第63話:舞踏会 5
「まぁぁぁてぇぇぇ!!」
剣呑な騒がしさが満ちてきた城内の廊下を駆け抜ける礼服の男。
そんな男を追うように、どすがきいた声を上げる少女が疾走する。
「くそ…っ!」
悪態とともに少しだけ振り返れば、視界の端には水色のドレスを大きくたくしあげ、素足を膝まで露わにしながら追いかけてくる少女が映る。その後ろには、険しい顔をしたジャン=クリストフ・スペルビア第一王子の険しい顔も見えた。
どちらも足は速いが、振りきれないほどではない。
だというのに未だ姿を視認できる距離にいるのは、進む先にいる衛兵を回避するたび、方向転換を強いられているからに他ならなかった。
頭の中にある見取り図に従って進むたび、逃げ道と思っていた場所には衛兵がいる。
袋小路にこそ迷いこまないものの、騒ぎがどんどん伝播していく中、追い詰められるのは時間の問題と言えた。
(ちくしょう、ハメられた……!)
依頼主である冴えない顔の女を思い出しながら、男は胸中で舌打ちをした。
男は、城下町の裏路地、そのさらに奥まった場所で密やかに活動する暗殺ギルドに属する犯罪者だった。
元々は商人の次男坊だったが、長男の代わりに家でのし上がるほどの商才はなく、稼業に役立ちそうな才も取り立てて持っていなかったため、二十才を迎える前には家を飛び出した。物乞いで細々と日銭を稼ぎ、いよいよ後がなくなりかけた時に巡り合ったのが、平和なオリエンス王国の闇に存在する暗殺ギルドである。
大金と引き換えに、人の命を密かに奪う。
稼業に役立つ才は持ち合わせていなかったが、代わりに人を殺める才は人並み以上にあった男には、それは天職に近かった。生まれつき倫理観が乏しく、自分のためなら他人を害することも厭わない性質も、殺しを行う人間としては申し分なかった。
それでも小さな失態を犯し、長に注意を受けることはしばしあった。
だが、目標を殺し、自分が捕まりさえしなければ、過程で多少のミスをしたところで問題はないだろうと、あまり真剣に受け止めることはなかった。似たような注意を父親に何度もされていたのも、耳を貸さない要因の一つであった。
そんな生活を送っていたある日。
ひとりの女が、ギルドに依頼を持ちかけてきた。
貴族に仕える下女だと名乗った女は、自らの主人を殺してほしいと。長を介して対峙した女は、一般市民には容易く出せない大金を積んで男に懇願した。
長年の不遇な扱いに耐えかねた四十路すぎの使用人が、今までためこんできた給金を使って恨みを晴らすというのはこの界隈では珍しくもない。女はその系統の客にしてはだいぶ若く、不遇な扱いを受けているわりには今まで見てきた下女の誰よりもこぎれいだったが、依頼料に足る金を用意できるのなら関係ないと、男は特に気にもせず依頼を引き受けた。
『近々お城で舞踏会があるのは知っているわよね?招待状を工面するから、招待客として紛れ込んであの女……スール・ルクスリアを殺してちょうだい。大勢の貴族がいる中でまともな捜査なんてできないでしょうから、貴方は人波に紛れて帰ればいいわ』
そう言った女は数日後、前金と舞踏会の招待状、そして変装用の礼服を携えて待ち合わせ場所に現れた。城の間取りと衛兵の配置は、その際に教わったものだ。
その手際から、貴族の下女と言うのは嘘だろうなとは思った。
それでも男は気にしなかった。依頼人の素性に興味がなかったというのもあるが、男の身分と立場には生涯縁がなかったであろう城内に、招待客として入ることができる得難い機会をふいにしたくはなかった。
衛兵の目を盗んでの仕事は容易くはないだろうが、今までがそうだったように今回もなんとかなるだろう。それまでは舞踏会とやらを楽しむとしよう。
そんな軽い気持ちで臨んだ当日。
目標がホールを離れ、人気のない場所に歩いていくのを見た時は己の幸運に口角を吊り上げたものだ。身を潜めるのに都合がいい部屋も当たりがついている。後はそこに目標を引きずりこみ、仕事を終えて悠々と帰るだけだと。
目標である令嬢の怯えた顔を眺めていた時は、そう信じて疑わなかった。
だが、現実はどうだ。
よりにもよって第二王子に見つかり、目標を殺せないばかりか一気に警戒が高まった。
それだけならまだよかったが、逃げようとした直後に謎の少女と第一王子に捕捉され、追いかけ回される羽目に陥っている。依頼人の情報を城から脱出しようと試みても、逃走経路に勧められた場所には強引に突破できない数の衛兵が待機し、引き返さざるを得ない状況が続いていた。
王子に見つかり、王子に追いかけられるまでは偶然だろう。
だが、それ以降は偶然の一言では片づけられない。間取りこそ正確だったものの、衛兵の位置に関しては明らかに偽の情報を教えられているのだから。
成功報酬を払うのが嫌だったのだろう。
依頼人は最初から男を帰す気などなく、衛兵に捕まえさせて依頼をうやむやにしようとしたに違いない。おそらく女の正体は城の関係者。地位は高くないだろうが、多少の手回しくらいはわけもないはずだ。
(あのクソ女が……!)
二度目の悪態をつきながら、目の前に迫る扉を開け放つ。
そこは今までの通路と異なる、広々とした豪華絢爛な空間だった。
礼服に身を包んだ貴族達が目を丸くしているのに一瞬だけ呆けた後、遅れて好機を理解する。なぜならここ――舞踏会が行われているホールは、外に通じるバルコニーに続いているからだ。
逃げるなら、あそこしかない。
進行方向にいる貴族達を押しのけながら、バルコニーを目指す。
「――――セザール様っ!そいつ捕まえてくれ!!」
そんな男の背後から、少女の声が聞こえた矢先。
進路を塞ぐように現れたアッシュグレイの髪の男が、流れるような手さばきで男の腕を掴んでくる。驚く間もなく、そのまま床めがけて背負投された。
「うごぉ!?」
驚きと痛みで一瞬息が止まる。
力が抜けたところで体をひっくり返され、腹ばいの状態で組み敷かれた。
「えっ、すご……」
驚愕と困惑の声に混じって、感嘆の声がクリアに耳に届く。
男も第三者の立場なら似た感想を抱いたかもしれない、それほどに見事な手際だった。だが、それによって退路を断たれたのが自分だというなら話は別だ。
感嘆の代わりに胸中を満たすのは怨嗟、そして絶望。
もはやこれまでかと歯噛みしたその時、一つの考えが不意に脳裏をよぎった。
それは、暗殺ギルドでは禁じられている行為。
例え捕まったとしても、依頼のことは何一つ漏らしてはならないという掟。
だが、知ったことかと男は思う。正当な依頼人ならまだしも、不当にこちらを貶めようとした女を尊重する理由が一体どこにあるというのか。
自分だけ破滅してなるものか。
そんな思いに突き動かされながら、男は大きく息を吸う。
素性を偽り、偽の情報を渡してきた女が、本名で依頼をするわけがないと。そんな当たり前の事実はなぜか露ほども浮かばないまま。
「――――フレール!フレールだ!あの女が、俺にスール・ルクスリアを殺せと依頼してきたんだ!」
冴えない女が名乗った名を、あらんかぎりの大声で口にした。
「っ」
知った名前だったのか、男を組み敷く力が少しだけ緩む。
それは男にとって予想外のできごとだったが、同時に降って湧いた好機でもあった。今度こそバルコニーを目指そうと、アッシュグレイの髪の男の腕を振りほどこうとしたその時。
「うぼ…っ!」
側頭部に強い衝撃を受け、一気に意識を刈り取られた。
「…………クソが」
暴漢の頭をボールのように蹴りつけた第一王子ことジャン=クリストフ・スペルビアは、苛立ちを追いやるかの如く舌打ち混じりの溜息をつく。
しかし、苛立った表情すぐに王族らしい威厳と傲慢さを宿した顔に隠された。
顔を上げ、止まった演奏の代わりにざわめきがBGMとなっているホールを見渡す。そして、先ほどの男と同じように深く息を吸ってから大きく口を開いた。
「聞け!確かにこの賊は舞踏会の騒ぎに乗じてスール・ルクスリア嬢を襲ったが、彼女は無事だ!今は城の者が介抱している!」
堂々と嘘をつく。
安否の確認もその後の指示もしていないが、その点は彼女を助けた義弟が抜かりなく行っているだろうという信頼があった。
容姿も性格も似ていないが、同じ屋根の下で育ったために根っこのところは似通っている。そんな義弟が、惚れた女のフォローを怠るとは微塵も思っていない。
「賊のことは我がスペルビア家が責任を持って調査し、依頼人ともども適正なる処罰を下す!貴公らはどうか心置きなく、舞踏会を楽しんでいってほしい!」
だからこそ、彼は目の前の事態――すなわち、己が惚れた女に降りかからんとする火の粉を払うことに尽力する。
「賊がルクスリア家の使用人の名を口走ったが、卑劣な依頼をするような人間だ、他人の名を騙ったに違いない。ルクスリア家のスール嬢が使用人と親密なのは貴公達もよく知るところだろう。根も葉もない噂でいたずらに世間を騒がせるなら、相応の処罰があるものと心しておくがよい!」
そう高らかに告げた後、演奏の手を止めている楽団に視線を向ける。
クリストフの眼差しに気づいた彼らは、慌てたように各々の楽器を持ち直すと、先ほどまでホールに満ちていた旋律を奏で始める。その間に、気を失った男は衛兵の手によってホールの外へと運ばれていった。
音楽が再開する中、動揺していた貴族達は徐々に落ち着きを取り戻していく。
なぜならクリストフの言葉は的を射たものであったし、ルクスリア家のスールが王子達と懇意になっているのも、彼女が自家の使用人と仲睦まじいのも公然の事実でもあった。
スールよりも己の存在を、己の娘の存在を印象づけるために舞踏会に臨んだ貴族達は多かったが、ここまではっきりと王子に釘を差された中でスールを婚約者レースから引きずり下ろそうと考えるほど愚かな者はいない。この時ばかりは、悪役令嬢を貶めようという世界の強制力よりも、第一王子の言葉が勝った。
ほどなくして、何事もなかったように舞踏会が再開された。
「なんで……!?」
その様子を物陰で見ていた使用人の女は、驚愕と苛立ちに思わず声を上げた。
この中で最も不真面目な者を。
そんな指定でスール・ルクスリアの暗殺を依頼したのは、衛兵に捕まえさせれば依頼人の名前を口にするだろうと踏んだからだ。フレールのふりをしてスールの暗殺を依頼すれば、目障りな者を同時に始末できる。この計画を閃いた時は、我ながら名案だと膝を打ったものだ。
そしてその目論見は見事成功し、暗殺者の男は偽名と気づかず、フレールの名前を叫んだ。
後は使用人フレールが主を暗殺しようとした罪で処罰を受ければ、女の描いた筋書き通りの展開になる。王子二人に近づく虫は駆除される。そのはずだった。
しかし、うまく言ったのはフレールの名前が口にされたところまでだった。
女の筋書きを阻んだのは、他ならぬクリストフ王子その人。
一度名を騙ったと疑われた以上、使用人という地位が真偽をうやむやにすることには期待できない。それどころか、あの暗殺者がさらに口を割り、依頼人が城勤めの使用人だと突き止められることまで視野に入っている。
彼や義弟にまとわりつく害虫を排除するのは彼のためだと盲信し、王子二人のためという理由で己の行動を正当化していた女にとって、それはある種の裏切りにも等しかった。
「どうして、あんな女なんか庇うの……!?」
だからこその苛立ち。
身を隠す壁に爪を立てながら、反対の手の親指を噛む。
「――おやおや。その口ぶり、まるで何かを知っているようですね」
そんな女の後ろから、聞き覚えのある声がかけられた。
「っ!?」
「仕事をサボってこんなところにいるのは、上司としては感心しませんね」
勢いよく振り返れば、そこには青い髪を一つに束ねた男――執事長イーラが立っている。
顔には柔和な微笑みが浮かんでいる。しかし、その双眸は少しも笑っていなかった。
「し、執事長こそ、どうしてこちらに……」
「いえ。少し気になることがありましてね」
声の震えを押し殺しながら、質問を投げかける。
それに対し、イーラはにこりとことさら微笑んでみせた後。
「少し前、私と一人の女の子が城下にいた時ですか。そこで貴方とすれ違ったんですよ。……その時貴方、女の子に危害を加えようとしましたね?」
まあ、その時は私が防いだわけですがと。
冷ややかな声音で、そう続ける。
その瞬間、女は弾かれたように逃げようとしたが、その前に肩を掴まれる。逃さんとばかりに、細腕に似合わぬ力を込められた指が女の肩に食い込んだ。
そのまま、強引にイーラの方へと引き寄せられる。
鼓動が高鳴る。ただし、恐怖ゆえに。
「さて。じっくりお話を聞かせてもらいましょうか?」
「…………」
もはや、逃げ場はない。
そう悟った女は、諦めたようにうなだれた。
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