第二話 ギター弾きの男
「主を探す、はぐれた雲」
近くの人が、唐突に呟いた。
窓枠に頭を預けて居眠りをしていた玄武は、その声で目を覚ます。
列車のボックス席。玄武の前の席には、いつの間にか他の客が座っていた。
色褪せた着物に身を包み、手拭いを首に巻いた男だった。中途半端に伸びた髪は、意外にも黒々としており、“ぬばたまの”とか“緑の”と形容したくなる。髪質だけなら女人よりも美しい。
男は、
「失礼。起こしてしまいましたね」
歌うような低い声が、寝起きの玄武の耳で遊ぶ。
玄武は車窓から外を眺めた。
帝都からだいぶ北に進んだようだ。
収穫を待つ黄金色の稲穂がたおやかに揺れ、向こうの山は紅を
濃く深い青色の空には、ちぎれたような雲が浮かんでいた。
主を探す、はぐれた雲。
男は、ちぎれ雲をそう表現していた。
「主にたどり着いたら、雲の旅はおわるのだろう。……違うな。……何かに
歌を口ずさむような独り言をこぼしながら、男は帳面に鉛筆を走らせる。一区切りついたとみえて、男は
髪艶に負けぬ黒々とした瞳が、玄武を捉える。眉が太く濃いがなぜか野暮ったさは感じない。
「すみません。大荷物なもので、席を移ってきたのです」
男の隣には、瓜のような形をした箱が置かれている。重量はなさそうだが、網棚に詰めるものではない。変則的な形状を座席に置かれることを嫌う人もいるだろう。
玄武は、別に構わなかった。座席は空いているのだから。
「これは何だと思いますか」
男が玄武に訊ねる。
楽器でしょうか、と玄武が答えると、男は蓋を開けて中を見せてくれた。
「ギターや」
「ご存じでしたか」
「知り合いが弾いとりました」
友人が親しくしている女人が演奏していたのを見たことがあるが、その機会がなければ、玄武も知らなかっただろう。
「相棒を携えて帰郷ですか?」
玄武が訊ねると、男は、いいえ、と答えた。
「言うなれば、フィールドワークです」
「学者の先生でしたか」
「いいえ、文筆家です。申し遅れました、僕は
あきみ、しょうたろう。
玄武は、口の中で言葉を転がした。そんな物書きがいたのか。文学に疎い玄武にとって、聞いたことのない名だった。
黒々とした目に注視され、玄武も名乗る。
「
「おや。きみこそ、若いのに学者の先生ですか」
「いえ、もう二十五ですし、先生ではありません」
「二十五は若いですよ」
粧太郎と名乗った男は、黒々とした目を細め、口元を綻ばせた。
「きみは帰郷ではありませんね。研究の一環ですか」
「いいえ、金稼ぎです。苦学生ですから」
玄武は少し、嘘をついた。
「この行き先ですと、
「ええ」
金稼ぎとは言ったものの、本来の目的はフィールドワークだ。大学には長めの不在を許可してもらい、記録を提出して単位にしてもらうことになっている。
「秋心さん、文筆家の間でも、一字九の琥珀は有名ですか」
「皆知っていると思われます。石嵜くん、気をつけて下さい。きみのような優男は、一攫千金を狙う荒くれ者に虐げられるかもしれません」
鉱山の環境の悪さは、玄武も話に聞いたことがある。自然が相手だから、何が起こるかわからない。空気が薄くなる。労働に対して成果は少ない。
しかし玄武は、自分はそこまで
ちゃらちゃら。不真面目。学生らしくない。女人を泣かせてそう。
今まで指摘された人間像を思い出し、生い立ちも思い出してしまって、玄武は苦笑いした。
列車に乗っている間、粧太郎に「飴ちゃんをあげましょう」と言われて飴をもらい、代わりにビスケットを差し上げ、ギターの演奏を聴かせてもらった。
哀愁漂う音色が心に染み入る気がして、玄武は何気なく外を眺めた。稲の黄金色と紅葉に彩られた山は彩度を落とし、侘しさを増していた。濃く深い青色の空には、主を探すはぐれた雲がぽつんと浮かんでいた。
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