第115話 父娘の居場所がない宗教

 暑い夏だった。午後三時に学校が終わると、娘と二人で、毎日のように食堂近くの自販機でアイスを買った。

 たまには贅沢して、アーケード商店街の喫茶店で、ケーキやアイスを食べた。

 汗を流しながらのベビーカー通学で、唯一の楽しみだった。


 父親である私には、こうやって、娘を奪い去られる危険なく、そばで見守り暮らせる束の間の時間が、最高の幸せだったのかもしれない。

 相変わらず、妖怪ウォッチのカードのガチャは、娘の日課だ。


 学校の食堂はエアコンが効いていたが、外は猛暑だった。車も自転車もない。

 ベビーカーを押して、食堂に入り、片手でトレイに御飯やおかずを載せるのは至難の業だった。

 宿泊所も学校も、食事は一人分だけにしてもらって、二人で分け合った。娘の好きなおかずの時は、私の食べるものがなくなったが、二人分を頼んで余らせて捨てるよりマシだし、娘の世話で手一杯で私がゆっくり食事する時間もない。

 たまに出される素麺はお気に入りだったが、子供の好きなおかずがない日が多く、娘の好物は主に醤油御飯になった。白い御飯に醤油をかけただけで、体に悪そうだが、おかずが少なく我慢させているため、なかなか言いづらい。

「しょうゆごはん!」

 テーブルに着くなり、醤油に手を伸ばす。

「かけすぎたらあかんよ。ちょっとな、ちょっと」

 遠慮気味に注意する。


 宿泊所に帰ると、ゴミ集めや風呂掃除、夜の楽器や踊りの稽古が待っていた。

 この宿泊所の人間は、幼児連れに容赦がない。

 私自身、踊りの稽古に嫌々ながらにつきあった。

 申し訳ないが、この宗教の信者ではない。万が一、裁判で奇跡が起こるなら、完璧に踊りをマスターするが、中尾先生でさえ生まれた家が教会だっただけで、奇跡を信じている様子はない。

 生まれて初めて習う踊りに、やっとの思いでついていっただけだった。

 踊りの途中で我慢できずに、娘が泣き出す。

 京都の布教所の二十代の娘さんは、容赦なく娘に怒った。

「練習の邪魔になるから、静かにして!」

 泣く娘を連れて、部屋を出た。

 そんなことを繰り返すうちに、私たちを追いかけて来た中尾先生が注意した。

 初めて会った時は、虐待する母親から里子を預かった経験を語った中尾だったが、被虐待児は中尾に手に負えない存在だったようだ。どうにもならなくて、一発殴ったこともあったが、教会を離れる日、その子は「おっちゃん、また来るね」と言ってくれたという話だった。これ以上、俺を怒らせると、鉄拳制裁もあり得るという脅しだったのだろうか。

 中尾自身、育児法の受講が必要な人間だった。


 朝は、娘をおんぶしながら、風呂掃除をした。

 他の人から、降ろして脱衣所に待たせるように言われ、仕方なく従った。

 そのうち我慢できなくなって泣く娘に、滋賀から来たおばあさんが叫んだ。

「やかましい! おだまりっ!」

 ここの生活は、幼児連れには地獄でしかなかった。

「さっきは、怒ってごめんなさいね」

 あとで、そのばあさんは、娘にキャンディーを渡したが、娘は笑顔一つ見せなかった。

 愛情のない人間が、子供を物で釣れると思うなら、浅はかな考えだ。怒ったことをあとで謝るくらいなら、最初から自分の感情を制御したほうがよい。


 神様の町の異常な宿泊所生活は、さらにエスカレートしていくことになる。

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