第10話 十三夜
八月---政宗は、先年家督を継いだ際に、其れまでの恭順を翻して二本松氏に寝返った大内定綱の支城、小手盛城を攻め落とした。
―不快極まりない。―
政宗は、ある意味、ひどく潔癖症だった。立場を二転三転させる大内定綱の挙動が若い政宗には許せなかった。と同時に、家督を継いだ途端の裏切りに―舐められた―とひどく傷ついたのは確かだった。
確かに若輩ではある。しかし、父-輝宗が存命にも関わらず平然と掌を返されたその事が、政宗をいたく傷つけた。
―父には従えるが、我れには従えぬ---ということか。―
と、一気呵成に攻め立て、まず支城たる小手森城を攻めた。ただ攻めるに止まらず、城中の大内氏の一族とその将兵およそ八百人を撫で斬りにして、殺した。
震え上がった大内定綱は、自らの居城、小浜城を捨て、二本松に逃げ込んだ。
政宗ら伊達軍はまったく兵を損なうことなく、小浜城に入城を果たし、一息ついていた。
―してやったり。―
―大勝利じゃ。―
と勝利の美酒に酔う政宗に、家臣達の中には、一抹の不安を抱く者もあった。
特に、輝宗の代に当初から仕えている旧臣達は、胸騒ぎを禁じ得なかった。
奥羽は、婚姻による和合政策で均衡を保っていた。干戈を交えても、いわば小競り合いで、互いに腹のうちを探りながら、命脈を保ち、決定的な対立を避けてきた。
政宗の小手森城攻めは、その危うい均衡を真っ正面から打ち破るものであった。
―若殿、ご油断めされますな。―
老臣の中でも、家中の要の重責を担ってきた鬼庭左月は、ひときわ険しい顔で、政宗の正面にどっかと座って、言った。
―若殿は、これにて近隣の全ての国を敵に回されたのですぞ。―
―承知じゃ。―
政宗は、盃をくぃ---と傾けて、鬼庭を真っ直ぐに見た。
―伊達はこれより、奥羽を制し、天下に打ってでる。いわば、これは鬨の声よ。―
爛---と光るその眼に、左月は言葉を失った。人ならぬもの---をそこに見た気がして、一瞬、背筋が凍りついた。
―如何がした?―
通りかかった輝宗の柔和な声が、凍りついた場の空気を溶かした。
―大殿---いえ、何事もございませぬ。ただ---若殿には、総大将ゆえ、無茶はなされぬよう、申し上げていた次第でございまして---。―
―無茶などしておらぬ。―
左月の言葉に不機嫌そうに口を曲げる政宗に、輝宗は柔らかな微笑で諭した。
―政宗、左月は案じておるのだ。そなたの首には、伊達の者全ての首がかかっておるゆえ---な。―
―は---。―
政宗は不承不承ながら、穏やかながら、有無を言わせぬ輝宗の眼に、頭を下げざるを得なかった。
だが、その危機感を、誰よりもその身に感じているのは、他ならぬ輝宗だった。温厚であることで、周囲をじっと見詰め続けてきた輝宗には、周囲の諸大名達が、如何に老練で狡猾か、身に沁みるほどわかっていた。
そして、若い政宗の純粋で率直な性情には、それを受け止めるだけの質が備わっていない---それが輝宗にとっては、一番の危惧だった。
―贄に、なるか---―
若人達の高らかな笑い声を背後に聞きながら、輝宗は、櫓の傍らに薄雲に霞む月を見上げた。
―かたみ月---か。―
その夜、輝宗は、密かに左月を部屋に呼んだ。
―夜分に済まんな--。―
輝宗は、左月に近くに寄れ---と手招きをした。
―何用にございますか。密かに参れとは---―
いぶかる左月に、輝宗は穏やかな笑みを浮かべて言った。
―二本松から、使者が来た。―
―は---?―
左月は、一層眉をひそめた。
―和議を申し入れたいそうじゃ。---―
―そ、それは---。―
罠では---と言いかけて、左月は口をつぐんだ。
―左様、罠であろうの---。―
輝宗は、表情を変えることなく続けた。
―ゆえに、わしが、行く。―
―お、大殿---。―
目を見開き、何かを言いかけた左月を扇子で制して、輝宗は今一度、にっこりと微笑んだ。
―政宗を、頼むぞ。―
二人の頬を一筋の滴が伝った---。が、その事を知るのは、ただ雲を拭い去った十三夜の月だけだった。
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数日後、近くの宮森城にて、輝宗と二本松城主、畠山義継の会談が行われることになった。
輝宗は、―鷹狩りにでも行ってまいれ。―と政宗を促し、同時に、
―此方の山には猪が多く出るそうじゃ。勢子達に鉄砲を持たせて参れ。―
と命じた。
―鷹狩りに鉄砲---?―
政宗は、いささか不審に思ったが、輝宗の言葉に従い、輝宗を見送り、近くの野に出掛けた。
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会談を終えた直後のこと見送りに出た輝宗が、畠山義継の一行に拉致された---との報せが政宗の耳に飛び込んできたのは、その帰途だった。さしたる獲物もなく、ただの気晴らしであった鷹狩りが、一瞬にして戦に変わった。
―何だとぉ!?---ち、父上、何故に---。―
平素から、温和ではあるが、用心深い輝宗だった。
それが、政宗の目の前で、首に刃を突き付けられ、畠山義継に引き摺られている。
「ち、父上---。卑怯なり畠山、父を離せ!」
小さいが、流れの急な瀬を挟んで叫ぶ政宗に、畠山はせせら笑うように言い放った。
「笑止なり。己が父は、我らが質。小僧がいくら吠えたとて、父を盾にされては、手も足も出まい。大人しゅう、己が里へ帰れ!」
政宗は、唇を噛んだ。川向こうでは、飛び掛かることもできぬ。鉄砲は、ある---さりとて、この距離では父を避けて狙うのは、困難極まりない---。
構えさせはしたものの、政宗の身体は凍りついたように固まってしまっていた。
血が滲むほどに拳を握りしめる政宗の耳に、輝宗の声が、叫ぶ声が突き刺さった。
―撃て。―
―わしごと、畠山を撃つのだ。躊躇うな!―
―ち、父上---。―
政宗は、目を見開いて川向こうの父を見た。微笑んでいた。
―躊躇うな、そなたは先へと、己のが道を前に進むのだ。―
お前は龍の子ぞ---と、その言葉は、政宗には届かなかった。
政宗は、顔を伏せ、肩を震わせた。長いような短いような時が掠めていった。
政宗は、ようやく顔をあげ、そして、ぐ---と唇を噛みしめ、悲鳴にも似た叫びを上げた。
―撃て!―
鳴り響く銃声と火薬の匂いがあたり一面を被った。
政宗の霞んだ視界の中で、川向こうの人影は次々と崩折れていった。
―政宗さま---―
目を見開いたまま立ち竦む政宗の背に、小十郎の手がそっと触れた。----と同時に政宗は弾かれたように川を走り渡り、横たわる父の身体を掻き抱いた。その手にまだ暖かい血が幾重にも滴り落ちた。
輝宗は、一瞬、眼を開き、政宗に笑いかけ---そして永遠に瞼を閉じた。
政宗は、無言で立ち上がると、刀を抜き、傍らで事切れた畠山の遺体を狂ったように切り刻み---背を向けた。
―父を---城に運んでくれ。―
ズタズタに切り裂かれた畠山義継の遺体は、藤蔓で繋ぎ合わされ、小浜城下に晒され---政宗達一行は、重く頭を垂れて、小浜城を後にした。
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既に悲報を受けた米沢の城の中は騒然としていた。
政宗は、青ざめた面を殊更に硬く、ぐ---と口許を結び、父の遺体を丁寧に清めさせ、葬儀の手配を整え、自室に戻った。
息が、止まりそうだった。胸が千切れるかと思うほど締め付けられ、脇息に置いた手は、わなわなと震えが止まらなかった。
---と、するすると衣擦れの音が近付いてきた。
政宗は、一層、身体を強張らせた。
「入りますよ。」
大御台さま、今は---と制止する小十郎を意にも止めず、その背が政宗の居室に滑り込んだ。
「葬儀の手配は済みましたか?」
義姫は、政宗の前に座ると、落ちついた声音で、言った。さすがに顔は血の気を失い、唇もひどく青ざめていたが、その声音に乱れは無かった。
政宗は、あまりに意外な言葉に、ピクリ---と身を震わせた。
「は---既に整えました。」
と答えると、義姫は、そう---とひとこと言って立ち上がった。
「なれば---あとは、成すべきことは、わかってますね。」
政宗は、無言で頷いた。
「武運を---祈っていますよ。」
義姫は、それだけ言って、政宗の居室を出た。
そして---平伏する小十郎に、―政宗を頼みます---―と言い置いて、立ち去った。
小十郎は改めて、その後ろ姿に平伏した。
―強い---お人だ。―
息子が夫を殺した。
だが、それより他に手立てが無かったことを、しっかりと正面から受け止めている。
―先へ進まねばならぬ。―
その事を、少ない言葉で政宗に見事に伝えた。
―しかし、政宗さまのお心は---―
と、その背に問おうとして、小十郎は、はっ---と気付いた。
―頼みます---―
という義姫の言葉が、胸に刺さった。
やや暫しして、小十郎は、静かに主の居室の戸を開けた。
政宗は、脇息を握りしめたまま、俯いて、ただただ唇を噛みしめていた。
小十郎は、一歩二歩、政宗ににじり寄った。
―小十郎---―
政宗は、ほんの僅かに顔を上げた。白蝋のように血の気を喪った面---虚ろな瞳---間近に寄ると、小刻みに、かすかに身体が震えているのがわかる。
―政宗さま---梵天丸さま---―
小十郎が、躊躇いがちに、かすかにその肩に触れると、政宗の身体の震えがひと際大きくなった。
―おひとりで苦しまれますな---。申し上げたはずです。
お悲しいことあらば、この小十郎に、梵天丸さまの悲しみをお預けください---と。―
政宗の眼が、小十郎の顔を見上げ、差し伸べられたもう一方の手を見た。
そして---倒れるように小十郎の胸元に手を掛け、襟元を鷲掴みにした。
―こ---じゅう---ろう---―
魂の奥底から搾り出すような、今にも息絶えそうな---唸りとも呻きともつかぬ声だった。
遮二無に、小十郎の襟元を縋るように掻き掴み、頭を強く押し付け、肩を大きく震わせていた。
幾度も幾度も、唸り、呻き---泣けぬ苦しさを搾り出し---だが、その頬を幾度も、滴が伝って落ちたことを、小十郎は見ぬふりをした。
そ---と、触れるか触れないかほどの優しさで、その背に両手を回し、政宗を懊惱ごと包み込むように抱えた。
「済まな---かった---」
政宗がやっと顔を上げたのは、陽が傾きかけた頃だった。小十郎は、いいえ---と小さく応えた。やっと幾ばくか生気を取り戻した面に、安堵して、さりげなく両手を膝に戻した。
政宗は、小十郎の襟元から手を離し、背中越しに顔を擦って身を翻し、元の座に戻った。
―夕餉は、いかがいたしますか?―
と、小十郎が問うと、半ば驚いたように、―そんな刻限か---―と呟き、
―飯はいらん。酒を持ってきてくれ。―
と吐息とともに漏らした。
―いけませぬ。朝から何も口にされてはないではありませんか---―
仕方のない---と諌めるも、哀しげに口許を歪め、
―食いたくない---。―
と呻く政宗に、それ以上の箴言も憚られて、受けるしかなかった。
―では、何か某が肴を見繕ってお持ちしましょう―
小十郎は、そう言って政宗の居室を下がり、厨に向かった。
―月が、赤いのぅ---―
飯炊きの老爺のもそりとした戯言が、やけに耳に残った。
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