかった。

 その前に天使が死んだからだ。


 天使は狂乱した。

 自らを逃がそうとしてくれた、湖に沈んだ少女が忘れられない。


 鋭くとがらせた爪で喉をかきむしり、それでも死ねないとわかると目玉をくりぬいた。

 半面を血みどろにしながら、なお天使の体は死ねなかった。

 高き御方にそれを呪った。どうして死ねないのかと。

 高き御方は、その呪いを聞いた。ならばすべてと共に死ぬといい。


  昏き理――高き御方の天罰だった。


 横たわる天使の血から、火が灯った。

 ろうそく程度の火が、流した血を伝って爆散した。


 火は水で消すことが出来なかった。

 食料庫も、牛も豚も鶏小屋も燃えていく。

 村人も気づくと火に回り込まれ、その村の人間はすべて苦しみながら炭となった。

 その火はすべてを焼き尽くしてもなお燃え広がり、一帯の四つの集落を根こそぎ灰に変えた。



 天使は炎の中に倒れたまま、細く息を吐いた。

 空色の片目が、瞬く。

 何が間違っていたのだろう?

 自分はここに居るべきではなかったのか?

 それとも、あの日逃げてしまえば良かったのか?

 ――いずれにせよ。

 天使は呼吸をやめた。

 ――いずれにせよ、彼女が死んでしまったのは、自分の所為だ……。


 そうしてそのとき、天使のために空から光が射した。

 天使はやっと空へ帰り、休息を得ることとなった。




 …………高き御方は、そうしてまた自らが遣わしたものを失った。

 何らかの文字が書かれた板の末尾を、書き直す。


 この地上すべてから天使が失われたとき、また世界を作り直そう。

 片手で頬杖をつきながら、茶の入ったカップを傾け、高き御方はそんなことを考えていた……。





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天使の理 篠岡遼佳 @haruyoshi_shinooka

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