人心バイバイ

蛙鳴未明

人心バイバイ

 真夜中である。満月が天高く輝き、眠りに落ちた町を静かに照らしている。外灯だけが、ほのかに町を彩っている。夜の衣装をまとった町がそこにはあった。突然、一条の光が闇を切り裂いた。光の根元にはわずかに開いた扉と、背後の灯に照らされた婦人の顔がある。婦人は浮かない顔をして外の様子をうかがっている。やがて婦人は戸の隙間からするりと抜け出し、そろりそろりと前庭の噴水に歩み寄っていった。そこでは長細いイルカが水を噴き上げている。その蛇のような目は婦人を観察しているかのようだった。


 婦人は噴水の縁に座り込み、大きなため息を吐いて、ちょっとの間考え込むような顔をして、それからすっ、と顔を上げると満月を見据えた。両手を組んで月に祈り始める。囁き声が町をわずかに揺らす。


「月よ……そんなに煌々と輝くのなら、その光で私の汚い恋心を消し去ってください……。私は、夫以外の男と不義の仲となってしまいました……。二か月前、とてもとても素晴らしい夫を、裏切ってしまいました……。あの人は、近々乗り込んでくるつもりです。止めなければ……けれど私は、私に邪魔されてあの人に強く言えないのです。どうか月よ、私の恋心を――――消し去ってください……!お願いです、お願いです。……このままでは、何もかもが壊れてしまいます。お願いです……お願いです……。」


 婦人は月に向かって祈り続けた。ぎゅっとつむられた目からはとめどなく涙があふれ出る。


 月が天頂にたどり着き、婦人の涙が止まった。頬に二本の湿った筋が残った。その湿った筋すらも渇いた頃、遠くで鐘が鳴り始めた。一つ、二つ、三つ、四つ。鐘に触発されたのか、婦人が祈る声が次第に大きく、しっかりとした声になっていく。五つ、六つ、七つ、八つ、九つ、十。婦人の声は最高潮に達しようとし、満月の輝きがいっそう神々しくなっていく。十一、十二、そして――――十三。鳴るはずの無い十三時の鐘が鳴った時、町の空気が一変した。


 漂っていた微粒子が一斉にダイヤモンドの輝きを放ち、時の流れがジャムのようにどろりと鈍る。天上の鐘のような美しい音色が空気を満たす。月の輝きはその兄たる太陽を超えるものとなり、暗闇の町が、またたく間に光の町に変わっていく。婦人が目を開けると、そこは光の楽園となっていた。

 何やら良く分からない半透明のモノ達が、月下の芝生を楽し気に駆けまわっている。芝生のあちこちに銀色の花が咲き、風にそよそよと揺れている。


 婦人は、この世のものとは思えない風景に呆気にとられ、しばらく動けないでいた。動けないでいる間にも、庭のあちこちから様々な精霊が飛び出してきて、歌い、踊り、遊び、はしゃいでいる。婦人はゆるゆると首を振って目をぎゅっとつむった。自分の頬を強くひっぱたき、これは夢、と三回ほど呟く。


 婦人が再び目を開いても、庭の様子はこれっぽっちも変わらない。婦人は庭から顔を背け、噴水の方を向いた。すると、イルカの代わりに一人の男が立っていた。水の代わりに金色を噴き上げている。彼は婦人の視線に気付くと、シルクハットを取り、黒いスーツをまとった体を仰々しく折り曲げてお辞儀した。婦人と目を合わせ、端正な顔をニヤリと歪ませる。


「どうも今晩は。ご婦人。お呼びですかな?」


 若々しい顔をして、なかなか古風な口調で婦人に話しかけた。婦人は、何が何やら分からないといった顔で言葉を紡ぐ。


「お呼び、とはどういうことでございましょう。もう私には何が何だか……」


 男は目を見張り、体を大きくのけぞらした。


「なんと!何が何だか分からないと申される!あなたは夜の女王たる月に向かって、願い事をなさったのでありましょう?だから私が参ったのです。鐘の音に乗り、世の壁を乗り越え乗り越えて」


 婦人は怪訝けげんな顔を崩さない。


「はあ。確かに願い事は致しましたが……」


「そう!あなたは願い事をしたのです!自らの邪な恋心を無くして欲しいという!だからこの心屋が参ったのです!そうでしょう!?」


 婦人は、ほうっ、と息を吐き、しっかりと心屋と目を合わせた。


「ええ……そうです。確かに私は恋心を無くして欲しいと月に願いました。私は……私の恋心にほとほとうんざりしているのです。もしこの心を無くすことができるなら、今すぐにでも無くして頂きたいのです。」


 男はニンマリと笑い、婦人の毅然とした顔を眺めた。


「そういう事でしたら、手早く恋心を抜いて差し上げましょう。大丈夫。心配ありません。私は心屋。心を抜き差しするのが商売でございます。ま、普段ならお代を頂くところではありますが……」


 ちらりと月を見やる。


「今回は月に乞われてのことですのでね。特別にお代は頂きません。……準備はよろしゅうございますか?」


 婦人は少しためらって、息を大きく吸うと、しっかりと頷いた。心屋が顔から笑みを消す。


「では、目を瞑ってください。……そうです。では、心を落ち着けていって下さい……何も考えないで……頭を空っぽにして……深呼吸しましょう……吸って……吐いて……吸って……吐いて。」


 心屋は婦人の呼吸が整い、頭が空っぽになったことを確認すると、素早く婦人の胸に手を当て、ゆっくりと手を引いた。彼の手に従って、ゆっくりと乙女色の半透明な何かが引き出されていく。婦人の額から汗が流れ落ちる。乙女色の何かが婦人の胸から完全に引き出された時、婦人は気を失ってその場にくずおれた。


 心屋はしげしげと自分の手の中で震える恋心を眺めた。鼻に近づけて匂いを嗅ぎ、口に近づけてぺろりと舐めて、納得したように頷いた。


「ほろ苦さの中に見える甘酸っぱさ……色もいい。これは上物ですな。」


 彼は懐から小瓶を取り出し、恋心を瓶の口に近づける。恋心は瓶の数倍の大きさだったにも関わらず、小瓶に吸い込まれても溢れることは無かった。心屋は小瓶にラベルを貼り、何か書きつけると、小瓶を大事そうに懐にしまった。婦人は、不安げに飛び回る精霊たちに囲まれて芝生に横たわっている。心屋は銀色の花に照らされた婦人の顔を考え深げに見つめた。じーっと見つめ続けた。しばらくたって、婦人にゆっくりと語りかけた。


「ご婦人、あなたはもったいないことをなさいました。あなたの恋心は、ご主人を愛する気持ち、家族を愛する気持ち、猫を愛する気持ち、そんな色々なモノと複雑に絡み合っておりました。恋心だけを取り出すなんて、とても出来たものじゃございません。あなたは愛をまるごと失ったんでございます。愛することを失った人間は、愛されることもありません。あなたは自ら人の心を捨てた。それを、覚えておいてくださいますよう。」


 そう言って、心屋はクルリクルリと回り始めた。彼が回るごとに月の光は薄れ、町が輝きを失っていく。精霊の半透明の体はどんどん透明に近くなり、ついには空気に溶けて消えてしまった。心屋の姿ももう無い。彼の立っていたところには、ただ闇が広がっているばかり。町は再び夜の衣装をまとった。鐘の音ももう聞こえてこない。ただ静寂が支配するのみ。


 しばらく経って、婦人がピクリと動いた。もぞもぞと冷たい芝生から起き上がり、月を見上げる。人には分からないほどわずかに天頂から外れた月を見るその目は、氷のように冷え切っていた。

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