第131話 机をバン!の思い出

 同じクラスだった留学生の名前を、先日ふと思い出した。

 インドネシアからの留学生ルッキーさんだ。

 英語のラッキーLuckyと書いて、ルッキーと呼ぶ。ああ、懐かしいな。すごく日本語が上手な人だった。

 インドネシアから持参したコーヒーキャンディーは、日本にはない美味だった。

 今頃は、地元で布教活動に励んでいるのだろうか。


 あれから三年後の夏、まだ調停が続いていた時、面会で娘に話した。

「メイちゃんの行きたいところをお母さんにちゃんと言わなあかんよ。お父さんも、メイちゃんが行きたいところへ行けるように、裁判所でおじいちゃんみたいに怒ってるんやからな」

「机をバン!て叩いたんか?!」

 娘が目を丸くして、私に笑った。

「ん? おっ、そうそう! 机をバンって叩いて、怒ったんや。

 裁判所は、すぐ嘘つくからな。嘘をつくな!って怒ってやった!」


 娘が言う「机をバン!」は、あの夏の日。

 宿舎の応接室でのことだ。

 娘と私と私の父。相対するは、娘にお漏らしさせた中尾と副主任の石田さん。一番の責任者である主任は、出張中で不在。父が話をしに来ることは事前に伝えてあったはずだが、そういう卑怯さがある人だった。

 娘がこの宿舎で生活しやすいように配慮してやってほしいと懇願…、いや注意するために、父は数百キロの道のりを一人で運転して来た。


 娘のトイレや飲み物などで、時々私と二人で応接室を出て、時々部屋へ戻った。すぐに用事を済ませると、娘は急いでエレベーターのボタンを押し、応接室へ戻ろうとする。

「おじいちゃんが負けるとアカンから、早く戻らないと!」と玄関ホールを走って、「急いで!」と私の手を引いて応接室へダッシュする。


 宿舎の主任も副主任も世話係も、毎日の掃除や食事の準備と後片付け、風呂掃除、ゴミ集め。幼児連れの私の大変さなど気にせず、一切の手抜きを許さず、きちんと各自に仕事を割り振り、しかも楽器や踊りの練習への積極参加を求めてくる。

 その時間、娘を事務所に預けたら、大学生に世話を任し、私が事務所に戻ったら、ケガをして泣いて、泣き疲れて寝ていたことがあった。

 目の上には、水で濡らしたタオルがのせてあった。

 掃除している大学生のそばで、階段の手すりに目のそばをぶつけたそうだ。目の下が大きく腫れ上がり、紫色になっていた。

 それを父に指摘されると、副主任石田が強い口調で反論した。

「ちゃんと手当しましたっ!!」

「そんなの当たり前じゃないですか! そんなことを言っているんじゃありません!

 どうしてもボランティアの参加が絶対で、子供を預けなければならんのなら、きちんと預かったほうは面倒を見るのが当たり前でしょう!

 それをケガさせておいて、手当するのは当然や!」

 すぐに、石田が黙り込む。


 また、娘と廊下へ出ると、玄関ホールの奥、窓側のソファーで、お漏らし事件の共犯者、いや教唆者である西山がのんきに新聞を読んでいる。西山のご意向を忖度して実行した中尾が、身代わりになって怒られているのに。

 新聞の端から、走っていく娘の姿を盗み見ている姿は、大声でもめている応接室の様子を気にしているようだ。

 被虐待児だった里子を殴った中尾は、のらりくらり反省の様子はない。言い訳ばかりで、この宿舎に待遇改善の様子は見られない。

 もうすぐ、娘と二人、故郷へ帰り、安全な方法で引き渡しに応じることになるだろう。せめて、それまで父と娘が楽にいられるようにしてほしい。それが、おじいちゃんの願いだった。

「机をバン!」は、その時の娘の思い出だ。

「私の話を聞きなさい!」

 すぐ言い訳してごまかそうとする中尾に、父が目の前のテーブルを叩いて怒った。

「おじいちゃん、がんばって! 負けないで!」

 中尾を怒るおじいちゃんのすぐ横に立って、娘が小声でささやく。隣に座る私は、思わず苦笑した。

 この子は、強い。きっと大丈夫だ。どんな環境でも、強く生きていける。父である私が保証する。


 三人で部屋に戻った。

「昔から、言うても分からんアホにいくら言うてもしょうがないと思ってる。だから、今までそんな怒ったことがない」

 そう言う私に、父が静かに諭した。

「アホに何も言わんかったら、世の中は何も変わっていかん。

 自分で自分を変えられんアホでも、ガツンと怒られたら、怒られたという思いだけは残る。そこから、何かが変わるかもしれん。変わらんからと最初から諦めて、何も言わんかったら、それこそ何も変わらん。

 言わなあかんことは、言わなあかん。それが、そいつのためにもなる」

 そんなもんかと受け取り、父の帰郷を見送った。


 神様は、不思議なもんやと思う。

 この町を去る日、私もガツンと言うべきことを言う機会が訪れる。

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