第33話:屋敷にて

「イレーヌ」


 凛々しい声に呼び止められ、ルクスリア家に勤める若き下女、イレーヌは足を止めた。

 手に持った洗濯籠の中身を零さぬように振り返れば、その先には一人の青年が立っている。穏やかでありながらも騎士に相応しい勇ましさを感じさせる美丈夫は、武者修行から帰ってきたルクスリア家の次期当主、セザール・ルクスリアその人であった。

 うっとりするほど端整な顔立ちにしばし見惚れた後、慌てて頭を下げる。


「これはこれは、セザール様。何のご用でしょうか?」

「仕事中に呼び止めてすまないね。実はフレールを探しているのだけど、心当たりはないかい?厨房は既に探したのだけど、そこにはいなくてね」

「フレールですか?」


 セザールの問いかけに、イレーヌは少し首を傾げる。


 フレールとは、ルクスリア家の息女、スール・ルクスリア付きのメイドだ。

 幼いころからルクスリア家に仕えている古株下女の一人で、スール直々の指名によって下女から傍仕えのメイドという異例の昇任を遂げた、らしい。らしいというのは、イレーヌがルクスリア家に仕え始めたのは彼女が傍仕えのメイドになった少し後だったので面識があまりないためだ。

 同期の下女達とは今も仲が良いらしく、時折下女部屋にやってきては、スールのために作ったというお菓子の残りや、失敗作というほどではないがお嬢様に出すほどのできにはならなかった代物を振る舞っている。その恩恵に預かることはたびたびあったので、イレーヌにとってフレールとは、時々お菓子をくれるメイド、という認識だった。


 無論、そんな彼女の行動を把握しているわけはない。……本来ならば。

 しかし今日は、フレールが外に行くところをたまたま見かけていた。ゆえにイレーヌは、そのことを正直に伝える。


「フレールならば、少し前に外出しましたよ。最近、スール様にお使いを命じられることが多いようで」

「そうか。……ありがとう、イレーヌ」


 イレーヌの言葉に、凛々しい面立ちが一瞬だけ曇る。けれどすぐにそれは消え、代わりに謝礼の言葉とともに笑みが浮かんだ。

 それにうっとりしているうちに、セザールは労いの言葉をかけてからその場を立ち去った。

 後ろ姿が見えなくなったところで、ほう、と熱っぽい吐息が零れる。両手に洗濯籠を抱えていなければ、うっすらと紅潮した頬を包み込むように手のひらをあてがっていたところだった。


(セザール様に、名前を覚えてもらっちゃった)


 メイド長や傍仕えのメイドの名前ならいざしらず、一介の下女の名前などいちいち覚えている貴族の方が珍しい。身分の差で軽んじられるというのもあるが、何より使用人というものは数が多いためだ。

 そのため、覚えられているというのは彼ら使用人にとって励みの一つとなる。ましてそれが名家ルクスリア家の跡取り息子で、女ならば目を惹かれずにいられないほどの美丈夫ともなればなおのことだった。


「うふふ」


 甘い妄想が脳裏をよぎり、思わず顔がにやける。

 洗濯籠でそれを隠しながら洗い場に向かった彼女は、そこで洗い物に着手している下女仲間を見ると、つい先ほどのことを口に出してしまった。


「さっきね、セザール様にお会いしたの。私の名前を覚えていてくださってね。もしかしたら見初められちゃったのかも……きゃーっ!」


 言いながら、頬に手を当てて首を小さく揺らす。

 無論、イレーヌも本気で見初められたなどと思っているわけではない。呆れられるのは前提で、その上で美丈夫の貴族に名前を呼ばれたことを自慢したいというのが実態だ。下女の間ではよくあるやりとりである。

 しかし、ささやかな顕示欲は満たされることがなかった。


「あー…。セザール様ね、うん」

「セザール様かあ」


 返ってきたのは、遠い目をしながらの呟き。

 呆れた声音ではなかったが、イレーヌが予想していた反応とは異なっている。思わず首を傾げていると、下女仲間は曖昧な笑みを浮かべた。

 呆れはそこにはなかった。

 その代わり、小さな同情が笑みには込められていた。


「イレーヌはルクスリア家に勤めて年が浅いから、知らないのね」

「何を?」

「セザール様はお優しい方だから、使用人のこともよく覚えてくださっているんだけど」


 そこで終わっていれば、ありきたりな反応である。

 妄想に水を差す正論ともいう。たまに暗黙の了解を理解していない、言ってしまうと空気が読めない者がこういうことを言うことはあったが、イレーヌが知る限り、目の前にいる下女達はそんなことはなかったはずだ。冗談は通じる相手に言う。

 ゆえに余計に首を傾げたイレーヌに対し、下女仲間は言葉を続ける。


「セザール様には本命がいらっしゃるのよ。だから、カモフラージュのためっていう側面は否めないわ」

「えっ」

「本人は隠しているつもりかもしれないけど、わかりやすいのよねえ……」

「性悪時代のスール様も、それが気に入らなかったのかめっちゃいびってたしね」

「ねー」


 そう言って、二人の下女は顔を見合わせる。

 ついていけないのはイレーヌだったが、使用人というのは貴族が思う以上に察しの良さや頭の回転が培われている。ほどなくして、一つの事実が彼女の脳裏に閃いた。

 気づいてしまえば単純なこと。

 フレールという名を口にした時、セザールの頬は緩んでいたのだから。


「……まーじーかー」


 先ほど下女仲間がしていたように、イレーヌもまた遠い目になる。

 それを見て彼女が察したと理解したのか、二人の下女は小さく肩をすくめた。


「一応、フレールには内緒よ?」

「雰囲気が変わる前は、全然気づいてないみたいだったしね」

「ねー」


 もう一度、二人の下女は顔を見合わせた。





 一方そのころ。

 バルコニーに立つセザールは、街の方を眺めながら小さく溜息をついた。


「……またお使いか」


 そんな呟きとともに脳裏に浮かべるのは、一人の少女の姿。

 武者修行のために家を出てから四年。その歳月の間に、幼い女の子から大人の階段を上りつつある少女に変わったフレール――すなわち、想い人の姿である。



 セザールが十六才の時、ルクスリア家の下女となるべく、フレールという少女は孤児院から連れてこられた。

 最初は新たに増えた使用人の一人だと、その働きに感謝こそすれ一個の存在として見てはいなかった。


 そこに転機が生まれたのは、彼女がやってきてからほどなくしてから。

 鍛錬中に怪我をしたものの、青いプライドが邪魔をして素直に言い出せなかったセザール。そんな彼の強がりに気づき、邪険にされながらも傷の手当てをしてくれたフレールに、彼はすっかり心を奪われてしまった。

 剣の師匠に修行の旅へと誘われた時は、彼女と離れるのが嫌で随分と悩んだものだ。

 しかし、強くなければ押し通せぬ道理もある。

 家督を継ぐよりも騎士になりたいという長年の想いと、騎士になればフレールと結ばれる可能性が高まるのではないかという算段。この二つを胸に、セザールは父と話をつけて武者修行の旅に出た。


 本来なら、もう一,二年は旅が続くはずだった。しかし師匠が不意の病を患ったためにいったん旅を切り上げることになり、こうして家へと戻ってきた。

 急な中断だったために、帰ってきてからしばらくはごたついた。

 だが、それもつい先日ようやく一区切りがつき、一心地つけるかと思ったのだが。

 ずっと会いたかった少女となかなか二人で話ができない。そんな状況に直面し、別の意味で心が休まらなかった。



「……はあ」


 もう一度溜息をつく。

 理由、もとい原因はわかっている。

 実の妹であり、現在はフレールを傍仕えにしているスール・ルクスリアだ。


(仲は良好そうに見えたが……)


 ともすればフレール以上の変化をセザールに感じさせる妹の姿を思い浮かべながら、こめかみをつつく。

 かつては自分にべったり懐いていた妹から、セザールは親愛の情は向けつつも少しばかり距離を置いていた。素直で可愛らしい少女ではあったが、どうにも腹に一物を抱えているような気がしてならず、そこに忌避感を覚えていたのだ。

 しかし久しぶりに帰ってきてみると、スールの愛情はすっかり落ち着いたものになっていた。セザールにべったりすることもなく、言ってしまえば普通の妹として差し障りなく接してくる。

 たまに奇行をとるらしいが、それを除けば使用人達のことを気遣う心優しき令嬢であり、腹に一物を抱えているようにも見えなかった。

 特にフレールがお気に入りになったようで、セザールの代わりにフレールにべったりしている。


 家を出るまではスールがフレールのことを嫌っているのを肌で感じていたので、その点は安心と言えば安心だった。しかし、自分とフレールを極力接触させまいとする意志は感じるので、なんとも判断に困る。

 悪事をしでかすのではないかという忌避感が、こびりついて離れないのも理由の一つだった。

 猫を被るのがうまくなっただけで、実はいまだにフレールのことが嫌いなのではないだろうか。そのために、自分とフレールが接触しないように手回しをし、わざと気に入っているふりをしているのではないか。

 実の妹相手に勘ぐりすぎだとは思うものの、どうしてもスールを疑う方向に思考が向いてしまう。

 厨房でフレールと久々に話した時には軌道修正されたと思ったのだが、妹のお使いに出されているフレールのことを考えると、また疑心が首をもたげた。


「どうしたものか」


 小さく呟きながら、屋敷の門を眺める。

 フレールが帰ってくるのを、ここでいつまでも待つわけにはいかない。そうとわかっていても、何かの拍子に愛しい姿が門をくぐらないかと思わずにはいられなかった。

 とはいえ、帰ってきたところを見計らっても、彼女は今やスール付きのメイド。

 ましてお使い帰りともなれば、いつまでもセザールと話してもいられない。一言二言かわすくらいが精一杯だろうし、そしてそれは食事の際にもやっている。


 どうにかして、もっと彼女と話す時間が欲しい。

 そんなことを考えているセザールだったが、はたと、脳裏にある考えが閃いた。


(そうだ。簡単なことじゃないか)


 一度思いついてしまえば、なぜ今まで思い浮かばなかったのかと自身を問いただしたくなるようなアイデア。それを胸にしまいこむと、セザールは颯爽とバルコニーを後にした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る