第67話:お兄ちゃん
周りが一気に明るくなり、浮遊感が消える。
暗い海に浮かんでいるようだった俺の体は、腹ばいで地面に落下した。
「げほっ、げほっ、げほっ!」
痛い。痛いがそれ以上に、肺に酸素が流し込まれたことで、今まで気にならなかった息苦しさが一気に押し寄せてきた。
背中を丸めて何度も咳き込む。
やべえ。よく俺、さっきまで気にしてなかったな。
涙と鼻水を垂れ流しながら感心していると、大きな手が俺の背中を労るように撫でた。
「フレールっ、大丈夫かフレール!」
その手の上から、必死な声が降り注いでくる。
つられて顔を上げれば、滲んだ視界でもイケメンだとわかる浅黒い三白眼フェイスがそこにはあった。今まで見たことがないくらい必死な表情をしていたそのイケメンは、俺の顔を見るや否や、シリアスキラーも裸足で逃げ出す凶悪な形相になる。
えっ、そんな顔するくらい今の俺ってばブサイク?
思わずそんな感想を抱いていると、三白眼イケメンことクリスは俺から視線を外した。
またつられて、今度はクリスの向いている方に俺も顔を向ける。
「……あ」
そこには、ひとりの女の子が立っていた。
ルクスリア家の下女の服を着た、黒い髪の女の子。
スールみたいに飛び抜けた美少女じゃない、どこにでもいるような女の子は、何度も人を呪い殺してそうな恨めしげな顔で俺達を睨んでいる。表情があまりにも違いすぎるせいで、それがかつて見た女神や素フレールと同じ顔だと気づくまで時間がかかった。
「お前がこいつを泣かせた張本人か?」
「……」
どすのきいたクリスの問いかけに、女の子――『フレール』は何も言わない。
返事の代わりとばかりに腕を動かした直後、彼女の背後から現れた黒い手のようなものが勢いよく俺達めがけて伸びてきた。
「うぇ!?」
世界観変わってない!?
「――はあっ!」
素っ頓狂な声を上げる俺とは対照的な、勇ましい声が隣から聞こえてくる。それと同時に視界の端で何かが煌めいたかと思うと、それが黒い手を両断した。
斬られた手はそのまま散り散りになっていく。
それを見ていた『フレール』は、憎々しげに歯噛みしながらも後ずさりした。
ビビっている?
不思議な態度に、周りを確認しようという余裕が生まれる。意識は『フレール』に向けたまま、俺はそれとなく周囲を見渡した。
周りに広がっているのは、さっきまでの真っ暗さとは打って変わった白い空間。
声も聞こえないし、積み重なったフレール達もいない。
そして、全部が白、白、白。
白すぎて、壁も天井もどこにあるのかさっぱりだ。どこまでも白が広がっているようにも見えれば、少し後ろに下がれば壁にぶつかるんじゃないかと思わせる閉塞感もあって、実に頭が混乱しそうな場所だ。
それでもなんとなく、さっきまでいた場所と同じところだというのは肌で感じ取れた。
どっちも異様な場所だから、という安易な理由じゃない。根本的なところで二つは同じ空間だということを、頭じゃなく心で理解させられるような感じだった。
……っていうか、この不思議空間にしれっといるクリスは一体何なんだよ。
そんな気持ちを込めて奴の方を見ると、視線に気づいたクリスが、視線は『フレール』の方に向け、さっき黒い手を斬ったと思われる短剣を構えたまま口を開いた。
「お前がいきなり黒い手に引きずり落とされたからな。追いかけてきたんだ」
「追いかけるって……どうやって?」
「黒い手が消えたところを短剣でひたすら突いた」
「ええ……」
想像以上に脳筋な回答が来たので普通にリアクションに困った。
追いかける(物理)かよお前。
だけど、そこまでのゴリ押しが通ったとわかって気づいたこともある。
気づいたというか、『フレール』がクリスに対してビビっているように見える……さらに言うなら、俺や妹にはちょっかいをかけるのにクリスにはあまり飛び火していなかった理由がここにきて理解できた。
『フレール』達の死因は、さっきの真っ暗空間でのできごとを思い返す限り、そのほとんどがクリス由来。何度もクリスのせいで死んだり痛い目にあったりしていれば、某英霊召喚ゲームみたく、『フレール』にとってジャン=クリストフ・スペルビアという存在そのものが弱点になってもおかしくないだろう。
我ながらゲーム脳すぎるとはわかっている。妹のことをあーだこーだ言えない。
だけど、この世界には強制力やら補正力やらが存在する。隠しルートがクリスを簡単に攻略させまいというシナリオライターの執念の固まりである以上、下手すればクリスがこの世界で一番影響力が強い可能性は否定できないはずだ。
ひょっとしたら、女神はこれが狙いだったのかもしれない(物語を終わらせば悪のフレールをなんとかできるという女神の伝言が、大嘘だったのはさすがに気づいている)。
俺をダシにして『フレール』を釣り、そこに特攻存在であるクリスをぶつける。
めちゃくちゃ殺気立っているクリスを見るに、その作戦は成功と言えよう。『フレール』の方も怯えつつ敵意は未だ満々なので、このまま放っておけばクリスは『フレール』を退治してくれるはずだ。
そうすれば、俺達は無事ハッピーエンド。
『フレール』の暗躍に怯えることも、ゲームイベントや破滅フラグ、デッドエンドフラグに頭を抱えることもない。平穏な転生ライフを送ることができる。
……可哀想な女の子を、可哀想なまんまにしたままで。
「フレール、しばらく後ろに下がっていろ。……なぜあの女がお前と同じ顔をしているかは知らないが、あいつがこちらに危害を加えようとしているのは肌で感じられる。それなら迎撃するまでだ」
そう言いながら、クリスは俺の前に立つ。
広い背中を見てキュンとなった胸を殴って我に返らせた後、へたりこんだままだった足腰を立たせる。そして前に一歩踏み出し、クリスの前に出た。
「……おい、下がっていろって聞こえなかったのか?」
「えーっと、それなんだけど……」
低くなった声にビビりつつ、それでも俺は言いたいことを言った。
「あの子に言ってやりたいことがあるんだ。だからちょっと、見ていてくれ」
「は?」
「頼むよ。放っておけないんだ」
「……」
あ~~~。見えてないけどめっちゃ苦々しい顔になっているのがわかる~~~。
内心はらはらしていると、後ろからクソデカ溜息が聞こえてきた。
「……危ない真似はするなよ」
「ん、サンキュー」
持つべきものは理解力があるこ、恋人である。
……さてと。
「じゃあいってくるわ」
「…………は?」
そう言うと、俺はおもむろにクラウチングポーズをとる。
長いスカートだと走りづらいけど仕方ない。え、裾破けばいいだろうって?漫画とかアニメでよくスカートちぎるやつあるけど、服の布ってそんな手でほいほい破けるほど脆くねーから!
そんなことを心の中で叫びつつ。
俺は勢いよく駆け出した。
「おい!!数秒前の台詞を即座に翻すな!!」
後ろからガチギレしたクリスの声が聞こえる。
すまん、本当にすまん!でも許してくれ!
心の中で謝り倒しながら、俺はまっすぐに『フレール』の方へと走った。
「……!?」
いきなり駆け出してきた俺を見て、『フレール』は驚いたように目を見開く。
その様子に、俺は自分の考えが合っていたことを確信した。
チートだの異能だの、そういう異世界転生あるあるを持たない俺が、世界そのもの……つまりこの世界のもうひとりの神に等しい『フレール』に突っ込んでいくのは自殺行為だと思うだろう。だけど、何の勝算もなく突撃するほど俺もバカじゃない。
確かに『フレール』には、セザール様に余計なこと吹き込んでデッドエンド送りにしようとしたり、妹を暗殺させるよう仕向けたり、俺を変な空間に引っ張り込んだり、黒い手で襲わせたりと、色んな力がある。真っ向から勝負して勝てるのは、多分クリスだけだ。
でも、忘れちゃいけないことが一つある。
『フレール』は、ただの女の子ということだ。
モンスターと戦うRPGの住民でもなければ、闇堕ちした勇者でも、生まれながらに人間を憎んでいる魔王とかでもない。
国宝級のイケメン達にやたらと好かれただけの、何の力も持たない女の子だ。
何なら、今持っている力だってわりとつい最近手に入れたものだろう。悪のフレールとして自我を得たの、素フレールが出てきた時だって言うし。
そんな女の子が、いきなり突っ込んできた奴に適切な対応をとれるだろうか?
その答えがノーであることを、驚きで強張った顔が証明していた。
「どりゃーっ!!」
「ぅぁ…!?」
距離が縮まったところで地面を蹴り、『フレール』にタックルをかます。そのまま俺達の体は後ろに倒れ込み、ごんっと痛そうな音が耳についた。
「何すんのよ、貴方……!」
痛そうな音を出した本人が、憎々しげな声を上げる。
「何なのよ、何なの!ここは
それが後押しになったのか、今まで黙っていた『フレール』は堰を切ったように俺に対する恨み言を言い始めた。
ゲーム内で『フレール』をいじめてきたスールじゃなく。
自分が不幸になった原因であるクリスでもなく。
不幸だった自分達を差し置いて、幸せになろうとしている
「…………」
そんな『フレール』をジッと見つめた後、俺はゆっくりと首を後ろに傾け。
「――――ふんっ!!」
勢いよく、目の前の額めがけて自分の頭を振り下ろす。
ごんっと。
またしても痛そうな音が、超至近距離で響いた。
「いったぁ……!?」
「甘えんな!!」
涙目で俺を睨んでくる『フレール』に、たたみかけるように声を荒げる。
我に返られて黒い手を出されたらやばいからな!
「確かにフレールは酷い目にあったけども!だからって無関係な人に当たっちゃいけません!どうせ恨みをぶつけるなら、別世界線の俺達じゃなくてゲーム会社呪ってきなさい!」
攻略対象のクリスよりあらゆるルートでいじめてくるスールより幸せになっている俺より、もっとなんとかすべき元凶がいるだろ。呪うならそこにしなさいそこに。
妹の話から察するに、今なお第二第三のフレールを出しているだろうし。色んな世界と転生者の平和のために潰してしまえ。
……おっといけない、俺の恨みつらみが出そうになった。
「……な、何なのよ!なんで貴方に、そんなこと言われないといけないの!?」
一呼吸入れている間に、頭突きの痛みと怒涛の勢いで呆然としていた『フレール』が我に返った。
涙目のまま、俺ごと上体を起こす。
そして、胸ぐらを掴みながら口を開いた。
「貴方に、
「わからん!」
「は、はあ!?」
「お前な……」
大声の詰問に、大声で言い返す。
開き直られるのは想定外だったのだろう(まあ当然といえば当然でもある)、目の前の顔が呆気にとられる。後ろの方からも呆れた声が聞こえたが、聞かなかったことにして言葉を続けた。
「ちょっと命の危機はあったけど、前世も今ものほほんと生きてきた俺に、いっぱい酷い目にあってきたお前の気持ちは逆立ちしたってわからん!俺にわかってるのは、このまま誰かを延々と恨んでたってお前は幸せになれないってことと、そんなお前を見て見ぬ振りするのはお兄ちゃん属性的にできないってことだ!」
別に、『フレール』が俺達を不幸にしようとしたことを忘れたわけじゃない。
百歩譲って俺はともかく、自分が世界そのものなのをいいことに、妹を暗殺するよう仕向けたことや、セザール様に変なことを吹き込んで凶行に走らせたこと、クリスが危うく人殺しになりかけたことに関しては怒っている。
正しくは怒っていた。
さっきの頭突きと説教でチャラにしたからだ。
だってそうだろう。
自分の身内が酷い目にあわされかけたからって、女の子が可哀想な目にあっているのを見て見ぬ振りなんてできないだろう。
こいつを犠牲にして俺達だけハッピーエンドになるなんて、お兄ちゃんとして許せないだろう。
俺の可愛い妹はこの世にただ一人だが、それは他の誰かにお兄ちゃん力を発揮しない理由にはならない。それが、可哀想な目にあっている年下の女の子ならなおさらだ。いや、今は同い年だし、このフレールはもしかしたら前世年齢でも年上かもしれないけど。
そんなことを思いながら、俺はドレスのポケットに手を突っ込む。
取り出したのは、銀のロザリオがついたネックレス。それを、そっと『フレール』の首にかけてやった。
ネックレスは、まるでそう決められていたみたいに、目の前の女の子によく似合っていた。
「……ぁ」
自分の首から下げられたネックレスを見て、『フレール』は小さな呟きを零す。
これが通じなかったらどうしようかと心配していたのだが、どうやらそれは杞憂だったらしい。胸を撫で下ろしながら、俯いた頭をぽんぽんと撫でてやった。
「だから、この世界がフレールの不幸だけでできたなんて悲しいこと言うなよ。他ならぬお前のことを心配して、親の形見を俺に預ける聖職者もいるんだからさ」
「……」
俺の言葉に、『フレール』は何も返さない。
押し黙ったまま、ロザリオを恐る恐る手のひらに包み込んだ。
教会ルートの攻略対象、リティア=アウア。
牧師なのに全く教会と関係ないセザール・ルクスリアに存在を食われ、自分のルート以外だとろくに登場もしないという、『サンドリヨンに花束を』においては結構不遇な扱いを受けている男。
それは多分、隠しルートでも変わらないんだろう。登場できる下地も因縁もないし、無理やり作るほどライターが愛着を持っているとも思えないし。
だからあいつだけは――――ただの一度も、フレールを殺していないはずだ。
司教はそれを察して、俺にこれを預けたんだろう。
『同情する人間がもう一人くらいいてもいいだろうと思ってな』
自分からの同情なら、『フレール』は受け止めてくれると信じて。
「…………ぅ、ぁ」
長い長い沈黙の後。
ようやく、『フレール』の口が開いた。
「リティアさま…っ、リティアさま、リティアさまぁ……っ」
震える声で司教の名前を何度も呼ぶ『フレール』の目から、大粒の涙が零れる。
その姿は、どこにでもいるただの女の子だった。
酷い目にあわされたから傷ついて。
傷ついたから誰かに当たらずにはいられなかった、普通の女の子。
そんな女の子をそっと抱き寄せてから、震える背中を、妹にするように撫でさすった。
「よしよし。今まで辛かったな。酷いことした奴ら、全然お前に謝ってくれなかったもんな。……お兄ちゃんが胸を貸してやるから、いっぱい泣け」
「ぅっ、ぁ、ぁぁ、ぁぁぁ……!」
俺の言葉に、『フレール』はいっそう泣きじゃくる。
その泣き声に、今まで誰にも聞いてもらえなかっただろうそれに耳を傾けながら、華奢な背中を撫で続ける。
ぴしり、と。
その時、上の方から何かがひび割れるような音が聞こえて。
――――直後、世界が暗転した。
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