秋の和歌(短歌)集
大野城みずき
まえがき
各歌の根は、主に三代集、すなわち『
## この和歌集における代表歌について
まだ詠めていません。
## 秋について
秋といえば、悲しい、寂しい、わびしい、です。
八代集の『
字面のみ取ってみても、『
『
『
『
『
『
『
『
(『新 日本古典文学大系 5〜11』岩波書店、整形引用者)
思うに
まあそれはそれとするとしても、その「悲しい・寂しい・わびしい」という心情を手本にして歌を作っていると、作者本人の大野城みずきまで、気分が沈んできます。読むほうだって、元気がなくなってくると思います。
ゆえに、「秋はもの寂しい」といった類いの表現は極力控えて、秋の歌を詠みます。
(これ以降のまえがきは、他の季節と同一です。)
## 歌そのものについて
一つの区切りとして、百首で完結しようと思います。
理由は二つ。一つは、「百首の歌奉りし時」という
もう一つの理由は、スマートフォンの操作上の問題です。目次の歌数(エピソード数)が二百ともなると、スマートフォンの操作は大変です。例えば、二百番目の歌をタップするためには、何度も何度もスワイプせねばなりません。煩わしい! しかも、スワイプの勢い余って、通り越してしまう。大野城みずきはこれが嫌なので、歌数は百首あたりでとどめようと思っています。
次、歌の方向づけの話です。
各歌は、できるだけ季節を感じられるものにします。後から読み返したとき、春なら春、夏なら夏、秋なら秋、冬なら冬、の雰囲気がするように歌を作っていこうという方向です。
季節の和歌集なのだから当たり前だろと言えばそうですが、しかし、詠もうとしても、うまくいかないことが多くて、なかなか、季節を感じられるように詠めません。
よく目的と手段が入れ替わってしまいます。例えば、季節を詠み込んでいるけれども、実は恋愛の歌、実は意見文のように詠んだ歌、はたまた、何のことはないただのお戯れの歌、などです。つまりは、季節を詠むのが目的なのに、その目的を手段にしてしまった、となるのです。
こうなってしまうのも、そもそも、「創作するときは模倣から」ということで、まず先人の和歌・短歌を読むのですが、これがいけません。先人の、秀歌といわれるものを読んでいると、かこつけ・喩え・見立て・戯れ・叙景・叙情など、変に手法ばっかり覚えてしまいます。
そして、そういう手法をマネしていざ歌を詠むと、花を女性に見立てて詠んだら恋愛の歌になった、とか、季節の風物にかこつけて叙情をしたら意見文みたいになった、とか、およそ、季節を感じさせる歌から遠ざかってしまってうまくいきません。なまじ、かこつけ・見立てなどをすると、ダメですね、ほんっと。
じゃあ、写生・叙景に徹すればいいかというと、そういうわけにもいきません。
ただの写生・叙景で詠むと、その歌は、季節の歌というより、もう資料に近くなってきます。喩えるなら、医学や生物学の観察資料です。そういう自作の歌を読み返していると、季節を感じるというより、季節の風物を知識として知る学術めいた気分になってきます。
これでは、作った歌が、大野城みずきの方向づけ「季節の感じられる歌」という中心から、へりの方へと外れていってしまいます。どうも、ひたすら写生と叙景のみすればよいというわけにも、いかないようです。
おまけに、この写生と叙景、少しでも失敗しようものなら、タイクツで味気ない歌になります。自作のものであっても、読み返そうという気がちっとも起こってきません。ダメだ、ダメだ、こんなの。
それなら、秀歌を一つも読まずに、ただ好き勝手に詠めばいいかというと、それは、まあ本当に、勝手に詠んでろ、という歌しか出来上がりません。だいたい、そんなやり方でうまくいくなら、誰が詠んでも秀歌になって、そもそも、地球上に秀歌など存在しないはずです。
もう文語でなく口語にしよう。大野城みずきは、いっそ口語で詠むようにしようかと思って、口語で短歌を詠んでいた時期があります。しかし、これは、ひっじょ〜にむずかしいですよ。よっぽどうまく詠まないと、ただの、オシャベリ・井戸端会議・便所の落書き・言葉の掃き
口語で詠もうだなんて、百年早かった。大野城みずきは、文語中心で詠むことにします。まあ、そのほうが、何か改まった場に奉れる歌にもなりやすいだろうし、ちょうどいいや、という
まとめると、歌の方向づけは、「文語中心かつ折々の季節を感じやすい歌」といったところでしょうか。
次、助詞や助動詞の選択基準です。
もちろん、よくわからないとき、あやふやなときは辞書を引き、ああでもないこうでもないと迷いつつ決めていくのですが、この選択基準は、手元の古語辞典を一つに固定していても、月日の流れとともに変わっていきます。
どう変わっていくかというと、前にも後ろにもです。繰り返し、日を追うごとにうまく選んでいければよいのですが、たいていそうもいかず、上手になったかと思えば下手になったりと、腕前も選択基準も一定することが、なかなかありません。
そんな中、助詞や助動詞を選ぶ際いつも同じであるのは、あれこれと調べた上で最後は作者の主観、ということです。
最後、
これらの読解は、古文の授業を寝ていない高校二年生以上の方なら、大丈夫だと思います。つまり、通釈がなくとも、読めることでありましょう!?
根拠は次に示すとおり。
そもそも、大野城みずきは歌を、高校生対象の辞典ばっかり引きながら詠んでいます。教授の方々が使うような専門辞典は使っていません。手元の古語辞典は『古語林』大修館書店、国語辞典は『明鏡国語辞典 第二版』大修館書店、です。
専門的といえば、文語に対する口語の格助詞が、たまにわからなくなるときがあるので、そのとき、小泉保ほか編『日本語 基本動詞用法辞典』大修館書店、を使います。それと、公開用に文章を編集する際、誤字脱字防止の目的で、講談社校閲局編『日本語の正しい表記と用語の辞典 第三版』講談社、を使います。さらに、直喩・隠喩・
そして、何と言っても大野城みずきは、大卒でありませんのよ。学士ですらないのです。文学まわりの卒業論文に取り組んだことなどありません。「国文学者から手ほどきを受けたことあるんだ」なんてことは、夢のまた夢。「和歌・短歌とは、こうあるべきだ!」ということにも、まったく無頓着。まさに、高校生と同じ条件。むしろ、高校をとうの昔に卒業していて、古文教師に何一つ質問できない大野城みずきのほうが、条件悪いくらいです。
これらの環境・条件からして、大野城みずきは、専門的な和歌・短歌は詠めません。それは取りも直さず、高校二年生以上の方なら通釈なしでも読解できる、ということにもなりましょう。
以上、きわめて、てみじかに根拠を示しましたが、もし万が一、通釈なしで読解できないとしたら、それは
韻文の読解の前に、まず散文で考えてみると、わかってくるところがあろうかと思います。そもそも、書き言葉だろうが話し言葉だろうが、ヘタレ文章の読解は、難しすぎて誰だってできやしません。
ここで、ヘタレ文章の読解法をひとつ――。
そもそも、ヘタレ文章というのは、そのままの形ではもう読解のしようがありません。視点のズレ、主述のねじれ、論理の飛躍、誤読誘発の語順などなど、これらが、
前後に何かしら手がかりのある散文ですら、このような手続きを踏まねばならないのです。まして、ヘタレ歌の場合、通釈なしの読解にどれほど手間暇かかるか、知れたものでありません。おまけに、その歌は、十中八九、今すぐにでも目を背けたくなるようなクッソ文体のいで立ちに相違ありませんから、読み手は、自身の言語空間を大きく揺さぶられることになります。すなわち、読者は、車酔いに勝るとも劣らぬ文体酔いを被るのです。想像してみてください。乗り物酔いしたときの、精神的苦痛と肉体的苦痛を!
このように、ヘタレ歌というのは、ヘッタクソで気分悪くなる上に、通釈なしの読解においても、読者に多大なる負担を、精神的にも肉体的にも強いるのであります。
もし、読者であるあなたが、この和歌集を読み進めていくうちに、不幸にもそのヘタレ歌(ついでにヘタレ文章も)を目にしたなら、まあ、作者本人は目の前にいないわけですので、歌に向かって、このヘタクソメ!と、悪態をついてやってくださいな。なんのこれしき、それくらいの悪態は、神様も仏様も許してくださいましょう。
## ひとまず
前口上はこれくらいにしまして、ここまでを、まえがきといたします。
## 更新履歴
・令和元年十一月五日(二〇一九年)、公開
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