第56話:兄、目撃する

「あれは……。新人のルシールですかね」


 呆然とする俺の隣で、いー兄さんがそう呟くのが聞こえた。


「新人って……城の?」

「ええ。女性ながら、城の厨房に入ることを許された優秀なコックです。フーへの贈り物を見繕うために、クリストフ様は厨房によく顔を出されますからね。そこで親しくなったのでしょう」

「そ、そうなんだ」

「女性らしからぬ言動が目立つ方ですが、そのさばさばとした感じが良いように作用しているようで。位の高い方にも口が軽いのが玉に瑕ですが、クリストフ様は男女問わず気安く接してくれる方を好ましく思っていますからね。相性がよろしいのでしょう」

「へえ……」

「まあ、もっとも――――」

「……」


 いー兄さんの言葉もそこそこに、俺は歩き去っていく二人の背中を目で追いかける。

 遠目から見てもべたべたした感じには見えない。でも、どんどん遠ざかっていく背中から親密そうな雰囲気が感じ取れるのは、きっと気のせいじゃないはずだ。


 気づいた時、俺は二人の後を追うように歩き出していた。


「おっと」


 そんな俺の後に続く、いー兄さんの声が聞こえてくる。

 しかし、今そっちに注意を払う余裕はない。クリスに見つからないよう慎重に人波に紛れながら、いわゆる尾行を続けた。


 クリスが今までくれた好意を疑う行動なのはわかっている。

 足を進めるたびに罪悪感で胸が痛い。こういうのはよくないと、頭の中の冷静な部分が俺の行動を咎める。でも、俺の足はちっとも止まらない。

 だって、信じさせてほしかった。

 あいつを信じられるだけの光景が見たかったのだ。

 降って湧いた猜疑心は、俺をこれ以上ないくらい女々しくしていた。


「…………ぁ」


 そして、疑った俺に対する天罰だとでも言うように。

 アクセサリーの露店の前で、二人は足を止めた。


 後ろを歩くいー兄さんを引っ張るように路地裏に身を潜め、そこからクリス達の動向を窺う。二人は見られていることには気づかず、真剣な――特にクリスなんか、遠目からでも眉間にシワが寄っているのがわかるくらいの顔でアクセサリーを見ていた。


 やがて、クリスの手が一際小さいアクセサリーを手にとった。

 距離があってよくわからないけど、多分ピアスとかイヤリングの類いだと思う。クリスの目と同じ色の宝石がついたそれを、クリスは隣にいる女の子の耳にあてがった。

 女の子がくすぐったそうに笑う。

 それを見て、つられるようにクリスも笑みを零した。


「……っ」

「フー!」


 それ以上はもう、見ていられなかった。

 踵を返し、路地裏の奥へ奥へと小走りで進んでいく。

 雑踏の騒がしさから逃げるように、静かな方を目指して角を曲がる。足はどんどん速くなっていき、それに合わせて息も弾む。

 そうしてジグザグに路地裏を駆け抜け、自分でもどこを走っているかわからなくなったころ。

 ぐいっと、後ろから腕を引かれた。


「うおっ…!」


 そのまま、体を引き寄せられる。

 足がもつれて転びそうになったものの、それは俺を引っ張った人間が受け止めた。


「ぁ」

「フーは足が速いですね……。びっくりしましたよ」


 溜息混じりの声とともに、いー兄さんが上から顔を覗きこんできた。

 こめかみにじんわりと浮かんだ汗が、いきなり走り出した俺を追いかけるため、いー兄さんも必死に走ったことを教えてくれる。その汗と、微笑ましさと呆れが入り混じったお兄ちゃんみたいな表情が、俺の頭を冷やしてくれた。


「ご、ごめん……」


 小さい声で謝りながら、申し訳なさで俯く。

 その拍子に視界に入った自分の髪の色が、さっきの光景を思い出させた。


「……」

「……まったく、なんて顔をしているんですか」


 押し黙った俺のつむじに、いー兄さんの声と、大きな手が降ってくる。

 そのまま、よしよしと宥めすかすように頭を撫でる手。

 俺が妹にするような撫で方に気恥ずかしさを覚えるものの、それ以上に伝わってくる労わりの気持ちが心に染み入ってくる。じわりと潤んだ目を隠すように目の前の胸に額を押しつければ、もう片方の手が背中に回された。

 抱き寄せるでもなく、ぽんぽんと軽く背中を叩かれる。

 ぐすっと、思わず鼻を鳴らした。


「クリストフ様も罪なお方だ」


 そんな呟きが、鼻を鳴らす音に混じって聞こえた気がした。




「……ありがと、いー兄さん」


 しばらくたった後。

 最後にずびっと大きく鼻を鳴らしてから、俺はいー兄さんにお礼を言った。


「いえいえ。役得でしたので気にせずに」

「……ははっ」


 良い笑顔でそう言われ、思わず笑ってしまう。

 そんな俺を見て目を細めるいー兄さんを見ると、心配させてしまったなあと反省する。


 ……今までの言動を考えると、ここぞとばかりにつけこんできそうなのになあ。

 慰めてもらったのに恩知らず極まりないが、ついそんな考えが脳裏をよぎる。それくらい俺が目に見えて弱っていたのか、いー兄さんも空気を読む時は読むのか。

 何にせよ、よかったと思う。

 もし「私にすれば」とか言われていたら、いー兄さんのことめちゃくちゃ嫌いになったか、思いきりぐらついていたかもしれない。

 俺が好きなのはクリスだから、ぐらついてもいー兄さんを好きになるのはありえないけど。

 正直今は、自信がない。


「…………はあ」

「屋敷まで送りますよ。今の貴方をひとりで帰したら、悪い男につけこまれそうだ」


 溜息を零す俺にそう言うと、返事を待つことなく、エスコートするように手を掴む。

 そんな大げさなと思うものの、問答する気力はちょっとない。大人しくいー兄さんに手を引かれるまま、俺達は人が行き交う通りに出た。


「しかしフーは、意外とやきもち焼きなのですね」


 歩きながら、小声でそんなことを言われた。

 思わずむっとなる。


「意外とって……。あんな光景見たら当然だろ」


 言いたくはないが、浮気現場を目撃してしまったようなものだ。

 あんなの見てやきもちを焼かないなんて、よほど精神力が強いか、実はそこまで好きじゃなかったか、それか聖人かのどれかだろう。そして俺はどれにも当てはまらない。

 しかし、むくれた俺を見て、いー兄さんはなぜか小さく目を丸くした。


「先ほども言いましたが――」


 何か言いかけたいー兄さんの口が、不意に閉じる。

 それに首を傾げると同時に、腕を強く引っ張られ、そのまま通りの壁際に押さえつけられた。完全に虚を突かれる形となった俺はあっさり、いわゆる壁ドンとかいう体勢にさせられた。

 お前ーっ!

 つけこまないんだなって感心したのに!


「いー兄さん、ちょっとっ」


 反射的に大声を出しそうになるのを堪え、小声で文句をつけ……ん?

 なんか怖い顔していないか?いー兄さん。

 つーかなんで横顔?

 首を傾げながらいー兄さんと同じ方向を見ても、そこには歩く人達がいるだけ。ついでに言うなら、急に壁ドンになっている俺達を変な目で見る人もいた。やべえ。


「は、離れていー兄さんっ」

「……ええ」


 めちゃくちゃ恥ずかしくなり、押しのけるように胸に手を突く。

 意外にもいー兄さんは素直に頷き、難しい顔をしたまま俺から離れた。


「さっきの女性……」

「ん?」


 女性?

 言われてみれば、人とぶつかりそうになったような。


「いえ。前から歩いていた女性が、フーにぶつかりそうだったので。避けるために壁際に引っ張ったのですが、勢い余ってしまったようですね」

「あ、そうなんだ」


 なら仕方ないか。


「フーを追い詰めてみたい欲望が出てしまいましたかね、ふふ」

「こらっ!!」


 前言撤回!


「自重!」

「ふふっ、すみません」


 怒る俺、くすくす笑ういー兄さん、なんだ痴話げんかかみたいなノリで歩き去る街人。

 くそっ、やっぱりこの人の頭はいっぺん張り倒したいな……!

 腹を立てながら歩き出そうとするが、数歩歩いたところでいー兄さんに腕を引かれた。


「なに!?」

「舞踏会の前後は城下がいっそう活気づきますが、それに乗じて悪事を犯す者もいます。終わるまでは、ひとりで外出は控えてくださいね」

「ええ……。お…私なんか狙う悪漢とかいなくない?」

「スリは男女関係ありませんよ。スール様から預かったお金を盗まれたくないでしょう?」

「たくないね……」


 返ってきた正論に納得せざるを得ない。

 痴漢とかなら俺みたいな平凡ガールを狙わないと思うが、フェミニストな犯罪者はそういうの関係なしにやってくる。むしろツラが普通な分、下手したら他の人よりターゲティングされやすい気がする。

 まあ、今回の外出がかなり特例だったからな……。

 言われるまでもなく、妹がしばらく外に出してくれないと思うが。

 それでも俺は素直なので、こくりと頷く。

 なぜかいー兄さんは、妙に安心したような顔で笑った。


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