第23話 非常の人、超世の傑

「青青たる子が衿 悠悠たる我が心――」

「但だ君が為の故に 沈吟して今に至る」

「ん? 仲達か」

「はっ、ここにおります」

「続きが違っておる。たとへ我往かずとも なんぞぞ音を嗣がざらんや」

「ああ、魏王の短歌行ではなかったのですか」

「鄭風の子衿だ」

「恋の歌ですな」

「人材を求めることは私にとって愛しい人を求めることと変わりない。その愛しい者たちも随分なくなってしまったがな」

「……」

「それで何用だ。軍議は明日だ」

「実は、これを……。父が亡くなりまして遺品にあなた様の名前と一緒に入っておりました故」

「何? 司馬建公が亡くなったのか」

「ええ。もう長く伏してはおりましたがとうとう。それで遺品を整頓したのです」


 司馬懿はうやうやしく小さな絹織物の包みを差し出す。曹操は長細い包みを開くと真っ赤な丸い宝石のついた金のかんざしがあった。

「これは……」

「おそらく西方からの商人から手に入れたものでしょう」

「建公殿……」


老いた曹操がまるで少女のように目を輝かせ紅玉を見入る。


「若い頃はこのようなものに心を奪われることなどなかった」


胸にかんざしをあて、曹操は司馬防を偲ぶ。


 司馬懿仲達の父、司馬防建公は若き日の曹操の才覚を見出し、洛陽北部都尉の官職につけた。彼は厳格で慎ましい人物であり、後漢末期の腐敗した政治の中で珍しく清らかさを貫いているともいえる人物であった。


「そなたの父上が初めて私を見出し、そして唯一、私を拒んだものだ」


 若かった曹操は衝動的で随分と思慮も浅く、才を見出す前に興味がわけば人を欲した。洛陽北部都尉に推挙される前に、司馬防と会い、勿論迫った。ところが厳格な彼はその手を払いのけ、もっと自分の才覚と相手の才覚を見極めてからことを成せと諭す。

女の誘惑を跳ね除けることのできる司馬防に衝撃を受け、その言葉を肝に銘じる。その後彼女は、これだという才のある、恋しい人を求めてきたのである。


「建公殿は手に入らぬ人であったな。残念ながら私に何も感じなかったのであろう」

「いいえ。魏王。父はきっと誰よりも――あなたを女人として愛されたのでありましょう。かんざしがその証にございましょう。恐らく自分の年齢と限界で身を引いていたのだと思われます」

「そうか。それでそなたを私の元へ寄こしたのであるな」

「ええ、わたしは幼き頃からあなた様に身も心もお仕えするために言いつけられてきましたので」

「仲達よ。建公殿が何も言わねば私に仕える気になったのか?」

「魏王。わたしは父の傀儡ではありません。わたしはあなたが都尉でいらっしゃる頃から慕っておりました」

「そうか」

「では、これで」

「うむ」


 曹操がかんざしを眺め、司馬防を思う姿に司馬懿は嫉妬する。また彼女の天下泰平への意志を黙って見守り支えてきた父自身の奥ゆかしさと禁欲的な姿に、男として太刀打ちできないものも感じている。



――曹操孟徳が洛陽北部都尉となり城門を侵すものを厳しく罰し、処罰を加える姿は少年であった司馬懿にとって凛々しく、恐れ多く神々しいばかりであった。大きな男たちの中で小さな身体である曹操に司馬懿は不思議な抗いがたい魅力を感じ、くぎ付けになり毎日勉学の合間に見に行った。しばしば抜け出していたせいで父の司馬防に咎められ、曹操を見に行っていたと理由を話すと、彼は珍しく笑んで「あのお方がお前の主となるのだ」と告げた。そして女人であることもその時知る。

 それからというものの曹操のために勉学に励み、仕えることを夢に見てきた。もっと早い段階で朝廷へ召されることがあったが、その時は郭嘉、程昱、荀彧たちが軍師として幅を利かせていたので自分の入る余地がないだろうと退いた。

やっと自分の時代がくる確実な時を選んで、最も曹操の側に居られるようにと司馬懿は虎視眈々と時期を狙っていた。

赤壁の惨敗で嘆き悲しむ群臣の中で、司馬懿は飄々とした様子で酒を飲む。勿論、曹操の目を引くためである。狙い通り彼女は自分を投獄し、訪ねてきた。


「お前は司馬防の息子か」

「はい。司馬懿にございます」

「父上にそっくりじゃな。なぜ早々に出仕せなんだ」

「あなた様が大敗なされた時にお役に立ちたいと思っておりました」

「ふんっ、傲慢なやつめ。やはり建公殿には似ておらぬわっ」


そう言いながらも、司馬懿の才を欲する曹操は粗末な藁の中で身体を開く。


「私を抱けるか?」

「勿論です」


彼女を抱きたくても抱けるものはそう多くなく、抱ける機会があろうとも並の男は委縮して抱けない。才があり、彼女を抱ける者こそが彼女の希う星なのだ。



 かんざしを見つめる熱心な眼差しに司馬懿はそれを渡したことを後悔した。しかも馬鹿正直に父の想いまで話してしまった。

しかし、黙って渡さないことは父に負けを認めるようなものだと思い直す。

そして自分は彼女と女児をもうけ、父にできなかったことを成し得たのだと己を鼓舞し立ち去った。 



 関羽の墓を建て祀った後、曹操は病に伏す。司馬防が亡くなって約一年後であった。

最期の時を迎えることを悟った彼女は、群臣たちに別れの挨拶をしたのち、跡継ぎである曹丕を呼び、心構えを話し、次に側へ司馬懿仲達を呼んだ。

群臣が見守る中、堂々とした様子はまるで最期の時など想像をさせない。


「魏王、こちらにおります」

「仲達よ。曹丕を頼む」

「心得ております」


 曹操はふふっと力のない笑いを見せ、「酒を、あの九醞春酒を、私の作った白壺に入れてそばにおいてほしい」と目を細めた。


「わ、我が愛しき人……」


 司馬懿の言葉を最後まで聞いたかどうかわからぬうちに曹操は逝く。

ガクッと立て膝を折る司馬懿に群臣は曹操の死を知り、声を上げる。

大きな身体を揺すり許チョは子供のようにしゃくりあげ続けた。


 その頃、献帝は皇后である曹操の娘、曹節と宦官によってその身を拘束されていた。


「孟徳! 孟徳! 朕の孟徳が!」

「なりませぬ! 陛下! 父は、魏王は臣下なのですよ! 」

「いやじゃ、孟徳に会いたい! 会いたいのだっ! どけっ! 」

「ああっ、だ、誰か、陛下を!」


 宦官たちが恐れ多くも献帝を力任せに抑えることなどできず、右往左往しているところへ使いのものがやってくる。


「魏王がお亡くなりになりました」


 その知らせに献帝は目の前が真っ暗になりそのまま気を失い床に伏した。


 曹操の葬儀に献帝は重い身体を引きづり弔問する。

臣下である曹操に対して献帝は主である姿勢を悲しみのあまり示すことが出来ないでいた。臣下に対して額づき拝礼する。その様子に群臣たちはもはや漢王室はこれまでかと囁く。

 ぼんやりと虚ろな献帝を目の当たりにし、曹節は覚悟を決め、父・曹操の跡を継ぎ、魏王となった兄・曹丕に会いに行った。


「おお、これは皇后。どういたしました?」


 曹丕は父・曹操の言いつけを良く守り、妹である曹節に対しても臣下の礼を取る。


「兄上、相談があるのです」

「相談?」


 こくりと頷き、人払いを促すと、曹丕はさっと手を上げ使用人たちを下げた。


「兄上、どうか献帝を、皇帝を廃してほしいのです」

「! ば、馬鹿なことを申すな! いったい何を言い出すのだ」

「もう陛下は漢王室を維持することは無理です」

「お前は何を見てきたのだ。父上と私が群臣たちの天下簒奪の疑いを、どれだけ苦労して否定してきたか知らぬわけではあるまい!」

「ええ、勿論です。しかし父王が亡き今、陛下には陛下たる政は無理なのです」


 慕ってきた曹操の死後、献帝は狂ったように「孟徳の元へ行く」と何度も死のうとしていた。


「なんという……」

「このままでは簒奪者どころの汚名では済まされません。陛下を亡き者にしたと末代までの恥じとなりましょう」

「だからといって皇帝を廃したところで、陛下は死のうとなさるのであろう?」

「わたくしに良い考えがあるのです。これをご覧ください」


 曹節は綺麗に結い上げた漆黒の髪をばさりとおろし、そこは一つにまとめ上げかんざしを挿す。そして薄い付け髭をつけた。


「ち、父王!」


彼女は若き日の曹操孟徳にそっくりだ。


「わたしくしはこの姿で陛下と静かにどこか他所で暮らしとうございます」

「まさか、私の代でこのようなことになるとは……。兄の子脩が生きてくれていたら……」


 曹丕は群臣の新王朝建設の期待を一身に寄せられ、跳ね返す心構えは十分にあったが、そろそろ限界を感じている。せめて献帝の太子を時期皇帝として擁立し、曹丕が政を行えばよいのであるが、献帝は跡継ぎに恵まれてはいなかった。曹操と献帝の子・曹沖も幼い時に病死している。


 こうして後漢は終焉を迎え、曹丕が皇帝となった魏王朝が始まる。そして献帝が亡き者にされたという誤りの知らせが蜀と呉にも流れた。曹丕が皇帝の名乗りを上げることを認めることはなく、蜀の劉備玄徳も蜀漢を興し、皇帝を称する。孫権も呉王を名乗り、魏に対する抵抗を見せた。

こうして三国時代が始まる。


 献帝・劉協は山陽公に封じられ、山陽公夫人となった男装の麗人・曹節と天寿を全うするだろう。魏が滅び晋の時代になっても山陽公は存続を保証されていた。

曹節は劉協と狭い世界に二人きりで閉じ込められたような今の状況に満足を得る。


「やっと父王、いえ母上からあなた様を手に入れられました。今はわたくしを孟徳とお呼びになっても構いません。いつかはきっと」

膝で眠る劉協の髪を優しく撫でながら辛抱強く、強い信念でじっと絆を育てているところであった。結い上げ一つにまとめた髪には曹操から譲り受けた紅玉の金のかんざしが輝いている。

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