羊の恩返し

麻(asa)

羊の恩返し

 早朝に、玄関の薄い扉を叩く音がしました。

 インターフォンもまともについていない、このおんぼろアパートがついに取り壊されると、早起きのおばあちゃん大家が知らせに来たのかもしれない。来客といえば、私にはそのくらいしか思いつきませんでした。

 サンダルをひっかけ、扉を開けます。

 そこには、ふわふわのベージュ色の髪の女の子が立っていました。


「おねーさん! やっと会えたー!」


 顔を見るなり抱きついてきた見知らぬその子は、慣れ親しんだ、草と土のにおいがしました。


「わたしっ、あのとき助けていただいたヒツジですっ」



 ヒツジを助けた覚えはない、というと、それは嘘になります。

 近所にある小さな動物園に、私はほとんど毎日通いつめていました。理由は、年間パスポートの金額がおそろしく安いということと、動物をながめている間だけは心穏やかでいられるということ。


 昨日もいつも通り、園内を1周したあと、ふれあい広場のベンチでぼんやりしていました。

 ふれあい広場は、柵の内側にいるヤギやヒツジに、1回100円でおやつをあげることができるというエリアです。ただ、この場所ではしゃぐ子どもたちも、おやつ欲しさに張り切って動き回る動物たちも、私は一度も見たことがありません。

 動物たちは皆それぞれ、居心地のいい場所で静かに過ごしているようでした。


 そんな中、私がやってくるといつも近寄ってくる、1頭のヒツジがいました。以前、柵のすきまから少し撫でてやったら、なんだかなつかれてしまったのです。

 動物を紹介するパネルを見てみると、それは「メイ」という名前のメスのヒツジであるようでした。

 彼女はいつも、小走りでやってきては、柵にぶつかるギリギリのところでブレーキをかけていました。しかし昨日は勢いあまって、柵に頭からつっこんでしまいました。さらに悪いことに、くるりと巻いた角の先が、金網に引っかかってしまったのです。


 私は慌てました。慌てすぎて、飼育員さんを呼ぶという選択肢を思いつきませんでした。


 金網を押したり引っ張ったり、格闘すること数分、彼女の角は無事にはずれました。

 あのあと、逃げるでもなくじっと見つめられたので、「お礼でも言ってるのかな」と思いました。たしかに思った、けれど。でも。



「さすがにこの展開は予想してなかったよね……」

「ん〜? のんちゃん、何か言った〜?」

「……ううん、なにも」


 あの日の朝、人間の姿になって現れたメイは、そのまま私の部屋に居ついている。

 風呂に入れたあと、細くて量の多い髪にドライヤーをかけ、ブラッシングしてやるのが日課になった。



 初めは当然、何かの冗談だと思った。こんな手垢にまみれた昔話みたいなことが実際に起こるなんて、信じろと言われても無理に決まっている。

 それでも自分はあの動物園のヒツジで、助けてもらったお礼が言いたくて人間の姿になったのだと彼女が言い張るので、私は「証拠を見せてほしい」と言った。

 あの動物園の、ふれあい広場にいるあのヒツジでなければ知らないことを話してほしい、と。


 すらすらと、彼女はしゃべり始めた。

 私が初めて動物園にやってきた日、ふれあい広場に入ってきた時間。

 かまってほしくて柵にへばりついていたら、そっと撫でてくれた指先のあたたかさ。

 いつも左端のベンチに座って、何も考えていないような、でもどこか悲しいような表情を浮かべていること。

 そして、金網に引っかかった角をなんとかはずしてやろうと、ひとり必死で汗まみれになっていたこと。


「それに!」


 彼女はひときわ大きな声を出し、私の手をつかむと、垂れた耳と立派な角に触れさせる。

 そこには明らかに血の通ったぬくもりがあって、耳の端には見覚えのあるピンク色のタグがくっついていた。


「ね、本物でしょう?」


 そう、彼女は確かに人間の姿だったけれど、耳と角だけはヒツジのままなのだ。



 メイがひくひくと鼻を動かし始める。


「のんちゃん! おいものにおいがする!」

「あー、焼き芋屋さんか。もうちょっと近くに来たら買ってきてあげるよ」


 ヒツジは嗅覚に優れているらしく、半分人間になった彼女も例外ではない。

 そういえば私の家を探し当てられたのも、私のにおいを動物園から辿ってきたからだと言っていたっけ。


「わたしも一緒に行く!」

「いいけど、パーカーのフードちゃんとかぶってね」


 同居生活が始まって、3ヶ月。

 こんな毎日も悪くないなと、私は思うようになっていた。




 真夜中、ふと目を覚ますと、寝床にメイの姿がなかった。ふすまの間から灯りが漏れている。

 深く考えずに、私はそこから居間を覗いてしまった。


「あ、のんちゃん。ごめんね、起こしちゃった?」

「何してるの、こんな時間に」

「へへ。今ちょうど出来上がったところなんだ〜」


 彼女が得意げに差し出したのは、1着のセーターだった。

 彼女の髪色と同じ、ベージュ色の。


「がんばって作ったんだよ、着てみて」


 私は、気づいていた。

 毎日ブラシをかけている彼女の髪が、少しずつ短くなっていることに。

 こんな生活が、いつまでも続くわけがないということに。


「……もらえないよ」

「え?」

「もらえない」

「のんちゃん、泣いてるの?」


 言われて、自分の頬に触れる。

 涙が出るのなんて、一体いつぶりだろう。


「だって、それ受け取ったら、メイは家から出ていっちゃうんでしょ。私が覗き見したから」

「のんちゃん」

「わかってたもん、昔話とおんなじだって。いつか終わっちゃうんだって。だけど」

「のんちゃん!」


 強く抱きしめられて、涙がますます溢れてくる。

 もっと早く素直になっておけばよかった。メイが大事だと、ずっと一緒にいたいと、そう言えばよかった。


「あのね。わたし、出ていかないよ」

「…………え?」

「確かにこれは、のんちゃんの知ってるお話に似てるかもしれない。でも、どんなに似てたとしても、それは別のものなんだよ」


 子どもをなだめるような声で言うと、メイは腕をゆるめ、いたずらっぽく笑う。


「それにわたし、『助けていただいたヒツジです』って、最初に言っちゃったし。正体バレバレだし」

「でも」

「これはね、恩返しでもなんでもないの。わたしがのんちゃんに、着てほしいなって思ったから編んだの。ね、着てみて」


 ティッシュで涙と鼻水を拭い、パジャマの上にそのままセーターを重ねる。

 やわらかくて、あたたかい。

 また涙がこぼれそうになって、私は両方の袖に顔を埋める。


「……これ、うちのシャンプーのにおいがする……」

「わたしの毛で編んであるんだから、そりゃそうだね〜」


 あっはっは、と、メイは口を大きく開けて笑う。

 私もつられて、おかしくなって笑う。



 その日、私たちは、ひとつの布団でくっついて眠った。

 お互いの存在を確かめ合うように。

 ずっとそばにいると、誓い合うように。


「ねえ、のんちゃん」

「うん?」

「わたしがヒツジの姿に戻っても、一緒にいてくれる?」

「そのときは、広い庭のある家に引っ越さないとね」

「ふふ。それも楽しそう」



 こうしてふたりはいつまでも、幸せに暮らしました。


 おしまい。

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