第19話:兄、いなくなる

「……はあ」


 私ことスールは、溜息をつきながら屋敷の廊下を歩いていた。

 抱えているのは水が入った桶。井戸からついさっき引き上げてきたばかりの水だから、桶越しにもひんやりしているのがわかる。手が少しかじかむけど、こんなことは苦にもならなかった。


「はあ」


 もう一度溜息。

 今日だけで、数え切れないほどの溜息が口から出ている。本当に溜息の数だけ幸せが逃げると言うなら、とっくに在庫はソールドアウトしているだろう。それくらい、ここ三日の間で私はたくさんの溜息をついていた。

 原因はただ一つ。

 私の足は、その原因がいる部屋の前で止まった。


「入りますよ」


 こんこんとノックしてから、部屋の中に声をかける。

 一応他の人にも聞かれる可能性がある廊下にいるから、口調はスールお嬢様モードだ。

 ここで返事が返ってくるのを期待したけど、残念ながらうんともすんとも返ってこない。また溜息をついてから、私は片手で器用に扉を開けた。


 部屋はルクスリア家に仕える使用人にあてがわれた寝室の一つ。

 基本的に複数の使用人が共同で使っているけど、例外はある。例えばメイド長とか料理長とか、使用人の中でも偉い人。そして、ルクスリア家の人間のお世話を直接する専属メイドとかである。

 ここは私ことスールの専属メイド、フレールが寝泊まりに使っている部屋だった。

 つまり、私の前世のお兄ちゃんの部屋だ。


「……お兄ちゃん、起きてる?」


 後ろ手に扉を閉めながら、ベッドの上で眠るお兄ちゃんに声をかける。

 返事は、ない。

 近づいて顔を覗き込めば、頬を赤くして眠っているお兄ちゃんの姿があった。



 お兄ちゃんが寝込んでから、今日で三日目になる。

 診てくれたお医者さん曰く、熱は出ているけどそれだけらしい。何か混乱するようなできごとがあって、そのせいで頭を使いすぎて熱が出ているとかどうとか。落ち着いたらそのうち目が覚めるだろうと言って、お医者さんは帰っていった。


 私は心底安心した。

 もしも奇病のたぐいだったら、中世ヨーロッパを模倣した『サンドリヨンに花束を』の世界だとそのまま放り出される可能性があったからだ。その時は家なんか捨ててお兄ちゃんの世話を一生見るつもりだったけど、生活能力には不安しかないのでそうならなくて助かった。治るものも治らなくなっちゃうからね。

 でも、その安心は翌日になっても目覚めないお兄ちゃんを見て一気に不安に変わった。

 初日は立場を考えて他の使用人さんに看病を任せていたけど、その日から看病は私がすることにした。もちろんお父様をはじめ周りからはかなり反対されたけど、そこはかなり無理やり押し切った。

 だってこの人は、私のお兄ちゃんなのだ。

 看病するのは妹である私の役目である。



「お兄ちゃん、布とるね」


 返事がないとわかっていつつも、つい声をかけてから額に載せた布巾をとった。

 それをいったん脇に置いてから、桶の中で泳いでいる布巾をすくい上げる。冷たい水を吸ってひえひえの布を折りたたむと、ぎゅっと力を入れて水を絞った。

 スールとして生まれ変わったこういう水仕事なんて普段全然しないから、これだけで指先が赤くなる。令嬢の体、なんたる貧弱さか。

 鍛えたいなあと思うけど、台所に立つとか絶対許してもらえないからなあ。

 お兄ちゃんが料理を作っているところすら見られないし。


「……」


 厨房に立つお兄ちゃんの姿を想像したところで、しょんぼりと肩が下がる。

 蜂蜜レモンプリンはとてもおいしかった。プリンが食べたいという私のわがままに応えるために、お兄ちゃんがすごくがんばってくれていたのを知っていたから、なおのこと。

 またあれが食べたい。

 お兄ちゃんが私のために作ってくれた料理が食べたい。

 十四才の精神に引きずられて、駄々をこねるような気持ちが湧き上がる。

 じわりと涙が滲みかけたので、慌てて首を振った。いけないいけない。今はお兄ちゃんの看病が第一!


「……心配させた分、起きたらいっぱい色んなお菓子作ってよね」


 ついそんなことを言いながら、冷たい布巾をお兄ちゃんの額にのせた。

 冷たさが心地よいのか、苦しげだったお兄ちゃんの顔が少しゆるんだ。正直に言って可愛い。つられてふにゃりと笑ってから、お兄ちゃんがしてくれるように汗で湿った頭をよしよしと撫でた。

 それも気持ちいいのか、さらに頬がゆるんで、お兄ちゃんの顔が私の手にすり寄った。


「可愛い……」


 思わずしみじみと呟いてしまった。

 なかなか起きないのはとても心配だけど、それはそれとして看病されているうちのお兄ちゃんが世界一可愛い。

 お兄ちゃん、前世でもなかなか病気とかしなかったからなあ。

 お兄ちゃんが倒れる時は大体私も一緒に寝込んでいるし。



 しばらく不謹慎に可愛いお兄ちゃんを満喫した後、そっと手を離した。

 その手でさっき脇にどかした布巾を手にとると、シーツをめくってお兄ちゃんの体を外気に晒す。発熱で汗ばんでいる体が冷えないうちに、手にした布巾で汗を拭った。

 さすがに全身は私の体力的に厳しいから、冷えたらまずい首筋あたりを重点的に。

 汗を吸って湿った布巾は、桶の縁に引っかけた。

 清潔な布は貴重なので、こうしてローテーションしていくのである。原始的な冷やし方をしていると、ひとたび貼れば半日くらいは持つ冷えピタの偉大さを実感した。


「あとはお水を飲ませるだけっと……」


 ふうと一息ついてから、机に置いてある水差しの方を見る。

 冷たい水を飲ませるわけにもいかないので、こっちは部屋に常備しているのだ。お医者さんから味のついた水分の方が飲みやすいかもと教えてもらったので、お兄ちゃんが作ったレモンの蜂蜜漬けで余った蜂蜜を少しだけ入れている。

 ほんのり黄色に色づいている水差しを手にとれば、ふわりとレモンと蜂蜜の香りがする。

 それ自体はとても良い匂いだったけど、脳裏に嫌な顔がよぎってしまった。

 ちょっと浅黒い肌に、それよりなお黒い鴉みたいな髪。

 トレードマークの三白眼がよく似合う、オリエンス王国の第一王子。


「……やっぱりクリストフ王子のせいよね」


 お兄ちゃんが寝込んだ日、クリストフ王子が来ていたことは使用人の子から聞いている。

 いつもはまずお父様や私のところに顔を出しに来るのに、その日はまっすぐお兄ちゃんのところに行ってすぐに帰ってしまったらしい。すぐに帰ったからこそ、あのアサシンが何かをやらかしたという確信が持てた。

 本当ならすぐにでも問い詰めに行きたいところだけど、相手は王子様である。すっかり友達になったジャック王子に使者を送れば案外なんとかしてくれそうだけど、さすがにそうホイホイと呼び出すわけにもいかない。


 それに、今のお兄ちゃんを見せたくないのもあった。

 可愛いお兄ちゃんをクリストフ王子に見せて、余計に好きになられたら困る。あと、騒がしくされると寝込んでいるお兄ちゃんに障るし。

 あと一応、本当に一応、クリストフ王子が無関係な可能性もあるしね。

 思い込みで決めつけるのはよくないってお兄ちゃんも言っていた。


「お兄ちゃんが起きたら話を聞いて、それからOHANASHIAIよね」


 ぐっと拳を握って、プランを立てる。

 そのためにもまず、お兄ちゃんが起きてくれなきゃなんだけど――――



「…………んぅ。朝…?」


 ベッドの方から、聞き慣れた声が聞こえた。




「……っ!」


 水差しを持ったまま、勢いよく振り返る。

 そこには、眠たげな顔で首を動かしているお兄ちゃんがいた。

 じわっと涙が浮かぶ。滲んだ目が辺りを見渡していたお兄ちゃんの目と合った瞬間、私は水が零れるのも構わずお兄ちゃんに抱きついた。


「わっ、わわ」

「もーっ、お兄ちゃん!心配するからいきなり寝込まないでよねっ!」


 そう叫んだ後、うわーんと思わず泣いてしまう。

 どうやら私は自分が思っていた以上に、お兄ちゃんが倒れて参っていたようだ。しばらく泣き止むことができず、ぐすぐすと鼻を鳴らしながらお兄ちゃんにしがみついた。


 違和感を覚えたのは、しばらく泣いた後だった。

 あれ?と私は内心首を傾げる。

 私が泣いていると、お兄ちゃんは宥めるように声をかけてくれる。それから、頭か背中のどっちかを優しく撫でてくれるのだ。

 でも、お兄ちゃんはどっちもしてくれない。

 それどころか、困惑したような視線が私のつむじに突き刺さっていた。


「……お兄ちゃん?」


 お兄ちゃんの胸元から顔を離して、顔を見上げる。

 そこにあったのは、すっかり見慣れた今のお兄ちゃんの顔。

 フレールという女の子の顔になっているけど、私のお兄ちゃんだってわかるような雰囲気がいつもならあった。

 でも今は、そういうのを感じない。

 フレールという女の子の顔。ただそれだけになっている顔が、困ったような表情を浮かべて私を見ている。

 そして、おずおずと口を開いた。


「スール様、一体どうされたのですか?」

「…………」


 私の頭は、真っ白になった。

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