そしてあなたになる

月花

そしてあなたになる


 真昼に浮かぶ白い月は、どうしてあんなにきれいなんだろう。


 月が時間を間違えたわけじゃないと知っている。地球の自転と月の公転がずれているからこれは仕方のないことなのだ。それでもなんだか間抜けに思えて、おかしくて、不思議と目を奪われてしまう。

 

 私は頬杖をつきながら窓の外を見ていた。十二月の空は驚くほど澄んでいた。寒々しい青に、はけで描いたような白い筋が浮かんでいる。


 時々びゅっと冷たい風が吹いて髪がめちゃくちゃに舞った。赤いスカーフが揺れて教科書もパラパラとめくれる。寒いのに窓なんて開けるから、とみんな不満そうに私を見た。窓についた水滴が流れ落ちた。


 金曜日の二時間目。ペンも手放したまま、ぼんやりとしていた私を引きずり戻したのは先生だった。


 彼の革靴がワックスがけされた床を鳴らす。こつこつ、リズムカルに。先生はゆっくりゆっくり近づいてくる。私ははっと前を向き、それからなんでもないような顔で教科書に視線を落とした。


「Kはお嬢さんと私との間に結ばれた新しい関係について、最初はそうですかとただ一口いっただけだったそうです」


 先生は衣擦れの音だけを残し、私の机を通り過ぎた。私は視線だけで先生を追った。右手に持った教科書は、夏目漱石の『こころ』のページを開いている。下の方に入った挿絵を見て、ああ今は二百一ページなんだ、と思った。私は親指と人差し指でつまみページをめくった。


 朗読はまだ続く。

 私はこの時間が好きだ。先生の声や眼差しがおどろくほど穏やかなのが好きなのだ。


 先生は教室を一周してしまうと、数段落残したまま、ぱたりと教科書を閉じた。私はひどく残念に思ったけれどそんなことは顔に出さない。やっぱり頬杖をついたまま先生を見つめる。先生は私の視線に返事をしない。


 先生は教壇にのぼって真新しい白のチョークをつまんだ。そして振り向きざま、いつものようにふわりと優しい笑みをうかべた。


「さあ、このときのKは何を思っているのでしょう。ひとつずつ整理してみましょうね」


 私は気のぬけた顔のままノートを開いた。





 冬は日が暮れるのが早い。まだ十七時過ぎなのに、窓の外はうっすら濃紺で、地平線上はオレンジに輝いている。遠くに見える白い光は金星だろうか。


 私はため息を吐いた。夕方は嫌いだ。光がやけに刺々しくて目を開けていられなかった。


 私は絵筆とパレットを置いて立ち上がった。窓の方まで近づいて深緑のカーテンを掴み、一気に引いた。シャッと鋭い音が響き、それから美術室は真っ暗になった。これじゃ何も見えやしない。私はもう一度ため息をついてから反対まで歩いて部屋の電気を探した。


 ええと、どこだっただろう────小首を傾げたのと同時に美術室の扉がガラガラと音をたてたから、私は勢いよく振り向いた。


「ずいぶん暗いんですね」


 黒のチェスターコートを羽織った先生がそこにいた。革靴で床を鳴らしながら部屋に入り、電気のスイッチはここですよ、と言いながら指を動かした。パチッと音がして蛍光灯が白く光りはじめる。


 私はとまっていた息を吐き出し、そして何でもなかったかのように笑った。


「外が眩しくて、色が分からなかったんです」


 先生は、そうだったんですか、とだけ言うと、適当な椅子にコートをかけた。職員会議帰りらしく少しくたびれて見える。先生は時計に目をやってから私を見た。


「珈琲いれますけれど、いりますか?」


 私は少し驚いてしまった。


「私が飲んでもいいんですか?」

「こんなに寒い部屋にいたら身体が冷えますからね。少しくらいいいでしょう。……まあ、あんまり言いふらされると困りますけれど」

「そんなことしませんよ」

「でしょうね。だから聞いたんです」


 それで、どうします? 先生は美術準備室の前で振り返った。授業のときみたいにちょっと笑って。でもうっすら赤みを帯びている鼻の先に、私は笑ってしまいそうだった。


「飲みたいです」


 先生はにこりとほほえんだ。


 先生が珈琲メーカーをいじっている間、私はまたキャンバスの向かいに座って絵筆を動かしていた。鮮やかな青色をとってペタペタと塗りつけていく。すぐに群青色を重ねて深みをだす。私は夢中になって手を動かしているはずだ。それなのにどうしてだろう、ひどくつまらない。


 私は今日何度目かのため息を零し、絵筆を水につけてゆすいだ。


「もう終わりにするんですか?」


 先生はドアを背中で抑えながら私を見ていた。両手に白いマグカップがあって、湯気がゆらゆらと揺れている。


「珈琲、ここに置いておきますよ」


 私はありがとうございます、と言いながらパレットを水につけた。絵具で染まってしまった爪のなかを綺麗にして、それから私は席に戻った。椅子はたくさんあるけれど先生の二つ隣に腰かけた。


「あの、いただきます」

「どうぞ」


 先生の鼻先はやっぱり赤かかった。もしかしたら私もそうなのかもしれない。


「それで」


 先生は机の上の絵具チューブに触れながら、珈琲を飲み干してしまう。


「あまり楽しそうに描いていませんけれど、どうかしましたか?」


 私は黒い液体に息を吹きかけるのをやめて先生を見た。彼は相変わらず穏やかに笑っていたから、私は困ってしまった。


「そんな風に見えました?」

「ええ。なんとなく」

「そうですか。別に、楽しくないわけじゃないんですけど」

「けど?」

「ちょっと筆が進まないっていうか、これでいいのかなって思って。……本当は最初から描きなおしたいなあ、とか」

「最初からですか?」


 先生はびっくりしたように訊き返した。私は慌てて両手を振って否定する。


「いえ、あの、わかってるんです。今からじゃ美術展に間に合わないですよね。だから思ってるだけっていうか、ちゃんと最後まで描くつもりですけど────」


 私はしどろもどろになって、最後まで言い切らないままにマグカップに口をつける。馬鹿なことを言ってしまった。少し恥ずかしくなって、誤魔化すようにごくごくと嚥下する。砂糖はたっぷりいれてくれたらしくやけに甘かった。


 先生は「ゆっくり飲まないと火傷しますよ」と苦笑いして、それから「いいんじゃないですか?」と言った。


「え?」

「だから、いいと思いますよ、僕は。斎藤さんが納得できるまで描いてみるべきです」

「……でも、今からですよ? もし締め切りに間に合わなかったら」

「その時はその時です。それに斎藤さんならちゃんと間に合わせられます、きっと」


 あなたはとても頑張り屋さんですからね、と甘やかすような声で言う。私は本当にどうしようない気持ちになってしまって、ふいと視線をそらした。


「じゃあ……ちょっと下描きだけしてみます」


 私は飲みかけの珈琲を手放し、腰を上げた。先が丸くなった鉛筆とカッターナイフを持ってきて、ゴミ箱の前に座った。カッターに親指を当てて鉛筆を引く。シュッといい音がした。私は黙りこんだまま鉛筆を削った。先生も何も言わなかった。広い部屋がしんと沈まって、絵具の匂いだけが濃く漂っていた。


 私はもくもくと指を動かした。先生は退屈じゃないだろうか、なんて思って振り向いてみたけれど、彼は紺色の文庫本を読んでいた。先生らしい、と思うよりもなんだかつまらない気持ちになって、私は唇を固く結んだまま鉛筆を削る。


「――――さくら先生」


 だからこれは私の小さな抵抗だった。


 先生は本に指を挟むのも忘れて顔を上げた。そうすることを私は知っていた。けれどちょっと目を丸くしているのを見て、私の指先は急に冷たくなった。


「あの、えっと」


 私はまた言葉たらずに誤魔化そうとして失敗した。いざというとき、私はいつだってそうだった。意味のない言葉ばかりが口をついてしまうのだ。


「すみません」


 ようやく言えた。すみません、と駄目押しのように繰り返す。先生の顔は見れなかった。


「え?」


 先生が不思議そうにそう言ったので、私はゆっくりと顔をあげて先生の方に視線をやった。先生は首を傾げていた。


「どうして謝るんですか?」

「だって、私、先生のこと下の名前で……」

「呼びましたよね?」

「だから、それで怒ってるかなって」


 先生は瞬きした。本当に不思議そうな顔でそうするから、私はあっけにとられてしまった。先生はおかしなものを見たときのようにふふっと笑った。


「なんだ、僕が怒ると思ったんですか」

「だって先生はそういうの気にしそうだし」

「さすがに呼び捨てだったら注意しますけれど、ちゃんと先生ってついていたでしょう」


 だから別に構いませんよ。ああ、でも人前ではちゃんと苗字で呼んでくださいね。ちょっと困ってしまうので────。先生は穏やかな声で言った。


「僕の名前、少し変わっているでしょう。男で“さくら”は珍しいですよね……」


 先生は膝の上で指を組んだ。

 私は素直に頷いて、それから先生と初めて出会った日のことを思い出した。





 先生は今年の春、この学校にやって来た。


「はじめまして。今日から一年間、皆さんの現代文を担当する────」


 教壇にたってほほえむ先生を見たとき、桜みたいな人だなと思った。桜みたいにふんわりしていて、目を離したうちに消えていそうな────―そういう意味で。


 彼は自分の名前を黒板に書いた。丁寧な字で、絵山さくら。女の人みたいだと思った。


 名は体を表すというのは本当らしい。先生は中性的な印象を与えるような人だった。すらりと細い身体とか、あまり角ばっていない指とか、数えればきりがない。


 とはいえ彼は特別きれいとかかっこいいとか、そういうわけではなかった。どちらかといえばぼんやりとした顔立ちで、よくいえば日本人的、悪くいえば薄っぺらい。それでも色素の薄い瞳が細くなるのとか、形のいい唇がゆっくり開かれるのとか、そういうちょっとしたことがとても素敵だった。なによりもその声が、低くて甘いその声が、私の心臓の奥をぎゅっと掴んで離さない。


 だからその時にはもう始まっていたのかもしれないのだ。私の、遅すぎたそれが。





 静まる美術室にチャイムが響いた。最終下校時間だ。先生は本を閉じて私に声をかけた。


「斎藤さん、もうそろそろ」

「はい」


 私は立ち上がって道具の片づけを始めた。出しっぱなしだったキャンバスをしまって、鉛筆も箱に戻す。その間先生はすることもなく、立ち尽くすように私を見ていた。毎日同じように。


 ただ今日はいつもと違うところもあった。先生はそわそわと指を動かし、美術室の鍵をいじっていた。なんだか余裕がなさそうで、私を急かすように時計をちらと見る。


 私はああ、と思った。


「ねえ、先生」


 なんでもないことのように言ってみる。


「煙草、吸ってもいいですよ」


 先生は目を見開いた。私を見たまま、信じられないとでも言いたげに薄く唇を震わせた。


「どうして、知っているんですか」


 先生はもういつもの優しい顔に戻っていた。でも困ったみたいに目尻を下げて笑った。


「匂いはちゃんと消しているのに」


 私は薄く笑む。


「なんとなく、です」

「本当に?」

「本当です。大丈夫ですよ、匂いなんて全然しませんから。うち、お母さんがヘビースモーカーだから分かっちゃっただけです。私、これでも観察眼には自信があるんですから」


 先生は安心したように息を吐いた。


「すみません、どうしても我慢できなくて……。いつもはもう少しくらい我慢できるんですけど、たまにこういうときがあって」

「お母さんもおんなじこと言います。だから吸ってもいいですよ、先生。内緒にしておきますから」


 ここ火災報知器もないですし、とつけ加える。先生はまた指を絡めて遊んでいた。


「……いえ、さすがにそれは。学校で吸うわけにはいきませんよ」


 先生は清潔そうな顔で窓の外を見つめた。その横顔に見惚れてしまいそうで私は俯いた。


「じゃあ、急ぎますね」


 先生はお願いします、と言って、やっぱり困ったように笑った。





 電車がガタゴトと小刻みに揺れる。日曜日の昼下がり。ほとんど空っぽな箱の中で、私はすることもなくぼんやりと窓の外を見ていた。緑ばかりが広がっていて単調なはずなのにどうしてか飽きはしない。


 一人分開けて先生が隣に座っていた。先生はねずみ色の文庫本を読んでいた。


「先生」


 声をかければ、すぐに顔をあげて私を見る。


「どうしましたか?」

「いえ、さっきから何読んでるのかなって」


 先生はああ、と頷き、表紙を見せてくれた。


「雪国ですよ。川端康成の」

「……どんな話でしたっけ」

「主人公が列車のなかである男女に興味をひかれたところから始まる話です。男性の方は病人で、すぐに亡くなってしまうんですけれど、主人公は残された女性に惹かれるんです」

「難しそうですね」

「会話が多いので読みやすいですよ。もし斎藤さんが興味があるなら貸しましょう。雪国でなくてもいいですし」


 電車が駅でとまる。先生は少し嬉しそうだった。声もこころなし明るくて、私もつられて笑ってしまった。


「じゃあ、ええと――――銀河鉄道の夜がいいです」


 図書室にだって置いているのに、私は気付かないふりをしながらそう言った。なんてずるい、と思ったけれど私を非難する人はいない。先生はゆるく頷いた。


「わかりました。明日、美術室で渡します。返すのはいつでもいいですからね」


 ありがとうございます、と私は笑みを浮かべる。それから一言、二言かわして、先生はまた読書に戻り、私は窓を見るだけだった。


 黙っているだけなのに気まずくならないのだから不思議だ。私は目を閉じた。もし眠ってしまえるなら先生にもたれかかりたい。


 しばらく狸寝入りをしていたらアナウンスが流れた。C駅、C駅、と繰り返す。私は目を開けなかった。


「斎藤さん。起きてください、斎藤さん」


 肩を叩かれる。私は思い出したように目を開けて、少しかすれた声で「先生」と呼んだ。


「もう着きますよ。おりましょう」

「はい」


 ちっとも眠くなんてないのに、ちょっと目のあたりをこすってみたりしながら立ち上がった。それを見て先生は目を細めた。


 私は私が思っていた以上にずるい人間だ。無人駅まで吹き抜ける海風に、白のワンピースの裾が揺れた。






 冬の海はおどろくほど透明だ。

 先生と私は砂浜を並んで歩いていた。


「どうですか」


 私は先生を見上げた。


「素敵です。いい絵、描けると思います」

「それならよかった。副顧問としてお役に立てたなら何よりです」


 私は横髪を耳にかけた。


 海へ行こう、と言い出したのは先生だった。私がずっと海の絵を描いていて、描きなおしてもやっぱり海を描こうとしているのを知って、先生は、


「研修に行きましょう」


 といたずらっぽく笑ったのだ。片道五百円の切符は先生が買ってくれた。


「だいぶ冷えますね」


 私は、はい、と短く返した。


「斎藤さん、コートの前閉めてください。風邪でも引いたら大変ですから」


 私はまた、はい、と返事する。言われたとおりロングコートのボタンを上から順にかけていく。かじかむ手だとなかなか上手にできなくてもたついてしまう。先生は少し考えるように俯くと、自分の首元に指をかけた。


「使ってください」


 巻いていた赤いマフラーの結び目をほどき、私に差し出した。私はびっくりしてしまって何も言えなかった。


「あ……すみません。僕のなんて使いたくないですよね」


 先生が引っ込めようとしたそれを掴んだ。


「いいんですか、先生」

「僕のでよければ」


 私は首にぐるぐる巻きつけた。端の方を軽く結べばそこだけ盛り上がるので、私は鼻先をうずめる────先生はどうしてこんなに優しくて、残酷なんだろう。マフラーからふわりと煙草の匂いが漂ってたまらなかった。


 先生はまた歩きだした。私は先生の背中を見ながらゆっくりと追った。一歩踏みだすたびにショートブーツが砂浜に沈むから、先生に追いつけなかった。


 先生は少し癖のある髪を潮風に揺らしながら海を見ていた。けれどずっとずっと遠くを見ているようにも思えて、私は急に不安になった。


 私は足をとめた。

 先生はずんずんと進んでいく。私は先生の名前を呼んだ。名前で、呼んだ。


「さくら先生」


 先生はゆっくりと振り返った。それから、はい、と優しく答えた。


「どうしましたか、カエデさん」


 それだけのことで泣きたくなる。私は両手を握りしめた。


「ねえ、先生」


 先生を引きとめるためには、たった一言でよかったのだ。


「私、私は────」


 それなのにたった一言が言えなかった。怖かったし悲しかった。先生が困ったみたいに笑うのを私は知っていた。


 それでも先生は私の言葉を待っていた。私はマフラーの下で唇を噛んだ。じくじくと痛くて、やっぱり涙がでそうだった。


「いえ、なんでもないです」


 私はそう言って、俯いたまま歩きだした。先生もくるりと前を向いて、私の少し先を行った。露わになった先生の白いうなじを見ながら、私はマフラーに触れた。私の手はこんなものにしか届かない。


 大人になったら、と私は思った。大人になったらきっと逢いにいこう。


 そのときこそちゃん言葉にするのだ。大人の私は泣かずにいられるはずだ。だから、弱ったな、と眉を下げる先生を笑ってやるのだ。


 私は先生の背中ばかり見ていたから、砂に足をとられて膝から崩れ落ちた。粒が食い込んで少し痛かったけれど、先生は気付かないまま遠くまで行ってしまった。


 それがやけに寂しくて、私は子供みたいに泣いてしまいたくなった。






 季節は巡る。三月になって私は卒業し、美術大学に進んだ。気づけば二年生の春休み、私は二十歳になった。


「もうこんな時間……」


 私は肩を回した。


 一人暮らしのための荷造りが終わらない。懐かしいものばかりがでてきて、そのどれも捨てられないし、置いていけない。私はふとため息を吐いた。もう四時間もたっていた。


 最後の棚を開けた。ずいぶんと開けていなかったから埃っぽくて軽くせき込む。私は中のものを取りだした。


「本?」


 一番奥から見覚えのないものがでてきたので、私は首を傾げた。


 こんなもの持っていたかな、なんて思いながら手に取る。ブックカバーがついていたのでとりあえず外してみるが、やっぱり覚えがなかったので机の上に放っておいた。


 夜になって私はお風呂に入った。服を上から全部脱いで、寒い寒いと言いながら湯船に足を差し入れる。そのまま肩までつかって、ああ、とひとり言を零したとき、私はあの本の正体に思い至った。


 銀河鉄道の夜。


 口にだし、そして先生のことを思いだした。もう顔もぼんやりとしているあの人のことを懐かしいとすら思った。


「先生────」


 私と言う人間は恐ろしいほどにまで薄情だ。目をつむってあの人の声を懸命に思い浮かべようとするのに、どうも上手くいかない。私は忘れっぽいたちだった。


 けれど結局のところ、その程度のものだったのだろうと思う。私は自嘲ぎみに苦笑いを浮かべた。


 あの時の気持ちが世界のすべてで永遠のように思えていたのは、私がそれ以外のことを知らなさ過ぎたからだ。つまるところ親鳥についていく生まれたての雛みたいなもので、私はすがるようにあの人の背中を追いかけていた。その必要のなくなった今、私は選ぶことを知ったし、出会いも別れも繰り返した。


 それでももう一度くらいあの人に逢いたいと思ったのは本当だし、口実なら私の手の中にあった。





 次の日、私はS高校を訪れた。木曜日、今ならもう放課後のはずだった。


 先生は私が卒業するのと一緒に、この高校に転勤になった。もしかしたらもうここにもいないかもしれないけれど、それならそれで、次の転勤先を訊かなければならない。


 ひとまず私はインターホンを押した。それから自分は先生の教え子で、あの人に逢いたいということも伝えた。このまま校門の前で待っているように言われたので、私は少しそわそわしながら校舎の方を見つめた。


 先生に逢うのは二年ぶりだ。最初に何を言おうか、そのあとはどんな話をしようかと考えてみる。たぶん逢ってみたらいろいろと話せるのだろう。どうせならあの日、私が言いかけたことを言ってしまってもいい。今ならきっと言えるはずだ。そう、笑い話みたいに。


 十分ほどして女性が小走りでやってきた。なんとなく見覚えのある顔に、私はあっと声をあげた。


「橋本先生!」

「久しぶりね、斎藤さん。すっかり大人びちゃって……お化粧も覚えたのね」


 橋本先生は少し息を切らせながら笑った。

 橋本先生は私が高校三年生のときの担任だ。私が大学に行ったあとここに転勤になったのだと微笑んだ。


 橋本先生は私のことも訊いた。大学生活はどう、とか、今どんな絵を描いているの、とか当たり障りのないことばかりだ。私も当たり障りのないことを答えた。


「それで、えっと」


 ようやく私はあの人のことを尋ねた。

 ここにいるんですよね、逢えますか、と。


「あのね、そのことなんだけれど……」


 彼女は眉間にしわをよせ、きまり悪そうな顔で言った。なんとなく嫌な予感がして、それは本当に直感だったけれど、訊かなければよかったなんて思ってしまう。きっと私は逢いにくるべきではなかったのだ。


「絵山先生は一年前に亡くなったのよ」


 知らないままでいればよかった、と心から思った。





 橋本先生は自分の知っていることをすべて教えてくれた。先生は自殺だったらしい。


「どうしてだったかはわからないの。ほら、絵山先生ってどんな人ともそつなくやっているような人だったし、これといった悩みもなさそうだった。生徒ともトラブルはなかった。だからね、わからないの。絵山先生がどうして死にたがったのか」


 遺書もなかったのよ、と彼女は言う。


「警察の人がいろいろ調べていたけど、結局は自殺でおしまい。鬱だったんじゃないか、とかそんな話だったわ」


 橋本先生はいくつか励ましの言葉をくれた。気を落とさないでね、とか力なく笑うので、私は頷くことしかできなかった。


 橋本先生と別れてそのままバス停まで歩いた。もう家に帰るつもりだった。だけどぼうっとしていたせいで一本早いものに乗ってしまう。駅まで行かないということは分かっていたけれど、降りるのもおっくうで私は気付かないふりをした。私しか乗っていないバスは黙って走った。


 終点は海だった。 


 いつの日か先生と行ったところではないけれど、それでも感傷に浸るには充分すぎる。私はハイヒールを脱いで片手で持ち、浜辺を歩いた。三月の潮風はまだ冷たかったけれど、マフラーを貸してくれる人はいない。


 私は端まで歩こうとした。でも裸足はよくなかったのかもしれない。貝殻のかけらが刺さって、ズキズキと痛くて、私は思わず立ち止まった。


 海の遠くに太陽が沈んでいく。海は真っ白に輝いていた。私は今でも夕方が嫌いだ。


「先生」


 私は途方にくれてしまって立ち尽くした。


「先生、どうして────」


 訊いたってしかたがない。あの人はもう答えてくれない。それでも、どうしてしか言えないのだ。鼻の奥がツンとした。


 もうずっと思い出したりしなかった。


 二年。二年が過ぎたのだ。二十歳の私にとってはとてもとても長い時間で、先生のことなんてどうでもよくなったはずだった。私はたくさんの男の人に出会って、そのうちあんなに好きだった声も忘れてしまって、思い浮かぶのは、優しげな目元と薄い唇だけだ。


 なのにもう逢えないとわかったとたん、先生に逢いたくてたまらなかった。先生の声で私の名前を呼んでほしかった。もう一度。あともう一度だけでも。


「先生、私、あなたのことが……」


 ひどく苦しくて言葉にならない。


「私……」


 言いかけたまま私は顔を覆った。ぽろぽろ零れてくるそれを拭って、拭って、なのにまだ零れてくるから私は声をあげて泣いた。逢いたくて逢いたくてしかたがなかった。言えないまま終わるつもりなんてなかったのだ。


 帰りのバスに揺られながら私は思った。


 私はきっと、あの人のことを一生忘れられないのだろう。


 目元がヒリヒリと焼けるようだった。






 何度目かの桜の季節がやってきて、私は慣れた足取りで美術室を歩き回った。生徒がちらりと振り返るのには何も言わず、彼らの手元を覗き込んだ。


 高校生というのは大人びているようでまだ幼く、可愛らしい。不安そうに私の顔をうかがう生徒に、にこりとほほえみかけた。


 教室を何周かしてとりあえずの進み具合を確認した私は、窓際の椅子に腰かけた。


 窓の外は晴天だ。どこかかすみがかった春の青空にときどき薄紅色の花びらが流れていく。私は指を組んだ。そしてあの人みたいにどこか遠くを、あの人が見ていたものを探すように、私はすっと目を細めた。


「ね、先生」


 いつの間にか私の前に一人の女生徒が立っていた。A3のスケッチブックを持って私を見ていた。


「私の絵、どう」


 セミロングの髪をくるくると巻いた、可愛らしい女の子だった。二、三回折ったスカートの裾を揺らしながら、彼女は私に迫った。 


 私はスケッチブックを受け取って林檎のデッサンを見た。影も形もよく描けていると思った。もしかしたら高校生のときの私より上手かもしれない。素直にそう伝えると、彼女は口角をあげた。


「ねえ、あなた、細川由紀さんよね。部活にはもう入っているの?」

「まだ。決めてない」

「美術部はどう?」


 彼女は迷わずに言った。


「先生が教えてくれるなら入る」


 そうじゃないなら嫌。


 最初から決めていたみたいな口調に、私はちょっと面食らってしまって、それからどうしようもなく笑ってしまった。まるで鏡のようだ。


「教えるわ。私が教える」


 彼女はぴくっと唇を動かした。


「だったら美術部がいい」


 私は、そう、と短く答えた。その後で、じゃあ入部届を出しておいてね、と付け足した。彼女は小さく頷いた。彼女の黒々とした瞳は期待で満ちていた。


 夜になって、私は家に帰った。アパートの扉を開けて真っ直ぐに狭いベランダに出る。ポケットからオレンジ色のライターを取りだし煙草の端に火を灯す。


 もくもくと煙るそれに浸りながら、私は、私はせめて優しくて残酷なことはしないでおこう、と思った。私は誰かの永遠になんてなりたくはなかったのだ。


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そしてあなたになる 月花 @yuzuki_flower

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