4 坂下さん

「……んだよ、もうこんな時間じゃねーかよ。ほんと、うちの新人巡回官ときたらよー」


「仕方あるまい。東待機員、お前だって、最初は泣いて──」


「あーー、今日は何食うかな! カツ丼! アリだな!」


 白鳥さんと東さんの声で目を覚ました。寝ぼけ眼を擦りながら、僕は起き上がる。


「うぅ……!」


 僕は突如、強烈な吐き気に襲われた。


「よ、起きたか陽夜。もうそろ署に着くぞ。ほら、袋」


「あ、ありがとご……ごふっ……」


 警官、残虐、真実。色々なことが脳裏で再生され、二、三度嗚咽を漏らしてしまった僕。それでもなんとか戻すのを持ち堪えることが出来た。


「出しちゃった方が楽だぜ? 我慢すんなよ?」


「そんなのは小月の勝手だ。それより音門さん、明日、叶江かなえさんのところに連れて行って下さい」


 白鳥さんは東さんを冷たくあしらって、淡々と言った。


「……チッ」


 いつものように舌打ちをする音門巡回官。


「すいません、叶江さんって誰なんですか?」


 僕は、隣に座っている白鳥さんに聞いた。


「カウンセラーだ。小月の心は少し、精神的に乱れている。今のままでは、今後の職務にも影響が出るだろう」


 今日の出来事は、僕の心に負荷をかけすぎたため、カウンセリングを受けろ、ということか。紛れもない事実を見た後に、カウンセリングで何をしてもらえって言うのだろうか。


「叶江さん、本部の中で一番ババアだぞ。かわいそうだな」


 そう東さんが言うと、白鳥さんは開いていた眼鏡ケースを音を立てて閉じながら、


「……着いたぞ」


 と、車のドアが凍り付いて開かなくなるような声音で言った。

 自動ドアをくぐると、吉野さんが目を輝かせてこちらを見ていた。


「どうだった? 楽しかった? ねぇ?」


 餌を待つ子犬のように、吉野さんは言う。


「パソコンで見ていたくせに、うるせぇ女だよな〜」


「あら、陽夜ちゃんの面倒もロクに出来ない待機員さんは黙ってもらっても良いかしら」


「あれは、その、コイツが勝手に倒れたんだぜ? 俺のせいっていうのかよ!」


 東さんは、僕を指差して賢明に主張する。


「言い訳なんて、見苦しいわよ。俺の監督不行届きでした、ってしっかり言いなさい!」


「はぁ?! 黙れクソ女!」


 言い合いをしている背後から、リーダーの信条さんが近づいてくる。そして二人の肩に手を置き、


「君達、仕事熱心だね。今日は沢山仕事があるんだ、手伝ってくれないか?」


 と、天使顔負けの笑顔を保ちながら告げた。すると、吉野さんと東さんは、


「し、仕事に戻ろうぜ」


「そ、そうね」


 額から冷や汗を流しながら、持ち場へと戻っていった。


「今日も平和だ、フフフッ」



 笑顔を一度も崩すことなく、リーダーは二階へ帰っていった。本当に恐ろしいリーダーである。

 僕は今日も吉野さんに聞きたいことがあるので、話しかけにいった。


「赤い斑点の正体を、教えて下さい」


 あそこまで金におびき寄せられていた住民を見ると、犯罪者や犯罪の見込みがあるエリアが正体だとはどうも思えない。

 吉野さんは髪を靡かせて、言った。


「陽夜ちゃん毎日質問に来てくれるなんて、真面目ね! 男はちょっと不真面目な方が好かれるのよ? ちょいワルってやつ?」


「僕の質問に答えてください……」


 いい加減、この人と会話をするのも疲れてきた。はぁ……。


「んもー、陽夜ちゃんったら。赤い斑点の正体? 低所得者エリアよ」


「低所得者エリア、ですか?」


「ええ。今日の老人もそれね。お金がなくて、青函ホームに入れないのよ」


 あの地域の人達は、本当にお金に困っていたらしい。それなのに我々警察は、甘い言葉で住民を引き釣りだし、一斉送還をしたのだ。これは胸糞悪い事実であり、永遠と脳裏で繰り返される記憶だ。

 音門巡回官や白鳥さん、それから東さんまでもが、このことに疑問を持っていない。一体、どういうことなのだろうか。


「陽夜ちゃん、そんなに顔色を青くして、どうしたのよ?」


「……ごめんなさい、今日は帰らせていただきます」


 僕の足は既に、自動ドアの方へ歩き出していた。



 =   =   =   =   =   =   =


 午前六時。バターを軽く塗ったトーストに挽きたてコーヒー、そしてサラダを食卓に並べ、優雅な朝を過ごしていた。普段なら、仕事終わりに購入した菓子パンでも食べているのだろう。昨日の出来事は、自分にとって深くて重い、簡単に払拭できるような記憶では無かったのだ。こうして仕事の前にいつもと違う朝を過ごすことによって、嫌なことを考える暇を与えない、そういう戦法である。

 しかし、その時間もそう長くは続かなかった。トーストに半分ほど口を付けた所で、家の鐘が、狭いリビングいっぱいに鳴り響く。どうせ宅配便だ、そう思いながらも訪問者を確認するため、インターフォンの画面を見にいく。


「って、音門巡回官?!」


 画面には、キリッとした顔立ちでモニターのカメラを見つめる音門巡回官がいた。とりあえず、パジャマを脱いで正装に着替えよう。すっかり冷めてしまったコーヒーを一気に飲み干してから、僕は急速に動き始めた。


「ごめん、なさい、はぁ、はぁ……遅れました」


「……チッ」


 五、六分ほど待たせた所で、音門巡回官はいつもと変わらない反応をしたのだった。僕は安堵のため息をついたが、その中に呆れのため息も入ってしまったかも知れない……。


「音門巡回官、これからどこに行くんですか?」


「本部に行く」


 確か、昨日白鳥さんが音門巡回官に向かって、叶江さんに会わせるように、と言っていた。しかしこんな朝早くに出発するとは、微塵たりとも思ってもいなかった。


 車に乗ること三十分。総務署、という文字の書かれた大きな看板が出迎えてくれている。

 都市部からは少し外れており、広大な土地を駆使して巨大な建物を構築している。入り口の近くまで行き、車を止める音門巡回官。すると、一人の男性がこちらに近づいて来た。


「音門さん、お久しぶりです」


 僕よりも少しだけ年上に見える若さで、ハキハキとした声。仕事が出来そうな人である。音門巡回官はこれに対し、窓を開けて返事に応じていた。


「おう。坂下さかした、お前成長したな」


「はい、おかげさまで。音門さんは、もうこちらに戻って来ないのですか?」


「あぁ。今の俺には8係がある」


「そうですよね……。了解です」


 話を聞く限り、音門巡回官の後輩らしい。しかも、前は本部で従事していたようだ。これは吉野さんからも聞いていないことだ。


「早く行け」


 音門巡回官は僕の方を見て、一言冷血な声で言った。


「は、はい! 分かりました!」


 案内は坂下さんに任せて、自分は8係に帰るようだ。

 坂下さんと二人で音門巡回官を見送ったあと、ようやく建物に入った。


「ここって、ものすごく広いんですね」


 地下が三階、地上が八階の全十一階ある、と説明してくれた坂下さん。


「お腹空いていませんか?」


 坂下さんはお腹を数回鳴らした後、冷静になってからそう言った。


「い、いえ、朝は食べて来ました」


「分かりました。では、食堂に案内します」


「お願いします。……え?」


 スタスタと先を行ってしまう坂下さん。そんなにお腹が減っているのだろうか。そもそも、僕は叶江さんに用があるのであって、会って間もないこの人と食事、しかも二度目の朝ご飯をなぜ摂らないといけないのだろうか……。


 食堂は二階のフロアにあるため、エレベーターに乗り込んで移動をした。ドアが開くと、そこはまるで、デパートのフードコート街のように沢山のお店が並んでいたのだった。


「す、すごいですね……! あ、このハンバーガー屋さん美味しいですよね! 百円メニューがお財布に優しいんですよね」


「楽しそうで、何よりです」


 そう言って、坂下さんは軽く微笑んだ。不覚にも、はしゃいでしまった自分。だって、ここにフードコートがあるなんて、普通は考えもしないだろう。


 坂下さんはフライドチキンとモッチリンングというドーナツを購入して、窓際の席に腰を下ろした。僕は二人分の水を注いでから、後に続いた。


「景色は、なんとも言えないですね」


 そう言いながら、僕はアイスクレープを頬張る。今日は『9』の付く日なので、通常の半額で買えたのだからお得。


「所詮ここは職場です。殺風景でなきゃいけないんですよ」


 俯きながら言う坂下さん。どうやら、すでに諦めがついている模様。これほどの設備にこの光景、残念以外のなにものでもない。


「音門さんと同じ役職なんですよね、小月しょうづきさんは」


「はい、そうです」


「8係で働く姿は、カッコいいですか?」


 坂上さんの質問の意図が全く分からない。何ゆえこのような事を聞いてくるのだろうか。


「ま、まぁ……」


 いつも無口で、冷淡な巡回官であるが、さすがにこれを口に出すのはやめておこう。


「あの口の重たさ、それから全ての人へ平等に見せる冷え切った態度、やるときにはやってみせる芯の通った人間。どれをとっても、僕には眩し過ぎるんです!」


 目を嬉々とさせて、意気揚々に言う坂上さん。音門巡回官の後輩とは聞いたが、とても先輩思いの強い方で、このようなお世辞を並べたのだろうか。


「警官のジャケットを静かに羽織るあの瞬間、僕も見たいです! 絶対カッコいいじゃないですか!」


 8係の通常服はスーツであるが、巡回をしに行く時は、巡回官限定である、白に8係の名が刻まれたジャケットを着ることが義務付けられている。白である理由は、目立ちやすいから、と研修で聞いた覚えがある。僕から言わせてみれば、汚れが目立ちやすいからですか、と聞きたくなる。クリーニング代がかさむので、今すぐデザインを変更してもらいたいものだ。そして坂上さんは、そんなジャケットを音門巡回官が羽織る瞬間が見たい、と鼻を鳴らしながら言うのだから、本当に意味がわからない。


「今度、8係に遊びに行きます。僕にも見せてください! 絶対ですよ、約束です」


 まさか、音門巡回官にほれているのか? 今までの坂下さんの言動を考えると……いや、考えるのはやめておこう。なんだか怖くなって来た。僕は坂下さんに、空返事を返しておいた。


「小月さんを食事に誘って、今の精神状態を確かめるよう言われたんですけど、なんだか元気そうですね」


「そうだったんですね」


 さっきの会話が意味のあるものだった事を知って、僕は少し元気を取り戻した。


「は、はい、元気です」


 あの光景は克明に記憶しているが、実際に目のあたりにしなければ、あの感情が復活することはないようだ。


「じゃあ、そろそろ行きましょう」


 坂下さんは最後のモッチリングの一粒を口に入れて、立ち上がった。

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