第17話:城にて
その日、オリエンス王国第一王子ジャン=クリストフ・スペルビアの機嫌はジェットコースターのように落差が激しかった。
朝食をとっていた時は最高潮であり、第二王子とあわせて眉目秀麗と謳われる容貌に常時穏やかな笑みを浮かべていた。給仕をしたメイドの何人かはしばらく使い物にならなくなったほどである。
しかし朝食からほどなくして、数日後に訪れるはずだった隣国の客人が、予定より早く到着するという早馬の知らせが届いた。
到着が早まったとなれば、準備を進めなければいけない。どうもてなすかは二人の王子に采配が委ねられていたため、当然のように二人は準備の調整に追われることとなった。
知らせを聞いた瞬間、上機嫌だったクリストフの機嫌は一気に地の底まで落ちた。
采配の指示を出すクリストフの顔は、端麗さもあいまって鬼気迫るものだったと。臣下および使用人達は口を揃えた。
「……はああ」
指示出しの合間に挟まったお茶の時間。
普段同席する義弟は他との話し合いが長引いているため、クリストフは一人でティールームの椅子に座っていた。
彼の前に、まだお茶は用意されていない。
一息つくためにクリストフが強引にねじこんだため、準備が整っていないのである。そしてそれは、クリストフの思惑通りであった。
「くそっ」
人がいないのをいいことに、クリストフは盛大に舌打ちを零した。
本日不機嫌さを隠してはいなかったが、それでも臣下や使用人がいる前で直接不満を口に出すのは憚られる。しかしこうして音に出し、ガス抜きをしたかったのも事実。ようやくその機会を設けられたクリストフは、気兼ねなく顔を顰めた。
今日、彼には外出の予定があった。
オリエンス王国が貴族、ルクスリア家に訪問するという予定である。
今年に入ってから、クリストフがかの家に訪ねた回数はかなり多い。それを知っている臣下達は、クリストフがルクスリア家の息女、スール・ルクスリアのことを気に入っているのかと、いつか彼女に婚約を申し込むのではないかと、そんなことを陰で話していた。
自分と縁がある貴族の娘と婚約してくれた方が都合がいい臣下に至っては、その貴族の話を出してはそちらとの茶会や食事会を主催してはクリストフを招待している。だが、招待されれば赴くが、それ以降は自分から用事を作って行こうとはしなかった。
そんな中、第二王子であるジャン=ジャック・スペルビアまでルクスリア家に足を運ぶようになった。義兄であるクリストフを強く敬愛しているジャックまでも訪問するようになっては、いよいよ婚約発表まで秒読みかと各所には緊張が走っている。
クリストフの目的がスールではなく、そのお付きであるメイドだと知っているのは、義弟を始めとするごくわずかの人間だけであった。
(あいつは喜んでくれただろうか)
脳裏に想い人――フレールの顔を浮かべる。
柑橘類が好きなのに食べる機会がないと嘆く彼女に、贈答されたものを融通しようかと言ったのは何日前だったか。
基本的に自分の前では無愛想でつっけんどんという、王族を前にした使用人としてはあるまじき態度をとる(無理に繕わなくてもいいと告げたのは他ならぬクリストフではあったが)少女が満面の笑みを浮かべたのを思い出し、クリストフはもう一度舌打ちをしたい気分になった。
謝礼はしっかりと口にする彼女だ。
レモンを渡せば、嬉しそうな顔で礼を口にしただろう。
それを自分が見られないということが口惜しくてたまらなかった。
無論、贈り物をしにいく予定をずらすことはクリストフとて考えた。
しかし、訪れる客人は日帰りではない。それなりの期間は滞在し、その間第一王子たるクリストフは客人をもてなさなければならなかった。
次にクリストフの体が空くのは、短く見積もっても一ヶ月後。
当然、生の果実たるレモンはそれまでもたない。王族にとっても貴重品であるため、一ヶ月後にクリストフが私用で持ち出せるほどの量を確保できる保証もない。彼女の笑顔を見ることではなく彼女に喜んでもらうことを優先するなら、自分で渡しに行くのは諦めなければならなかった。
彼女の好物を贈る機会はこれからもあるだろう。
否、これからも作り続けるつもりだ。
けれど、最初の顔を見られないというのはやはり悔しいものがあった。
こんこん、と。
物思いにふけっていると、扉をノックする音が聞こえた。
「誰だ」
「イーラでございます。お茶をお持ちいたしました」
その名前を聞いて、少しだけ目を瞬かせた。
朝食以降、あの執事長の顔を見ていなかったことを思い出したのである。他国の客人をもてなすにあたって、彼もまた矢面に立つ存在のはず。一度も見かけなかったのは奇妙だなと思いつつ、返事を紡ぐために口を動かした。
「入れ」
「失礼いたします」
是の言葉を投げかければ扉が開き、銀のワゴンを恭しく推す執事長が入ってきた。
(む?)
ワゴンの上には、一人分の茶器と茶菓子が置かれている。
そこまでは普通だ。しかし今日は、黄色い物体が浮かぶ黄金の液体が入った瓶もあった。
義弟はたまに紅茶に蜂蜜やジャムを入れて飲むが、クリストフは大抵砂糖を少し入れるくらいである。自分に供するには不釣り合いなそれに視線を向けていると、それに気づいた執事長のイーラが小さく微笑んだ。
「これは、フレール嬢からの贈り物です」
「フレールの?」
「レモンを蜂蜜に漬けたものですね。食べごろになるにはまだ数日かかるでしょうが、蜂蜜には少し風味がついていると思いますので、よろしければお味見でも」
そう言いながら、イーラは丁寧な仕草で紅茶を淹れ始めた。
その作業を横目に、クリストフは瓶を手に取った。
「わざわざ使者を待たせて持たせたのか。後日使いでも送ればよかったろうに」
「手際がよかったので、さほど待ちませんでしたよ」
「……ん?」
イーラの言葉を何気なく聞き、少し遅れて首を傾げた。
「まるでお前が立ち会っていたような言い方だな」
「ええ。僭越ながら、わたくしがお届けに上がりました」
「お前に頼んだ覚えはないんだが?仕事は?」
「有能な部下がいると、安心して場を任せられますね」
「……」
にこりと微笑みながら、淹れたばかりの紅茶をそっとクリストフの前に置く。
その顔をしばらく見つめた後、小さな溜息とともにティーカップを手にとった。
「執事長がわざわざ出向く用件でもないだろうに」
「王子が気にかけていらっしゃる女性の人となりを見るのも、執事長の務めですから。それに彼女は私の婚約者なので」
「っ、ごふっ、ごほっ!」
今までと変わらないトーンで投げ込まれた爆弾に、クリストフは盛大に紅茶をむせた。
「クリストフ王子、大丈夫ですか!火傷は!?」
「お前のせいでこうなっているわけだが!?」
焦った声を上げながらナプキンで紅茶を拭ってくるイーラに、クリストフは思わず剣呑な声を浴びせかけた。
とっさに主の心配をし、処置のために手が動くのはさすが執事長といったところだが、そもそもの原因は彼にある。どの面下げてとクリストフが彼を睨むのは仕方ないだろう。
しかし、その怒りはすぐに先ほどイーラが口にした言葉を反芻することで打ち消された。
ナプキンで紅茶を拭い取り、シミがないかを確認したイーラはふうと安堵の息を零す。彼が体を離したのを見計らって、クリストフは口を開いた。
「……婚約者?誰と、誰が?」
「私とフレール嬢……いえ、フレールが、ですね。とはいえ、昔同じ孤児院にいた時にかわしたささやかな約束ですが」
「知り合いだったのか、お前達は」
「はい。いわゆる幼馴染というやつです」
「……」
つい少し前までの焦りを綺麗に消し去り、瀟洒な所作で紅茶を淹れ直している執事長の横顔をまた、今度は先ほどよりも強く見据える。
睥睨と言っても過言ではない。
突拍子もないタイミングで告げられた言葉は、牽制の類いにしか聞こえなかったからだ。
「そんなこと、あいつから聞いていないが」
「再会したのはつい最近ですから。クリストフ王子にわざわざ好いた相手のことを伝えなくてはいけないほど、お二人は親しい間柄なのですか?」
首を傾げながら言われた言葉に、クリストフは思わず顔を顰めた。
ジャン=クリストフは、フレールに恋愛感情を寄せている。
おそらくは、路地裏で彼女に助けられた時から。
今では己の感情を明確に自覚しており、それを成就させるために贈り物を携えて彼女の元を訪れては、距離を縮めようと苦心している。
しかし、直接それを伝えたことはなかった。
隠しているつもりはない。だが、王族である自分が明確に好意を伝えてしまえば、彼女から退路を奪うことになる。主であるスールより自分を選んでくれると思い上がるには好感度が足りていないことくらい、クリストフとて十分にわかっていた。
だがそれは、告白というスタートラインにまだ立っていないことを意味している。
想いを伝えた誰かとフレールが付き合ったとしても、口を挟む権利がないということだ。
あんな変わった女を好きになる男など、自分しかいないだろう。
そんな慢心があったことは否めない。
フレールに飛び蹴りと叱責をされていた義弟だけが懸念だったが、蛮行を止めてくれたことを感謝しこそすれ、そこに異性としての意識がないことは確認済みだ(あれで惚れていたら、それはそれで兄として義弟の性癖を疑っていたが)。
競争相手がいないならば、ゆっくりと距離を縮めていけばいい。
そんな策は今、思わぬ伏兵によって崩れ去ろうとしていた。
(……フレール。お前は、この男が好きなのか?)
イーラに返せる言葉もなく、紅茶にも手がつかない。
組んだ手に唇を押しつけながら、第一王子は顔を顰めたまま沈黙を続けた。
(どうやら、良い具合に勘違いをされているようですね)
押し黙った主の横顔を見て、イーラは内心ほくそ笑む。
紅茶を噴き出すほど驚いたのは想定外だったが、それ以外は概ね自分の思惑通りにクリストフの思考を誘導できたと考えてもいいだろう。
クリストフが「イーラと付き合っているのか」と質問しても、フレールはそれをイーラによる仕込みだと認識するはず。事後承諾で作戦を進めたことは後で怒られるだろうが、クリストフと交際する気がない彼女はそれを肯定してやりすごそうとするだろう。
否定さえなければ、あとはクリストフが勝手に二人が好き合っていると思い込む。
王妃の手によって追い出され、再び第一王子の座に返り咲いてからは粗雑さが出るようになったが、それでも既に交際相手がいる女に横恋慕する蛮行は犯さないはずだ。苦い恋をしたと思って、手を引いてくれるだろう。
執事長イーラは、ジャン=クリストフの人間性を信じていた。
(主に対して真実をお伝えしないのは心苦しいですが、嘘は申しておりません。全てはクリストフ様とフレールの幸せのため。どうかお許しください、我が主)
主を策略にはめることを心苦しく思いつつも、それで口を緩めることはない。
これに乗じて初恋の少女と交際ができればという下心は確かにあるが、それ以上に道ならぬ恋で大事な主と少女が不幸にならないようにという思いが強いのだから。
しかし、イーラは見誤っていた。
クリストフがフレールに寄せている想いの強さを。
彼がそれを知ることになるのは、大きく動いた事態が収束した後のことである。
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