第30話 110番通報

 妻と娘が消えた翌日、妻に理由を聞くため、勤め先のビルの一階ロビーで待っていた。

 何と言い出せばいいか分からないため、緊張で胸がドキドキしていた。

 ロビーにはテーブルとイスがいくつも並んでおり、見つけたらここで座って話そうと思い、帰り際を見逃してはいけないと考えたら、余計に緊張した。


 五時を過ぎ、帰宅の時間が来た。エレベーターの近くに移動すると、義父が傲岸不遜な表情で立っていた。


 妻が降りてきた。


「そこで話がしたい」

 静かに声をかけた。


 私を無視しながら歩くため、彼女の腕をつかんだ途端。

「離して!」

 妻は大声を出した。

 周りには妻の同僚もいるだろうけど、そんなことは気にしないようだった。


 妻の後を追い、駐車場にある義父の車の後部座席に座った。

「娘に会わせてください」

 運転席のドアを開けた義父に頼むと、彼は黙ってドアを閉め、車から離れた。

「娘のところに連れていってください!」

 駐車場の真ん中に立つ義父に声をかけた。

「警察が来てからです!!」

 義父は、私の言葉を打ち消すような大声で叫んだ。

 110番通報したようだった。サイレンが鳴り、警官がかけつけた。

 駐車場は、騒然となった。

 野次馬の人だかりの中で、妻は同僚と一緒に平然と話していた。

 義父は、堂々と駐車場の目立つところに立っていた。

 あの親子には、恥という感情はないのかもしれない。「自分たちは被害者だから」という思いかもしれないが、騒ぎの当事者という意識はないようだ。

 後部座席に座る私に、警官が声をかけ、事情を聴いた。

 妻のところから別の警官が来た。

「旦那さんは落ち着いてます」

「奥さんのほうは、きつい性格ですね」

 二人が車から離れて話す声が聞こえた。

 パトカーに先導されながら、義父の車、私の車が続き、警察署に向かった。

 生まれて初めて、取調室に入った。昔見た刑事ドラマのように、部屋の前には、黒い板に白字で「取調室」と書かれた小さな看板が掛けられていた。

 妻の事情聴取を終えた警官が、私の話を聞く。

「まったく話がかみ合ってない…」

 驚きあきれる様子が伝わった。

 私はこれまであった事実を伝えたつもりだが、妻は妻でまったく逆の主張をしているようだった。

「もう同じような騒ぎを起こさない」と記された念書を警官が持ってきた。

 すでに妻と義父の署名と拇印があった。その下に私も名前を書き、拇印を押した。

「立ち合いますから、二人で話し合われますか」

 警官の問いに

「お願いします」

 とだけ答えた。

 何を聞いても、妻は「実家で考える」と繰り返すだけだった。

「一緒にカウンセリングを受けてほしい」と何度も頼んだ。娘が私の手を離れて妻の元にいる以上、安心して暮らせるようにするために、心理療法を受けて少しでも妻の精神状態が改善できればと考えたからだ。

「私はおかしくない」

 妻は無表情のまま、壊れたレコードのように、そう繰り返すだけだった。

 後部座席に私と娘を乗せて時速八十キロ以上で大声を出しながら暴走運転したこと、「踏切に突っ込めば良かった」と言ったこと、娘に「ザクザクに切れてしまいね」とハサミを渡したことについて尋ねた。

「全部分かっていてやっている」

 彼女は堂々と答えた。

「あの時は、事故を起こすかもしれないと分かっていて走っていたし、踏切に突っ込めば死ぬと分かっていて、そう言った。自分でちゃんと分かってやってるんやから、おかしくないやろ」

「ハサミで手を切って血が流れれば、痛いから次からはしなくなる。これは教育なんや」

 同じ部屋で警察が聞いていることも気にせず、妻は当然のように話す。

「ひどいことをしても、二~三歳のことは覚えていないから、大丈夫や」

 堂々とした妻の返事に、私は言葉を失った。


 その夜、両親と食事をしながら、妻の様子を話していた時、我知らず涙がこぼれた。

「かわいそうや…」

 涙があふれた。

 もちろん、妻の異常さがかわいそうなのではない。あまりの異常さに、ぞっとしただけだ。

 夕方、アンパンマンの三輪車を押して出かけ、毎日一緒に公園で遊んだ娘。

 夜、一緒に手をつないで眠った娘。

「あの子が、かわいそうや…」

 声を絞って両親に訴えた。

 あとはただ、涙がこぼれるだけだった。

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