第6話
マスターが笑うので、僕もつられて笑った。
「マスターの夢はなんですか?」
「夢か?」
マスターは驚いて大きく目を見開いた。演技かと思ったが、本当に驚いたようだった。
「この年になって夢を訊かれるとはな」
「そんな年なんですか?」
「まあ、そうでもないか」
そう言って、マスターはしばらく考えた後、ぽつりとつぶやいた。
「俺、こういうの演奏してんだけど、あの坊主が大きくなって、一緒に歌えるようになったらうれしいよな」
言われてみれば、店内にはいくつか楽器が飾ってある。見たことのない弦楽器や、パンフルートのような笛や、こういう楽器で演奏するらしい。
「どこの音楽なんですか?」
「南米だ」
「こういうのが、今流行ってるんですか?」
「流行ってるわけねえだろう。テレビで一度だって見たことあるか?」
「テレビ、見ないんで」
「ふうん、じゃあ、ラジオで聴いたことは? 街中で耳にしたことは? CD売ってる店で目立つ場所に置いてあるの見たことは?」
どれも、首を横に振らざるを得ない。
「CD集めるのに、苦労してんだからよ」
こんなに自由に生きているかのような人が、そんなことで苦労しているだなんて。懸命になってCDを探している場面を想像し、笑いをこらえる。
「南米って…どんなところなんですか?」
「さあ、行ったことないからわかんねえな。まあ、こういう音楽は、大体は高い山の方でやってるみたいだからな。空気が薄くて、空も日本で見るよりも大そう綺麗に見えるらしいぜ。昔行った奴が言ってたよ。俺も行ってみたいもんだな」
「行けばいいじゃないですか」
マスターは笑い出した。
「子供もかみさんもほっぽらかして行くわけにはいかないだろう。それに俺は見かけによらず繊細なんだよ。そんなに環境が違うところ行ったら、体壊しちまうよ」
僕は特に答えずに、ココアを啜った。
マスターは構わずに話を続ける。
「ほら、いいだろう、こういうの」
ちょうど、二人の男性が歌っている曲が流れている。もちろん日本語ではなく、英語でもなさそうだ。何を言っているのかさっぱりわからないが、音楽として魅力があることは確かだ。
「俺も、苦労して歌の練習してるんだけどよ、一緒にハモってくれる奴がいないんで困ってるんだ」
「さっき言っていたお兄さんは、どうなんですか?」
「あいつはだめだ。ほら、これ、スペイン語なんだよ。あいつ、今更外国語なんて無理だって怖気づきやがって」
「僕だって外国語はそれほど得意じゃないですけど」
「ふうん、何が嫌なんだ?」
「真面目に発音しようとすると、みんなに笑われるので」
マスター目を丸くした。
「びっくりすんな、あんた、兄貴と全く同じこと言うじゃねえか。
そうなんだよな、兄貴も言語に興味があるとかで、英語の文法や訳す勉強は好きだったらしいけど、やっぱりちゃんとした発音で読もうとするとからかわれるし、適当な発音で誤魔化すのも癪に障るしってことで、仕方なく国語の勉強する大学へ行ったんだよな。そんな奴ら無視して英語の大学行きゃよかったのに、本当、馬鹿な奴だよ。
俺なんて、まず文法がてんでわかんねえからよ、せめて発音くらいはテープを繰り返し聞いて真面目にやんなきゃなって思うんだけどな。 兄貴もよ、スペイン語の歌詞を日本語に訳すのなんかはけっこうできるんだけどな。文法は大好きだからな。能力はあるのにもったいねえよな」
「文法を理解する能力と、人前でパフォーマンスする能力は、別物なんじゃないでしょうか」
「また兄貴と全く同じこと言ってるよ。あんた、きっと兄貴と話が合うよ」
マスターはにやりと笑った。どんなお兄さんなのだろう。まあ、会うことはないだろうけれど。
「まあ、坊主にはこうして小さい頃から仕込んでるから、きっと多少大きくなったら喜んで勉強してくれるだろうと期待してるんだけどな」
「親って、勝手ですね」
呆れたように呟く僕に、マスターは微笑んだ。
「そういや、悪りぃけど、今日は十時半時で閉店なんだ」
「ああ、すみません」
僕が残りのココアを一気に飲み干そうとすると、「ゆっくり飲めよ」と笑われた。
「おい、そろそろ行くぞ」
と、さっきのドアを開けて、あの子に呼びかける。男の子は、きらきらと顔を輝かせながらやって来る。
「じゃあ、兄ちゃんも一緒に行かなきゃな」
「どこへ行くんですか?」
「着いてのお楽しみだ」
店を出てドアに目をやると、初めから「CLOSED」の札がかかっていたことに気が付いた。しかし、謝ったら返って小言を言われそうな気がしたので、気づかないふりをした。
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