第6話 悲しむということ

幼い頃の私はよく、ニュースで亡くなられた方の名前が字幕で出た時、奇妙な既視感にとらわれることがありました。

私は、この人を知っている。もしかしたら生きていた時のことを思い出せるのではないか。そこで、しばらく考えます。そして、自分の記憶の中にその人の記憶が全くないことを確認し、安堵するのです。この人は、自分に悲しみをもたらすことはない。そういう安堵です。何歳から、と詳しくは覚えていませんが、そういうニュースを見るたび、その安堵を繰り返してきました。

また、世界のどこかで虐殺が行われた際なども、匿名の死者の統計的情報を見ながらも、そのあと始まるアニメか何かの番組が早く始まらないかなどと思っていたわけです。

でもそのうち、なぜ自分は人の死を知って、安心しているのだろう、なんとも思わないんだろうと怖くなっていきました。それからというもの、人の死を知ることをきっかけに悲しみの感情を引き出せるように努力しました。わざと、自分の中に悲しさを準備して、それを出すべき時に出せるように。

そのおり、小学校高学年の時、初めて近親者の死を経験しました。 私は、彼の臨終の間際の病床で、「またボーリングに行こうって約束したのに」というようなことを言い、悲しみの感情を引き出そうと努めました。泣かなければ不自然だと、焦りにも似た精神状態の中、目を閉じました。今が悲しむ時だ。自分が今まで素通りしてきたいくつもの死が、今この場で泣き、悲しむことで報われ、私は許される。しかし、私はその場にいたセリフを持った1人の演技の拙い登場人物に過ぎませんでした。泣くことを達成できないまま、彼の鼻や口、その他あらゆる、彼の内部と外界を繋いでいた全ての入り口が綿によってあっという間に封鎖され、彼は私に笑いかけたり遊んでくれたり、叱ったりしてくれた、一つの意思を持った存在から、一瞬で、触れることさえためらうような、神聖な物体に変わっていました。


そこからどうやって車に乗ったかは覚えていませんが、病室に居合わせたほとんどの大人たちはいつの間にかいなくなっており、車の上で私は他の大人2人とともに、彼の遺体を後部座席で抱えていました。そのような風習があるかは詳しく確認していませんが、彼の生まれた故郷に、火葬する前に連れて行ってあげようということだったんだと思います。おそらく出発は死亡診断のすぐ後、なぜ幼い自分がその役目に指名されたのか、その経緯は今となっては確認することができませんが、私は、神聖な物体となった彼の両足のふくらはぎを両手で支え、肌と肌を触れあわせたままで、彼の故郷へと向かいました。

その時、まさにその道のりの中で、私は初めて、人の死というものに深く触れました。 出発時の彼のふくらはぎにはまだ温もりがあり、その温もりは神聖なものでも何でもなく、私がもっと幼い頃から知っている、大切な、温もりでした。病院から遠ざかれば遠ざかるほど、その温もりは徐々に失われていき、彼のふくらはぎは私の両手の上でどんどん私の知らない物体へと、変わっていきました。

その時初めて、叫びたいほどの喪失感に襲われました。車が進むのが止まってしまえば、彼から、そして私から、彼の生命が流れ出て消えていってしまうのを防げるのではないか。もしかしたら、私はその時運転手に、ちょっと止まって!と言いたかったのかもしれません。曖昧な記憶なので実際にはなすすべも無く、何も言わなかったとは思いますが、とにかく、彼は温もりを失い、私の記憶もその場面で終わっています。

ただ、私はその経験を通して、今までの自分を許すことができたように思います。悲しみとは、最初に現れる感情ではなく、喪失感があって初めて生まれてくるものなのだということに気づいたのです。 このことにはかなり救われました。 幼い私が今までニュース等での死に対し悲しんだり泣いたりできなかったのは、その方達に対して喪失感を感じることが無かったからだ、と幼いなりに納得がいったのです。病室での彼は、その臨終の瞬間においても、私の中から失われることなく生き続けていた。だから私は悲しくもなく、泣くこともできなかったのだと。

私の中での本当の彼の死は、車で揺られながらのあの何分間かの間に、私の小さな両手の上で訪れたのです。

そして、私は彼の温もりと引き換えに、悲しむことが人との出会いの中で初めて培われていくものだということを学びました。出会いの深さは喪失感の深さに比例し、さらに、喪失感の深さは、悲しみの深さに比例するのだと。 それが、悲しみの正体なのだと。

彼には本当にありがとうと伝えたいです。

彼は死をもって、幼い私の心を救ってくれました。


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