空と地の狭間(最新公開)

森村直也

20190929:彼岸花の向こう側

【第83回 二代目フリーワンライ企画】

<お題>

 鬼さんこちら

 彼岸花が枯れるころ

 教えたはずだ

 優先順位

 イミテーション


<タイトル>

 彼岸花の向こう側


<ジャンル>

 現代。疲れたサラリーマン。


--------------------------------


「彼岸花の向こう側は死んだ人の土地だからね」

 ばあちゃんの声がする。

 炎が消えるよりもあっさりと彼岸花が枯れるころ、ばあちゃんは静かに息を引き取った。死んだひとの土地と生きて居るひとの土地のその境がなくなったんだと幼心に俺は思った。境がなくなり、ばあちゃんは迷子のように行ってしまった。


 ――鬼さんこちら、手の鳴る方へ。


 だからこの季節はどうしても好きにはなれなかった。


 *



「優先順位というものがあるだろう? スケジュールを見る。締め切りを考える。コレは明日まで。コレは来週。こっちは全部終わるのが今週末として、直す時間が要るだろう。なら、いつまでにするか。いいか、そういうのを判断して取りかかるんだ」

 部下はすっかり萎縮してしまっている。指摘すればするほど間違えを犯す。間違えを犯せば俺の時間が削られる。だからなおのこと、俺は部下にきつく言う。言ってしまう。

「もう三年目だろう?」

 ため息が自然と出た。癖のようになっていた。部下はぺこりとかたちばかりの頭を下げると、突っ返した書類を置いてそのまま部屋を出てしまった。

 舌打ちは、もう癖のようなものだった。

「リーダー、顔色が悪いですよ」

「優先順位だ。このくらいで病院なんか行ってられない」

 七年目の部下は不快そうにじろりと見上げてすぐに視線をモニタに戻した。

 画面を見ながら俺を見ることもなく言い放つ。

「あと、いじめすぎです」

 頷く代わりに俺は卓上カレンダーを引き寄せる。今日はここ。明日は打ち合わせで、明後日は会議。

 日数はカレンダーを叩いて数える。指先が微かにしびれるように感じられて、掌を幾度も開閉させ続ける。

 秋の花、彼岸花が写真の中で揺れている。


 *


 ――鬼さんこちら、手の鳴る方へ。


 彼岸花があったと言って、だからどうだというのだろう。

 彼岸花は球根で増える。涼しさを日中でも感じ始める季節になると、集合花壇の一角や、川にへばりつくようなわずかな岸辺や、空き家になって久しい家の草に囲まれた庭の中に燃え立つような花が咲く。

 もっともそれを見るのはもっぱら日曜で、しかもずいぶん陽射しが傾いだ頃だ。

 日曜日、昼過ぎまで寝て過ごした俺は妻に蹴り出され買い物に出る。平日闇に紛れて見ることもない燃え立つ緋色を目の隅に捉えながら。


 ――鬼さんこちら、手の鳴る方へ。


 俺はこちら側にいるのだし、向こうへ渡るとか、そんな暇などありゃしない。


 *


 帰宅すると真っ赤な彼岸花が目の前にあった。居間のドアを開けると目の高さに彼岸花が見事に咲き誇っていた。

「あ、お父さん。――じゃぁ、また後でね」

 彼岸花は娘の頭で咲いていた。動きに合せ彼岸花はチラリキラリと光を反した。

 娘は固定電話の受話器を置いた。携帯電話は中学生には未だ早いと買い与えてやっていない。代わりに居間の入り口に親機を置いた固定電話は娘の占有のようになっていた。

「なに」

「あ、いや。花が」

「これ? 綺麗でしょ。ディップアートって言うの」

 娘の声のトーンが上がった。

 友達の親御さんが作ったのだということ。それを頂いたのだと言うこと。お礼を持ってこれから出かけるのだと言うこと。

 よく見れば透き通った赤い皮膜が針金の間を埋めている。

 細くくねったかたちに整えられた赤いそれを幾本も集め、彼岸花に見立てたものだとようやく気付いた。それを更に束ねて、アクセサリーにしたものらしい。

「偽物(イミテーション)か」

「造花じゃないよ。もともとこういうものなの!」

 娘はぷっと頬を膨らませた。自棄に白い頬をうっすら桃にして、自棄に赤い唇をとがらせて。

「化粧してるのか」

「いいじゃん、ちょっとくらい。お祭りなんだから!」

「祭?」

 よくよく見れば首から下は浴衣だった。暑い最中には決して袖を通そうとはしなかったのに。

「天神様のお祭り! そんなことも知らないの!?」

 どいて。俺をどかすと娘は出て行く。おかーさん、下駄出してー! どこかで作業している妻を、俺に対しては使わない少し甘えたような口調で呼ぶ。

 面白くない。

「彼岸花なんて、縁起でも無い」

 そんな気持ちが湧いたから、つい、口が滑った。

 だめだと知っているのに。

「なんで? 綺麗じゃん」

 娘の声のトーンが下がった。胡乱げな視線を俺によこす。

 この視線が嫌で、つい、俺は悪態を吐く。

「知らんぞ、彼岸花を渡っちまっても」

「はぁ? なにそれ。渡ってどうなるのさ。変な迷信。あーあ。折角可愛く出来たのにケチついた。……お母さんー!」

 ここ一年くらい、娘はずっとこうだ。


 面白くない。

 娘が行ってきますと玄関を出て行く。アクセサリーのお礼をした後、近所の神社の祭りを見て回るのだと妻が早口でまくし立てる。

 買い物の袋を渡す。俺はソファにどかりと座る。

「水くれ」

「水くらい勝手に飲んでよ」

 自然に舌打ちが漏れた。妻の罵声が飛んでこないかとほんの一瞬肩をすくめた。

 喉が渇いていた。歩いて往復したのだ。喉くらい渇くだろう。

 立ち上がった。痺れたように腕の感覚が自棄に鈍い。

 足を踏み出そうとした。あらぬ場所を蹴り上げ、倒れた。

「なに、今の音。どうかしたの」

 なんでもない、言おうとした。口から漏れたのは妙なうめき声だった。

 腕をついた。起き上がろうとして、失敗した。

「お父さん!!」

 失敗、して――。


 *


 ――鬼さんこちら、手の鳴る方へ。


 彼岸花が枯れてしまった。

 境はどこだ。境はどこだ。

 死人の世界と生者の世界の。俺が帰るべき場所の。

 彼岸花がどこにも……あった。

 俺はそっと手を伸ばした。思ったよりも固く柔くひいやりと冷たい感触がある。木々の隙間を通った陽射しを緩く柔らかく跳ね反す。イミテーションの彼岸花。

 あぁ、ここが境か。

 ここから先は、俺には、行けない。


 ――鬼さんこちら、手の鳴る方へ。


「教えたはずだよ。彼岸花の向こう側は死んだ人の土地だって」


 彼岸花の向こうから懐かしい声が背中を押した。


 *


「お母さん! お父さんが目を……!」



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