第四話 歌を知らぬ子ら

 最悪だ。

 こんなときにあの人に会うなんて。



 琥珀の採掘場で働くようになってから初めての休日。

 あの人が玄武を訪ねてきた。

 列車の中で出会った、ギター弾きの文筆家、秋心あきみ粧太郎しょうたろうである。

「そろそろ知った顔に会いたくなりましてね、石嵜いしざきくんななら会えると思ったのです」

 粧太郎は、煮込みうどんに舌鼓を打ち、歌うように話す。

 せっかくの休日だからと、ぶらりと一字九いちじく村の中心地に足を運んだら、うどん屋の前で会ってしまった。

 粧太郎に、昼飯をおごります、と言われ、玄武は子鴨のようについてきてしまった。

「朽ちかけた掲示板が風に揺れている様は、大変風情がありました。しかし、寂しさが募るのです。まるで、便りがない日々を送っているようで」

 最悪だ。今の自分を、この人に見られたくない。

 玄武は近況を訊かれることを恐れ、自ら話題を提供する。

「美しい言葉を集めて小説でも書かれるのですか?」

 粧太郎は、よくぞ訊いてくれた、とばかりに目を光らせる。

「歌をつくっています。子どものための歌です」

「子どものための歌」

 玄武には想像がつかず、甘い醤油の浸み込んだ油揚きつねと一緒に言葉を咀嚼する。

 玄武にとっての歌とは、お座敷で芸者が三味線を奏しながら唄うものだ。民謡は耳に馴染みがなく、和歌や唱歌の教養は、玄武には皆無だ。そう思えば、歌とは大人のものである。

「僕は物書きではありますが、近年は子どものための読み物に力を入れています。『カナリヤ』という雑誌を編集しているのですが」

 すまん。その雑誌、初めて聞いた。

「『カナリヤ』の反響はあります。子どもが詩に節をつけて歌っている、と親から手紙を頂いたり、物語の連載を楽しみにしている子どももいたり。売れ行きも好調です。しかし、読者のほとんどは、帝都の子どもです。帝都から一歩出てしまうと、『カナリヤ』は馴染みが薄くなってしまう。だから僕は、帝都から離れた場所を見てまわっているのです」

「それが秋心さんのフィールドワークですか」

「ええ。僕は生まれも育ちも帝都です。帝都以外の土地を知りません」

 他の人が口にすれば嫌みに聞こえる台詞は、粧太郎が歌うように口にすれば、正直に聞こえるから不思議なものだ。

「最初は驚きました。子どもが子どもと見なされず、小さな大人として労働力となっていたことに。彼らは、小学校にも通えない」

 わかります、と頷きそうになり、玄武は堪えた。

 学制はとうの昔に発布されたが、全ての子どもが学校教育を受けているわけではない。

 働かなくては生活できない子どもが、数多くいる。粧太郎の言うような“労働力”として親の手伝いや家事に加わらざるを得ない子ども。あるいは、金稼ぎをしないと生活がままならない子ども。玄武は後者だった。

「子ども働かなくてはならない、という状況は理解します。ですが、そのせいで本来育まれるべき感性が失われるのは話が別です」

 静かに、しかし熱く、粧太郎は目を輝かせて歌うように語る。

「僕の使命は、清らかな情緒の歌によって高貴なる叡智想像インテレクチュアルイマジネーションを世の子らの胸に植えつけることです。しかしてそれによりて爾後じごさらなに激甚なるべき……」

 自分の世界に入ってしまった粧太郎が、玄武には意外に思えた。この人も、こんなに熱くなるのか。

 別れ際に「飴ちゃんをあげましょう」とまた飴をもらってしまった。



 琥珀のような色をした月が、夜闇を照らす。

 玄武は窓も障子も閉めて寝床についた。

 眠りの海の波間にうつらうつらと身を委ねるうちに、掛布団が波打つ。

 見えぬが、わかった。今宵も女が来たのだ。

 玄武は女を誘い、掛布団をかけた。寝間着の上から女を抱きしめる。幼児をあやすように背中をさする。身動きを取られれば、動けぬように抱きすくめる。

 女は毎日のように、玄武を訪ねてくる。灯りはつけず、喋らない。あの女人なのかと玄武は予想しているが、確信はない。最初のうちは、寝込みを襲うかのように大胆で激しかったが、近頃は暖を取るようにすり寄ってくる。

 女を抱くうちに、玄武は気づいた。この女は男慣れしているが、男に優しくされたことがないらしい。早く事を済ませようと積極的に体を開くが、玄武が丁寧に扱うと、戸惑うように体を強張らせてしまう。それでも、何度もうちに、女は安心したように身を預けるようになった。

 涙で濡れた女の頬に、短い髭でざらつく男の頬で触れる。頬を舐められそうになると、悪戯な口をついばむように唇で触れる。舌は入れさせない。短い口づけをひたすら繰り返す。

 女の鼻から、湿った声が漏れた。らされて我慢できないように身をよじる。男だって、もうとっくに感じている。早く肌を重ねたいのを我慢して、女を焦らす。

 顔も名も知らぬ女。体だけの関係。それでも、女を物のように扱いたくなかった。

 かわゆいな、あんたは。

 口説きたいのを我慢して、男は徐々に触れる箇所を変えてゆく。

 いつの間にか、女を可愛いと思っていた。そのようなこと、今までなかったのに。

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