愁いを知らぬ鳥のうた

紺藤 香純

第一話 学生の青年

 金曜日の帝都は、皆がいそいそと動いている。濃く深い秋晴れの空を見上げる者は、きっとわずかしかいまい。

 石嵜いしざき玄武げんぶは、太いフレームの眼鏡を正し、昼休みの研究室から外を眺めていた。

 妻帯しているが子はいない玄武も、齢は三十。講師という肩書きで教壇に立てるようになり、ようやく博物学の研究者として、それらしく活動できるようになった。



 ひとりきりの研究室で茶を飲むべく湯を沸かしていたところ、控えめに戸を叩く者がいた。物置同然で、玄武以外は必要最小限しか立ち入ることがない研究室を訪ねるとは、珍しい。

 玄武は戸を開け、来客を確認する。先程の講義を一番前の席で聞いていた学生だ。男である玄武の目から見ても美しい容姿だったため、よく覚えている。

「文学科の名取なとり晶水あきみと申します」

 なとり、あきみ。

 玄武が繰り返すと、晶水は綺麗な二重まぶたをまたたかせた。

「やはり、ご存じでしたか。父は海軍の」

ちゃう、ちゃう。それやのうて」

 玄武は晶水を遮って否定した。

 海軍のお偉いさんに名取のなにがしがいることは、世間にうとい玄武でも知っている。晶水青年は、その名取氏の息子であるらしい。しかし、気になったのは違う部分だ。

「すまんな、名取くん。昔の知り合いに、“あきみ”という人がいてな。思い出してしもうた。言うておくが、その人は、きみやないで」

 ぱちくり、と目を丸くする晶水を室内に招き入れ、空いた椅子に座らせる。用件は知らぬが、折角の客人にちょうど沸いた湯がある、もてなしても罰は当たるまい。

 萎縮して腰を浮かそうとする晶水に、ええから、と促し、淹れたての煎茶を出す。

「で、俺に用とは」

 玄武も近くの椅子に座り、向きを変えて晶水を見やる。

 晶水は肩を強張らせながらも、形の整った唇を開く。玄武に男色の趣味はないが、この晶水をいかにしたらのか、一瞬だけ考えてしまった。そのように見られていることに、きっと晶水は気づいていない。気づかないまま、彼は本題に入る。

「先程の講義で先生が仰ったことについて、もっと詳しく教えて頂きたいのです。時間の許す限りで構いません。今お忙しいのでしたら、また日を改めて」

 若者よ、生き急ぐな。

 心の中で突っ込みをいれつつ、はて何を話したのやら、玄武は記憶を手繰たぐり寄せる。講義の間は必死で、ほとんど覚えていない。

「琥珀のお話です。先生がフィールドワークに足を運んだという、一字九いちじく村の」

「ああ、琥珀の採掘場か」

 それです、と晶水は頷く。

「自分も、現地に足を運んで調査をしてみたいと思っております」

「やめとき。一字九の琥珀は、今は採られとらん」

「存じております。5年ほど前の嵐で山崩れが起こり、それ以来採掘場は閉鎖されたままだと」

 青年の瞳は、どこまでもまっすぐだ。瞳の奥の光もまた、汚れなく輝いている。

 玄武は茶をすすり、わざと足を組んで選ぶってみせる。

「名取くん、きみは帝都の育ちか」

「はい。生まれも育ちも帝都です」

 真面目で純粋、柔和な美青年だが、軍人の息子だけあって、場に慣れれば佇まいは毅然としている。

 玄武は、しばし思案した。冗談ではぐらかせるような子ではない。ならば、いっそのこと話して怖がらせてしまおうか。隠すようなことではないのだから。

「きみ、時間はあるか? 弁当を食べながら話そうや」

 玄武は、自分の弁当包みを解く。

 晶水は、ありがとうございます、と頭を下げ、竹の皮で包んだ握り飯を荷物の中から出した。名取の某は、息子を庶民的に育てたようだ。

 晶水の握り飯に対し、玄武の昼食は洋食のサンドイッチだ。片手で食べられるように、と愛妻がわざわざパンを買って毎日サンドイッチにしてくれる。今日の具材は、玉子と胡瓜。

「さて、帝都純粋培養の若者よ。西国生まれ場末育ちの学者くずれの話についてこられるかな」

 その綺麗なお顔が過激な話題で歪むのを意地悪く楽しみにしながら、玄武は唇の端についた玉子を舐めた。

「これから俺が話すのは、人生で最も美しい鉱石を奪い取ったときのことや」

 窓の外には、あの日と似た雲が流れている。

「あの日も、主を探しているようなはぐれた雲が空を泳いでいた」

 玄武の脳裏には、あのときの記憶が鮮明に焼きついている。

 列車から見た雲。

 ギターの音。

 秋心あきみ粧太郎しょうたろうを自称する、文筆家の男。

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