第24話 白帝城 永安宮
最愛の兄弟・関羽を失い、呉への報復を諸葛亮、趙雲に諫められてはいたが、張飛が部下に殺され、その首を呉に持って孫権へ降伏したことでもう誰にも劉備玄徳、蜀の皇帝を止めることは出来なかった。
蜀からの大軍は呉への強力な脅威となり、討伐は成功すると思えた。しかし呉の気候による蜀軍の疲弊と疫病、そして陸遜による計略にはまり、まさかの大敗を喫することになる。
諸葛亮と趙雲により白帝城へと逃げ込み、命だけは失わずに済んだが、わずかな兵と己の愚かさに劉備はもはや立ち上がる気力が尽きかけた。
「もう……朕には起き上がることは出来ない」
「我が君。お願いです。お気を確かに」
「子龍、そなたの忠言を無視して済まない。しかし雲長や翼徳だけではなく、そなたであっても朕は呉の討伐に参ったであろう」
「う、ううぅ、玄徳様……」
「漢王室の復興をこの手で成すことが出来なかった。孔明と共に尽力しておくれ」
「御意っ!」
「子龍、私が死んだらどうぞ孔明が良いと思う方を妻に娶って跡継ぎを残してください」
「そんなっ、嫌です。あなたと、わたしはあなたとだけ契りを結んでいたいのです」
「これはお願いではなく、朕からの命である」
「……。では、一つお約束してください。来世ではわたしの妻になると……」
「ふふっ、子龍。そうよなあ今度は庶民の娘に生まれ、そなたに嫁ぎ一緒に田畑を耕し……」
「ええ、子を育て、慎ましく頭が白髪になるまでゆっくりと過ごしましょう」
「禅を頼みます。今までよく尽くしてくれました。愛しの君」
「う、く、ううぅ、くぅ」
「武人らしく堂々と下がってください。孔明を呼んで……」
「御意っ」
どんな戦場でも恐れることなく立ち向かってきた趙雲は初めて失う辛さを知る。愛しい人が去る現実に胸が押しつぶされそうであった。
「軍師殿、主君がお呼びです」
「わかった」
それ以上何も言葉に出せず、諸葛亮もまた悲痛な趙雲に何も言葉をかけず劉備の元へと向かった。
目を閉じやつれた青白い顔を見せる劉備に諸葛亮はもはやここまでと痛感する。
「我が君……」
「孔明……。朕はそなたに申し訳ない気持ちでいっぱいである。どうしても聞けなかった。魏が迫っているとしても雲長と翼徳の死を無視して呉と手を結ぶことがどうしてもできなかった……。それがこのようなことに……」
「いいえ、我が君。あなた様があなた様たらしめるのが仁であり、雲長殿と翼徳殿でありましょう」
「ええ。あの二人がいなければ今の私もありません。しかし孔明、あなたを求めたときに本当は天下人であらねばならなかった。それなのに情に溺れ、兵士をなくし……」
「もう、もう仰らないでください」
「……。禅は心の清らかな無欲な息子です。この戦乱の世に生まれるには時期が早すぎた。今になって孟徳殿の目指していたものがわかる。本来、天下を平定するものは血筋ではなくその才覚があるものなのかもしれない。どうか、孔明。禅が成人しても政を為せないようなら譲位させあなたがこの国を継いでください」
「我が君! なりませぬ。わたしは漢に、あなたに忠義を尽くします。国を安んずるのは才のみにあらず。やはり仁徳なのです」
「ふう……。あなたと初めて会って話し合った時のなんと悦ばしかったことか。あなたという清らかな水を得て私も清らかに泳いでいられた」
「それはわたしも同じこと。この乱世の中でも、おのが草庵のように汚れずにおれたのはあなた様をご主君と仰げばこそです」
「身体の契りを結ぶことなく、交われたあなたもまた特別な方でした」
「ええ。我々は魂で契っていたのですよ」
劉備は清らかな乙女のように澄んだ瞳を見せ、桃の花が零れ落ちるような笑顔も見せる。
「天下を安んじ、民と共に栄え、花と笑いに満ち……」
「ええ、我が君。この蜀の民は皆、あなたをお慕いし、あなたのように仁義にあつく……。わ、我が君……」
口元に微笑みを浮かべ劉備玄徳はこの世を去った。
「我が君……」
諸葛亮は生まれて初めて涙をこぼした。
呉の建業では狂ったように孫尚香が泣きわめいていた。
「伯言! よくも! あれほど生け捕りにせよと申しておったのに!」
「申し訳ございません」
心を得られなくとも劉備自身を呉にとどめようと考えていたが、その思惑は叶うことがなかった。劉備の死の知らせは尚香に行き場のない怒り生み、それを陸遜にぶつけるしかできない。
力が尽きるまで尚香は陸遜にこぶしを振り上げる。陸遜は顔や体が腫れあがろうが、黙って耐え、尚香の心と身体から怒りと共に劉備の存在が抜けだされていくのを待った。
最後の振り上げられた手はもう陸遜に触れることなく空を切り、そして尚香自身もそのまま倒れ込む。
「う、うぅ、玄徳様……」
今、媚薬でも使い空っぽの身体に快楽を注ぎこめば彼女は恐らく陸遜の手に堕ちるだろう。
悲しみを快楽に交換すれば尚香にとっても楽になれるはずである。肉体の喜びを与え、絶頂にいざない、快感の虜にする。しかしその時には陸遜の愛した孫尚香はいない。
「想像だけにしておこう」
涙も枯れ果てたようで、頬にはその乾いた痕だけがあった。疲れ果て眠った尚香を抱きしめ、辛抱強く陸遜はこちらを振り向くことを待つ。
物事を性急になそうということと激昂は目的達成の邪魔になることを、先人のおかげで彼はよく知っていた。
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