愛すべき我楽多

白粉花(おしろいはな)

西日のカッターナイフ

「ほら、早く服脱いで」

 そう言って三人のうち一人が私に向かって大きめのカッターを突き出した。私は身動きせず彼女たちを観察する。

 カッターを突き出している彼女を除いた二人はやや後ろに下がって更衣室の扉を塞いでいた。三人を押しのけて脱出するのは難しいだろう。

 まさか彼女たちがここまで大胆な行動に出るとは思ってもみなかった。今までの学校生活では自分しか気づかないような、ささやかな嫌がらせだけだったのに。運動部のマネージャーとは、そこまで嫌われる存在なのか。それとも、彼女たちが言う部活の素敵な先輩とやらに関わって欲しくないのか。

 どちらにせよこちらに他意はない。迷惑な話だ。

 それに、半裸の写真を撮って脅すというのもありきたりで、ナンセンスである。もちろん被害者の自分がそれを口に出すことはないが。

 先程からこちらを凝視する三対の瞳には、優越感や自尊心が滲み出ている。口元には醜い歪みが刻み付けらていて、思わず私は目を眇めた。

 その様子が気に入らなかったようで、彼女たちが声を挙げる。

「何してんのよ、早く!!」

「写真、ばらまかれたい訳?」

 そう言ってより一層醜い表情を浮かべた。クラスメイトの「かっこいい」男子にはもう少しましな顔をするのだが。

 一連の流れを私は、朝のニュースを見るような顔で観察していた。自分が窮地に立たされているはずなのに、焦りや動揺といった感情は一切湧かない。一週回って彼女たちが滑稽に見えてくるぐらいだ。そのままぼうっと突っ立っていたら、しびれを切らした様子の罵声を浴びせられた。

「遅い。馬鹿にしてんの?」

 その言葉と同時にカッターが近づいた。小さな刃が舞い、すっと右腕に赤い筋が刻み付けられる。私は自身の感覚神経が急き立てるより速く、切り付けられたばかりの右腕を動かし、カッターの刃を手のひらで握りこんだ。冷たい金属の感触を味わう。

 きっとこの工作用カッターナイフは、軽い気持ちで持ってきた脅し道具だったのだろう。彼女たちの表情には明らかに動揺が溢れている。こうも分かりやすい反応だともっとからかいたくなるなぁ、と思った。

 カッターを握った手からは鮮度の良さそうな血が絶え間なく滴り落ちている。右手に軽く力を入れてみると、カッターがぐじゅりと形容し難い音を立てて手のひらに沈みこんだ。その勢いで手にたまっていた血が溢れ、小さな雫の群れがカッターの持ち主の方に跳ねる。赤の放物線を描いて、白い制服のシャツの袖口に赤い模様が染み付いた。

「……っ、ひぃっ!!」

 今まで茫然としていたカッターの持ち主は、やっと我に返ったのだろう、カッターから手を離した。さっきまでの威勢は何処へやら、三人は怯えた様子でこちらを見ている。

 おもむろに私はカッターの刃から右手を離し、左手で持ち手を握る。緩慢な動作で彼女たちに向き直り、右の手のひらを掲げて見せた。血が腕を伝い、肘まで垂れてはぽつり、ぽつりと一定のリズムを刻む。

 耳障りな金切り声を挙げて彼女たちは去っていった。

 ゆっくりと右腕を下ろしふと足元に目をやると、小さな赤い染みが床を彩っていた。これ、誰が掃除するのかなぁ、なんて他人事のように思う。

 いい加減保健室に行こうとして、壁の鏡が目に入った。

 電気をつけていない薄暗い更衣室を照らすのは窓から差し込む西日だけで、その光が空気中の埃を映し出す。鏡の前に立つ制服姿の自分は血に濡れていて、その光景はどこか現実離れしているように感じた。目線を上に走らせ、その人物とかちり、と目が合った。



橙色に溶け込む少女が笑っていた。

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