第26話 家出と案内人
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駅に着くと、迷わず一番高い駅の切符を買った。ここから一番遠い駅の名前は
手紙を置いて家を抜け出してきたのは、父さんも母さんもすっかり眠った夜中の二時過ぎぐらいだ。正広の家にも手紙を入れて来た。二度と会わないなんてことはないと思うのだけれど、とりあえずこんな風に裏切ってしまうことになったことを謝らなければならなかった。やっぱり、正広の邪魔をするわけにはいかなかった。正広が家族のために頑張ろうとしているのに、僕自身のわけの分からない話に巻き込んじゃいけない。そう思った。
窓の外でひとりでに流れていく薄暗い田園風景を、僕は微塵も知らなかった。僕が地元の鉄道で行ったことがあるのは最寄り駅からせいぜい五駅かそこらだったので、この路線に関する情報を僕はほとんど持っていない。
始発の列車は本当に誰も乗っていなくて、外にはまだ曇り空の夜が少し残っている。電車の蛍光灯が眩しいくらいだった。電車に揺られて知らない土地に向かう僕は、生きる世界が少しだけ広がっているみたいな気分になっていて、どこかワクワクしていた。
学校はしばらく休むことにした。先生に休むとかは伝えてないから、要はサボり。とにかく儀式に集中できる環境が必要だと思った僕は、しばらく儀式以外のことを気にしなくて良い環境を求めて家を出た。締め切りに追われた作家がホテルで缶詰をするみたいなものだ。
黒いビニール製のウインドブレーカーに身を包んだ僕は一人で座席に座っていて、これでもかと荷物が詰まった旅行鞄が二つとリュックサックが一つ、僕と一緒に左右に揺れていた。着替えは二、三日分しか詰まってないのに対して、儀式の後半ぐらいまでならこなせる分の準備が詰まっている。重くて仕方がない。
ずっと揺れてると眠くなってきた。家を出たのだって随分な夜中だったし、終点まで寝ておいた方が良いかもしれない。なんてまどろんだ意識で考えていた時だった。
「ごっつい荷物やなお兄ちゃん、旅行か?」
「へっ? ――うわわっ!」
一瞬で目が覚めた。正面にいつの間にか、見たこともない花柄着物のおばあちゃんがちょこんと、僕の正面に座っていたのだ。おばけか何かかと思うぐらい、微塵も気配を感じなかった。
いや、僕の注意力が落ちきってただけなのかもしれない。
「この路線行って楽しいようなとこひとっつもあらへんで?」
「……まあ、ちょっと青野乃の方に」
「なんや兄ちゃん青野乃に行くんかいな!」
「おばあちゃんも、青野乃に向かってるんですか?」
「いや私は次ので降りるんやけどな娘が青野乃で民宿やっとるんやわ。良かったら泊まったってえや。おばあちゃんが紹介してくれたで! 言うたら安なるから」
「は、はあ……」
話の展開が目まぐるしい上に、おばあちゃんの口調は関西弁っぽいし、喋りが早いしで何言ってるか全然頭に入ってこない。
「お兄ちゃんまだ若そうやなあ。中学生くらいとちゃうか? 学校とか行かんでええんか?」
「……えっと」
「分かったさては月曜からサボりやな!? 最近はホンマに悪いガキばっかやのう」
なんて僕が口を開くタイミングを見失い続けてる間に、車内アナウンスが聞こえてきた。
「おばあちゃん、次吹天道らしいですよ」
「ほんなら私もう降りな。この後みっちゃんとカラオケ行って今日こそみっちゃんの九十六点超えなあかんねん。こんなとこでお兄ちゃんと喋って喉枯らしとる場合とちゃうねんけどな。だははははは!」
さっきから僕ほぼ喋っていないんですが。
電車が嫌な金属音をかき鳴らして、ゆっくりとその動きを止めた。電子ベルの鳴る音とともに、自動ドアが開いた。
「ほなな兄ちゃん、旅行楽しんでや! 民宿止まったってや! やけど旅行もええけど学校もちゃんと行くんやで!」
嵐のようなおばあちゃんは僕に幾つも要求してから、駅の階段の方に早足で消えていった。
始発に乗ってカラオケ。早朝にも関わらず圧倒的な声量とテンション。止まらないお喋り。すごいおばあちゃんだった。
とりあえず、民宿の話だけ覚えておこう。
車内に残された僕は、どっと疲れて数分後には眠りに落ちていた。
青野乃は土砂降りの雨だった。雲の隙間なんて欠片ほどもない、一面の灰色が空に広がっていた。雨の予報なんて全く知らなかった。
これだけの大荷物で家から移動してきたというのに、僕はよりによって傘を持ってきていなくて、駅の正面口に着くなり、屋根の下のベンチに座ってぼんやりと目の前の風景を眺めていた。築数十年は経っていそうな古い民家がうじゃうじゃと連なっているだけで、辺りにはコンビニの一軒だってありはしなかった。山中の村、といった感じ。
探せば多分スーパーくらいあると思うのだが……というか無いと困る。
金銭的には、しばらく困りはしないはずだ。なにせこれまでの人生で母親に引き出すことを許されなかった、お年玉十六万円を全て勝手に引き出してきたのだ。帰ったら家出の件も含めて母さんにたっぷりどやされるに違いない。
だけれど、その結構なお金を使えるお店が辺りに一軒も見えない。
「……しかもこの雨で身動きとれないんだよなあ」
僕の力ない独り言は、豪快な雨音で簡単にかき消されていった。
リュックや鞄の中には、濡れてしまうと困る紙の類も沢山ある。この雨の中を全力疾走してしまうのは、あまりよろしくない。駅員さんに傘とか借りられないかと尋ねてみようとしたところで、そもそもここは無人駅だったことを思い出した。
始発に乗ってきたというのに、駅の時計を見てみれば時刻は既に午前十時を過ぎている。儀式の準備を進めようにも、作業台の類が無いと難しい。
今夜はここで野宿するしかないか……。寝る場所に関してはマシンガンおばあちゃんの言っていた民宿を利用するのもアリだったのだが、この雨で動けないのなら探しようが無い。
「――君、こんな所で何してるん?」
突然するりと、右の方から声が差し込まれた。
「……えっと、雨宿りです」
声のした方に顔だけを向けると、傘を刺した化粧の濃いおばちゃんが僕を見下ろしていた。ザ・おばちゃんって感じのパーマ頭で、ピンクニットのカーディガンを羽織っていた。どうやら買い物を済ませた直後のようで手提げからは長ネギが覗いていた。
なんという幸運だろう。スーパーの場所が訊けるかもしれない。
「すいません、少し質問なんですけど、この辺にスーパーってありますか?」
「んーと、青野乃から八駅前のとこに、吹天道って駅があったやろ。あそこの駅に隣接してるスーパーが一番近いし大きいで。ウチもついさっきそこで買い物済ませてきた帰りや」
「マジですか」
がっつり通り過ぎてしまっている。しかもこの辺は電車が二時間に一本しか走ってないので、引き返そうものなら結構なタイムロスになる。
「兄ちゃん、見た感じ多分まだ学生やろ。学校はどないしたん?」
「……あんまり言いたくないです。あ、もう一つ質問いいですか?」
「ええで」
「知らないおばあちゃんからこの辺りに民宿があるって聞いたんですけど……」
「ああ、それウチやわ」
「マジですか」
予想外だった。このおばちゃんと喋ってるとマジですかが口癖になってしまいそうだった。
「ホンマホンマ。多分そのおばあちゃん吹天道で降りていったやろ? 今日カラオケ行くねんー言うて一ヶ月も前から言うとったから」
「みっちゃんの九十六点を今日こそ超えるらしいです」
「知らん人に話しかけるんやめえや、って前から散々言うてんねんけどなあ」
おばあちゃんにウンザリしているのか、おばさんの語調は少し荒っぽくなった。おばちゃんの怒りに比例するように雨脚が少し強くなった。
「僕も安くしてもらえますか?」
「兄ちゃん、泊まるところ探しとるんか」
「十六万円あります。それで泊められるだけの期間泊めてください」
「……ホンマに訳分からんこと言うてるな君。まあ、とりあえずウチにおいで」
おばさんは自分の鞄の中から折り畳み傘を取り出して、僕に差し出してくれた。
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