第30話:兄、会いに来られる

 かしゃかしゃかしゃ。

 厨房に、硬いものと硬いものがぶつかる音を響かせる。そんな俺の手に握られているのは泡立て器、もう片方の手は台に置かれたボウルを押さえている。

 泡立て器を持つ利き手はひたすらに回転運動。

 かしゃかしゃかしゃと音を立てて、ボウルの中にある半透明の液体を掻き回す。

 その液体が半透明から白になり、液体からほわっと泡みたいなところになったところで。


「くぁーっ!」


 俺は我慢できずに声を上げ、泡立て器から手を離した。

 そのまま、酷使しすぎて痺れている腕を振り、なんとかその痺れを払い落とそうとする。

 汚れじゃないからまあそんなことしたって綺麗になくなるわけじゃないんだけど、なんかこう、あるよな。熱いものを触った時に思わず耳たぶの裏に触っちゃう的な反射行動。それのおかげか苦行から解放されたからなのか(多分後者だと思う)、感覚がなかった手にようやく力が戻ってきた。

 手を振るのを止めて、代わりに大きく溜息をつく。


「で、電動ミキサーが欲しい……」


 叶わぬ願いを口にしながら、ボウルの中にある努力の結晶を覗き込んだ。

 中にあるのは、ふわふわとした白い物体。

 卵白と砂糖を合わせたものをひたすらに混ぜることでできあがる代物。そう、お菓子作りには欠かせないメレンゲである。

 この前手に入れたお菓子レシピの本に、名前は違うけどシフォンケーキっぽいものがあったので(中世ヨーロッパ風世界にあるのか?という疑問がちょっとあるが、あくまで風だし気にしない方向で)、懐かしくなって着手してみた。そして今後悔している。手でメレンゲなんか作るもんじゃねえな!


 手順自体はなんか簡単そうに見えるので、軽い気持ちで作り始めたのが運の尽きだった。いやほんと、手順自体は簡単に見えるんだよな……。

 とはいえ、作り始めた以上放棄はできない。

 これが前世なら「卵白 レシピ」でググって逃げ道を探せるんだけど、今世はそうもいかないのである。あゝ、インターネットが懐かしい。


「電動ミキサーないころにメレンゲ作った人、マジパないな……」


 先人に驚嘆の思いを抱きつつ、泡立て器をもう一度手にとった。

 かしゃかしゃという音をリズミカルに奏でて、メレンゲをさらにほわっとさせていく。ほわっがもったりになったところで、大きく息をつきながら作業を終えた。



 あとはこれを、先に卵黄とはちみつ、そして小麦粉に油を混ぜて作った生地に何回か分けて加えて混ぜるだけだ。時間が経つと必死こいてメレンゲを作ったのが無駄になるので、ここからはスピード勝負である。


「よーし、ラストスパート!」

「楽しそうだね、フレール」

「ぎゃあっ!?」


 拳をぎゅっと握りしめたところで、後ろから声がかけられた。

 びっくりした!

 誰だよクリスか!?

 俺の背後をとることでおなじみのアサシン王子の顔を思い浮かべながら、勢いよく振り返る。


「……」


 そこには、唖然とした顔の騎士系イケメン、セザール様が立っていた。


「セザール…様?」

「あ、ああ」


 予想外の人物にもう一度驚きつつ、呼びかける。

 そんな俺の呼びかけに、セザール様は表情を変えないまま頷いた。

 人を驚かせておいて、びっくりしましたと言わんばかりの表情はどういう了見か。そんなことを思った後、さっき自分がどういう声を上げたのかを思い出す。ごめんびっくりするよな、女の子が野郎みたいな悲鳴上げたら。

 かくなる上は奥の手しかない。


「何のご用でしょうか?」


 そう言って、俺は記憶が戻ってから鍛えまくった必殺メイドスマイルを浮かべた。

 これが俺の奥の手。にっこり笑顔で悲鳴?なんのことですか?と事実をうやむやにすることだ!主にメイド長とか下女の子の前で素が出た時に使っているぞ!

 セザール様もさっきのは何かの間違いにしておきたかったのか、何かを飲み込むように頷いた後、頼れる騎士スマイルを浮かべた。


「いや、なに。帰ってきてから、お前とはほとんど話していないと思ってね」


 そうですね。

 妹からの情報を元に、できるだけエンカウントしないようにしていましたからね。

 セザール様が忙しかったのもあって今まではなんとか会わないでいられたが、ついに厨房に直接やってきてしまったか……。スール付きメイドになってからはかなり厨房に入り浸っているから、耳に入ることは覚悟していたが……。



 徹底して避けるのもできないことはないのだろうが、やりすぎてセザール様に変なスイッチが入っても困るからそこまでしなくてもいいとは妹談。

 妹とともに外泊してエンカウント自体していないならまだしも、ばっちり運命的な再会しちゃったからな。それこそ国外にでも行かない限りは完全に避けるなんて無理な以上、余地を残しておく必要があるのはわかるが。


 ……き、気まずい!

 すぐ近くにあるセザール様のイケメン顔に、俺は内心冷や汗をかいていた。

 だってこの人、俺のこと好きなのははっきりしているんだぞ!?

 いー兄さんと違って他に極大感情の矛先ないし!


「仕方ありませんわ。セザール様はご多忙でしたから」


 そんな心の声を隠しつつ、差し障りがない返事をする。

 忙しいのを大変そうに思っていますけど、それ以上の他意はないですとアッピル。それが伝わったかはさっぱりわからないが、セザール様は俺の言葉に同意するように小さく肩をすくめた。


「長く離れていると、こなさなくてはいけない挨拶回りも多くてね。なかなか困ったものだよ」

「セザール様は、ルクスリア家の次期当主ですから」

「ははは。そうは言うけれど、私には正直荷が重いことだ。スールが婿養子でも連れてきてくれれば、喜んでそちらに譲るのだが」


 おおっと、これは反応に困るやつだな!

 ノベルゲなんてほとんどやったことないけど、これがゲームなら今の台詞の下に選択肢コマンドが表示されているのはわかる。あれだろ、肯定と否定の二通りがあって、そのうち一つは攻略ルートへのフラグが立つやつ。

 セザール様ルートのハッピーエンドが駆け落ちであることを考えると、家督を継がないことを支持するのはなんか駄目な気がするな。いやでも、メイドの立場でも口にできる否定的台詞ってなんだ……?


「……なんてね」


 いい言葉が思い浮かばず、返答に困った俺を見て、セザール様はそう笑った。

 よし!これにのっかろう!


「もう、変なご冗談を」


 メイドの立場で返事に困ることを言わないでほしい。そんな気持ちを込めた言葉を口にしながら、軽く唇を尖らせる。これでセザール様が謝罪を口にすれば、さっきの選択肢もうやむやにできるだろう。

 ……って、あれ?

 あの、どうして悲しそうに目を細められるので?

 そこはすまんすまんってまた笑うところでは?


「冗談のつもりではないんだけどな」


 ぎゃーっ!?

 近い近い近い近い近い。イケメンが近い!

 反射的に後ずさりしかけたところで、腕が後ろの台にぶつかる。痛いと思ったのも束の間、その痛みに反応して強張った手から何かが滑り落ちた。


 かつーん。


 そんな音を立てて、何かが床に落ちる。からからとさらに音を立てながら転がっていく調理器具を見て、ようやく自分の手から泡立て器が落ちたことを俺の脳みそは理解した。

 泡立て器でよかった!!

 真っ先にそんなことを思っていると、間近にあった騎士系イケメン顔が離れた。


「すまない。調理の途中だったね」

「……あ、い、いえ、とんでもない」

「久しぶりにフレールに会えたものだから、つい気遣うのを忘れてしまった」


 身も心も完全なる女の子なら黄色い悲鳴ものの台詞をさらっと言いながら、セザール様はすまなさそうに頬を掻いた。

 そのお顔に、さっきまでの変なシリアスさはない。

 どうやら、今ので完全に気概を削がれてしまったらしい。セザール様は話の続きをする様子もなく、落ちた泡立て器を拾って手渡してくれた。

 本当に落ちたのがこっちでよかった。

 そんなことを思いつつ、もう片方の手が持っているボウルの方を見る。俺の努力の結晶は、やや泡が小さくなっている気もするが無事だった。


「それは?」


 ホッと息をついていると、セザール様は興味深そうに聞いてくる。


「しふぉ……き、絹のケーキと呼ばれるお菓子です」


 勝手知ったる名前の方で答えかけて、慌ててこの世界での呼び方に言い直す。シフォンケーキも確か柔らかい食感がシフォンっていう生地を連想させるからシフォンケーキなので、その点ではネーミングのベクトルは一緒だ。


「スール付きになってからは、たびたびあいつのために厨房で不思議な菓子を作っていると母上が言っていたね。すまないね、妹のわがままに付き合わせて」

「いえ。スールお嬢様の願いを叶えることが、メイドの本懐ですから」


 そして妹のためにがんばるのが、兄というものである。

 その点でいえば、このセザール様とスールは不仲というほどじゃないけど俺達ほど仲良し兄妹でもないので、そういうところは(俺の心情的には)折り合いが悪い。

 兄なら妹のことが無条件に可愛いんじゃないかなあ。

 いやでも、妹記憶インストール前のスールはほんと性格悪かったしな……。あっちはセザール様に対して執着があったようだけど(だからこそセザール様お気に入りのフレールはネチネチいじめられていたわけだし)、妹の攻略情報いわく、セザール様は兄として妹のそういう性悪なところを感知していたらしく、距離を置き気味だったらしいし。

 現に今も、妹が迷惑かけてない?辛くない?というオーラをお出しされている。

 なので俺は、前世の兄としてはっきりと答えた。


「今のスールお嬢様と一緒にいられて、フレールは幸せですから」

「……そうか」


 俺の言葉に、セザール様は目を丸くした後、小さく笑った。


「ここだけの話だけど。昔のスールは、お前のことをあまり好いていないようだったからね」


 あ、それはめちゃくちゃ存じております。


「だが、今のスールがお前のことを気に入っているのは、言葉の端々から伝わってくる。それがフレールにも届いているか少し心配だったが……杞憂だったようで何よりだ」


 そう言って、セザール様は浮かべた微笑みをより深める。

 ……あ、この人もなんだかんだ、妹のことが心配だったわけか。その笑顔を見て、俺はそんな得心を抱いた。

 前言撤回。

 折り合いは、思ったほど悪いものにはならなさそうだ。


「しかし、お前が菓子を作れるようになったのは少し寂しいな」

「?」

「フレールに菓子をあげて、嬉しそうな顔を見るのが私の楽しみだったから」

「ははは……」


 前言撤回を撤回。

 やっぱこの人と話すのは気まずい!

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