Ending=Girl
ろろろ
第1話 放課後の少女
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僕が世界を窮屈だと感じるようになったのは、多分自分の無個性を自覚した辺りからだ。
世界はとにかくだだっ広い。一人で世界のありとあらゆる場所に足を運ぶ、なんてことも不可能ではないのかもしれないけれど、ごく普通の中学三年生として、日本の義務教育下でぬくぬくと育っていた当時の僕にはまず不可能な行いだったし、別にしたいとも思わなかった。むしろ自分のテリトリーからは出たくなかった。だから僕が行動を起こす範囲は世界全土の中でも数千万分の一である僕の動き回る領域に限られる。そして学生の動き回れる範囲なんてしょぼいもんで、要はそれが、普通の学生であるということだった。
僕の生きる世界は皆の座る教室と、ご飯を食べるだけの自宅と、毎日のように行き来する通学路。ただそれだけだった。
ただ――
彼女は、世界と向き合っていた。
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桜の時期はとうに終わりを告げ、温く心地のいい空気が日本中を満たす季節となった。すっかり傾いた空模様から覗く夕陽はガラスを突き抜け、教室を鮮やかに照らす。窓枠の影は教室を、四角い積み木を並べたみたいに規則的に区切る。眩いばかりの橙と何も受け付けない黒のコントラストは、普段僕たちが過ごしている空間を不思議な雰囲気に染め上げていた。
根っからのインドア派である僕――
本は良い。何が良いかって、僕が手を下さなくても物語が勝手に進んでいってくれることだ。主人公が勝手に苦難を乗り越えて成長し、勝手に勇敢に世界を救ってくれる。主人公が胸を焦がすような恋に落ち、最後には理想のヒロインとハッピーエンドを迎えてくれる。読み終われば、本屋でまた僕が望む物語を買えばいい。
僕が経験する必要はない。眺めるだけで良いのだ。
僕は読んでいた文庫本のページを閉じた。量の割には十分な読後の気持ちよさを得られたと思う。ヒロインが自殺する結末には少し胸が痛んだけれど、なんと続編が存在するらしいので、とりあえず帰りに本屋に寄ろうかな。
一つ息を吐き視線を教室に移したところで、僕は初めて教室の中にもう一人生徒が残っていることに気がついた。ホームルームが終わってからひたすらにページをめくっていたので、今の今まで全く気がつかなかったようだ。
僕と同じ運動場側の、外の景色がよく見える一番窓際の列。僕がその列の一番後ろなのに対して、前から三番目。彼女はひたすらにルーズリーフに何かを書いていた。一枚書いてはひらりと床に捨て、一枚書いてはまた放る。
僕は少しだけ勇気を出して、尋ねてみた。
「……綿雪さん、何してるの?」
綿雪華。容姿は整っている方だと思う。しかし、いつも黙っているのと、顔を隠してしまう長い黒髪が相まって、あまり目立たないクラスの影担当といった感じのポジションだ。
後ろから僕が声を投げかけても、静かな教室にがりがりとシャーペンの走る音だけが響いている。彼女も僕と同じであまり社交的な性格ではないと思っていたけれど、綿雪さんは特に筋金入りだなと感じた。少しの勇気を振り絞ったのは大失敗だったらしい。
僕は自分の机に視線を下ろしてため息をついた。仕方ないから帰ろう。そう思って僕が席を立ったときだった。こつり、と紙飛行機が正面から僕の胸元に突っ込んできた。
誰が投げたんだ?
――決まっている。綿雪さんだ。
こんな嫌がらせのような真似をされる心当たりはない。
受け取った紙飛行機をまじまじと眺めていると、僕はその折り目に潜む文字の存在に気付いた。つまり、紙飛行機で彼女からの手紙が送られてきたわけだ。その距離およそ三メートル。
何故手紙なのか。
疑問を抱きつつ、僕は紙飛行機を開いて、一枚の紙に戻した。
『準備をしてるの』
女の子特有の柔らかい文字で、そう書かれていた。
なぜ筆談なのだろうか。
質問に答えてはくれたものの、疑問は解消されるどころか深まっただけだった。その辺りも含めて、僕はもう一度「準備?」と質問を重ねた。すると数秒して、丁寧に丸められた紙の玉が投げられてきた。紙飛行機が面倒になったらしい。
『準備』
短く書かれていた。やはり、口を開いてくれる訳ではないらしい。綿雪さんが喋るのが苦手だとか、聴覚に障害を持っているという話はまるで聞いたことがない。そもそも僕の声に反応したのだから、少なくとも声を聞き取ることは出来ている。
筆談は綿雪さんが意図的に喋るまいとして行っていることなのだろうか。でも個人的な問題だから、僕があれこれ突っ込むのもよろしくはない。
「明日、何か発表とか提出するものなんてあった?」
三つ目の適当な質問には何も返って来ず、もちろん返事も無かった。僕も黙ってるしかない。
無言の教室でシャーペンだけが踊り続ける。喋らない綿雪さんの手は素早く、そして的確に何かの図を描いているようだった。
ここで僕は懲りずにもう一度勇気を振り絞ることにした。普段は人に率先して干渉しに行くことはない僕だが、綿雪さんがそこまで必死で何を描いているのかが凄く気になった。僕は綿雪さんの近くに歩み寄り、床に散らばった紙の一枚に手を伸ばした。
かさり、と紙の擦れる音がした途端だった。
「――っ!」
言葉にもなりきらない、綿雪さんの声だった。普段感情を露にしない――ましてや喋ることすらしない綿雪さん。それが、いきなり叫んで僕に飛びかかってきたのだ。
かわいらしい声だった。
彼女のギャップと突然の飛びつきに思わず仰け反った僕は、紙の山を思いきり踏んづけてしまった。
結果、派手にすっ転ぶ。
「うわわわわっ」
机をなぎ倒しながら仰向けに倒れる僕。タックルしてきた彼女も一緒になって倒れる。踏んづけていた紙が宙を舞う。
一瞬見えた円とその中の星――確か
教室を振るわせる重たい打撲音とともに、強い衝撃が体に走った。
最近体育で柔道の授業を受けているおかげか受身をなんとか取れたので、後頭部を固い床に叩きつけるような事故にはならなかった。それに体に痛みが無いわけではなかったけれど、どうにか彼女を受け止められた。
というより、彼女が僕に馬乗りになっていた。
「……あ」
変な声を出してしまった。
放課後の教室。僕を見下げる綿雪さん。
背景の夕暮れが彼女の影を更に濃くする。色白な肌の綿雪さんが軽く上気させている顔は、どこか艶っぽくてとても綺麗だった。荒い息と揺れる肩。腰の辺りまである長い黒髪が、きらめいて僕の方に垂れている。真っ黒な瞳に吸い込まれそうになる。とても柔らかそうな唇。
時間がとろけて、静かに流れ続ける。一体どのくらい経ったのだろう。
多分、僕は思いっきり照れていたのだと思う。背骨がぞくぞくする。恐怖とかじゃない、初めて自分を慰めたときのような背徳感。
ずっとこのままでいたい。なんなら彼女に飛びついて抱きしめたい。
だが、僕は心臓を直に掴まれたように胸が苦しくなった。綿雪さんの水晶のような目から、涙が流れていたからだ。
恥ずかしい――のか?
意味も分からないまま、罪悪感でいっぱいになる。僕は苦し紛れに言葉を吐き出す。降参したように両手を挙げた。
「ごめん。僕が悪い」
流れた涙を制服の袖で拭い、綿雪さんはポケットからメモ帳を取り出して素早くボールペンを走らせる。
『でも見たよね』
「何を?」
綿雪さんは、黙り込んでしまった。とろりとした目で、僕を見つめる。
「と、とりあえず、この体勢のままで喋るの止めよう。ヤスヒロ先生にぶん殴られちゃう」
「――?」
彼女が何と言ったのかは分からなかった。は、だったかもしれないし、へ、だったかもしれない。とにかく曖昧な発音だった。さっき僕があげたような間抜けな声をあげてから、綿雪さんは状況を理解したようだった。荒げた息に合わせてリズムよく揺れていた肩が、徐々に小刻みに震えて、みるみる顔が赤くなる。
僕が気を遣って目を逸らした次の瞬間だった。
「ぐぎっ!」
間抜けな叫び声を上げたのは僕だ。
彼女は僕を両手で突き飛ばすようにして僕の上から飛びのいた。その掌底のように放たれた突き飛ばしは僕の鳩尾にクリーンヒット。後ろに飛ぼうにも地面に寝たままなので衝撃を受け流しようがない。突き飛ばしの全威力を、僕は胴でもろに受け止めてしまった。
「ぐ……」
『ごめんなさい!』
「だいじょうぶ。大丈夫だから……」
こんなときまで筆談であることにちょっぴりいらっとした。
無理やり笑顔で繕った僕の言葉が震えているのは自分でも認識できた。見栄すら張り切れない僕は、とりあえずお腹を抱えてうずくまってしばらくそのままの体勢でいる。
僕は綿雪さんの質問に答えることにした。僕の上から飛びのいても、結局へたり込んだままの綿雪さんと、うずくまって綿雪さんを見上げる僕。
「さっきの質問だけど――見たよ」
『さっきのって……』
「その紙に描いてある丸と星――だよね? 見られたくなかったのって……」
一瞬はっとした顔をした綿雪さんは、こくりと頷く。僕は続ける。
「綿雪さんが見られたくないって言うなら僕は誰にも言わない。だから許して欲しい」
『そもそも私は怒ってない』
「でも、見られたくなかったんでしょ?」
少し、間が空く。綿雪さんは、何かを考えているようだった。
『私が恥ずかしいって言うより、見られちゃいけないから』
「その絵を?」
綿雪さんはまたこくりと頷く。
『沢山の人に見られちゃうと、儀式で困る』
綿雪さんの台詞に含まれている『儀式』の意味が毛の先ほども理解できない。
綿雪さんに対する、僕の中のこの違和感は一体何だろう。好奇心か――あるいはそれとも。
「あの……綿雪さん」
『何?』
僕は三度目の勇気を振り絞る。関わるとまずい、と言う僕も心の中にいる。こんなやつ放っておいて本でも読むべきだって、悪魔と天使が手を組んで僕に誘いかける。
だけど天使でも悪魔でもない僕自身は、綿雪華という存在に確かに惹かれていたんだ。
「僕にも――教えてくれないかな。その……綿雪さんがしようとしてること」
彼女が、呼吸を一瞬ぴたりと止めたのが分かった。もう一度言う。
「お願い」
懇願とまではいかない。でも、彼女のことを知りたいという間違いのない、僕の本心。
彼女は僕の言葉に答えてくれた。
『今日の夜中の二時。校門前に来て』
もう上気もしていない普段どおりの表情で。それでも普段の様子からは見られない、彼女の意思のこもった視線とともに、綿雪さんは僕にそう書いた。
夕日は雲に覆われながら沈みかけていて、教室はすっかり薄暗くなっていた。
僕たち以外には誰も居ない教室。二人きりの閉じられた空間。
この日常と非日常の境目のような空間が、僕たちの関係の始まりだった。
物語というよりはただの思い出。
伝記とは言えないただの日記。
そんな、僕たちの話をしよう。
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