人類は知らない

くるみ

第1話 誰も知らない

1人の老人が杖を突きながら、山道の途中で足を止め休んでいた。

周りは、熊笹が茂り、足が思うように動かせない老人が

のぼってくるような場所ではない。


老人は長い白い髭を生やし、まるで山道と補色かと思えるほど

目立たない、薄茶色のシャツとズボンを履いていた。


何年も履いていたのだろう。

底の薄くなった靴は、老人の過酷な暮らしぶりを語る生き証人のように

老人の足を包んでいるようにも見えた。


腰には、ポシェットが巻き付けてあった。

老人にとって、最も大切なモノだけが入っているらしい。

しかし、それ以外は何も持っていない。


老人は誰かに名前を呼ばれたような気がして、登ってきた道を振り返った。

少し意識が朦朧としていた。



先生、私です。

先生、ご無沙汰しておりました。


熊笹の茂みから一人の男が現れた。

酒でも飲んでいるのかとおもうような真っ赤な顔をした小太りの男が

ニコニコと愛想笑いを浮かべて、老人に駆け寄ってきた。



人気のない山道で、偶然にも知り合いに会うとは

老人は、驚きと、次に懐かしさでおもわず顔の表情を崩した



熊野君か

おお、どうしておった



はい、熊野です

先生、懐かしいですね

私は今、街を離れ、この山で炭焼小屋を建て、1人で暮らしています



ほう、そうだったか

元気そうだな


先生は?

奥様はお元気で?




いや、家内は10年前に亡くなった

私も、めっきり脚が弱り、ご覧の通り杖が無くては歩けん

昔来たことのあるこの山が、妙に懐かしくて

登ってきたが、若いころのようには歩けないようだ



老人は少し笑って男に言った。


先生、私は今でもあの約束はちゃんと守っています。

私と先生以外、誰も知りません、今でも。



老人の瞳孔が一瞬大きくなった

他に誰もいるはずが無いのに、老人は声を潜めて男に言った



ああ、熊野君

そうか。

あの後、うまくやってくれたんだったな。



はい、先生に報告する時間も無く

私は皆さんの前から消えましたので。



老人は少し間を開けて


ごくろうさん

ごくろうさんじゃったな


と言った。



先生、まだ残っていますか?



いや、もうちょっとで無くなるよ

15年はもったということじゃ。



ここで会ったのもご縁です、先生。

私の小屋が直ぐ近くです。

もし、よかったら今からご案内します。



老人は男に導かれながら、ゆっくりと坂を下り、男について行った。


こんなところに初めて通る道があったのか、と思いながら歩いた。

先ほどまで愛想よく、良くしゃべっていた男は、話をしなくなっていた。


生い茂った藪のようなところを進んでいく。



熊野君、ずいぶん奥まった所に住んでいるんじゃなあ



老人が言った。



はい、先生

私は慣れているから何とも思いませんが、

びっくりされたでしょう

すみません

もうすぐですから



男が答えた。



さらに道はどんどん険しくなり、人が通るには厳しい獣道だった。

男は


先生、大丈夫ですか?


と振り返りながら、藪を手で払いながら、老人を待ち待ち進んで行った。





ぽんぽこ

ぽんぽこ

ぽんぽこりん



ぽんぽこ

ぽんぽこ

ぽんぽこりん



どこからともなく音楽が聴こえてくる

近くに集落でもあるのだろうか。

老人は訊ねた



熊野君、音楽が聞こえるが

何か祭りでもやっているところがあるのか?



そうですか?

私には聞こえませんが



男は言った。




直ぐ近くだと男が言っていたが、なかなか小屋には着かない。

さっき来た山道まで戻り、今日は熊野君の小屋に行くのはやめておこうか、

ふと老人の頭を過った。



しかしもう、この年齢だから明日のことはわからない。

熊野君に会えることは無いかもしれない。

15年間の、効能も伝えて、今後の研究に役立てても欲しい。

老人は考え直し、黙って男の後をついて行った。




あたりは、薄暗くなりかけていた。

男が急に声を張り上げた。


着きましたよ



藪が開け、ぽっかりと草むらが広がっている。

目の前には黒い小さな小屋が現れた。




先生、着きました

どうぞ、こちらへ




男は急ぎ足で小屋に駆け寄りドアを開け、灯りをつけた。

忙し気に動きながら老人に話しかけた。



先生、今お茶入れますから

適当に座って下さい



しばらくして男は湯気のたつ大きな湯呑を差し出した



ホットで飲めるドクダミ茶、のようなものです

この辺だけで採れます。

こればっかり、飲んでいますよ



老人は、差し出された湯呑を取り、ほっとした気分になった。




男は、床下の戸を持ち上げ、黒光する壺を取り出した。



金庫より、壺の方が安全なんですよ



男の笑顔につられ老人も無言のまま微笑み返した。




これは未開封ですから、今から15年先まで持ちます、先生。



男は壺をちょっとだけ上に掲げ自信ありげに言った。

すると老人は、



いや、もう私には必要ない。

あと15年は生きられんからな。誰かに使ってもらってくれ。

それに、今は先生と呼ぶものは誰もいなくなった。

昔を知る人間は殆ど死んだ。

私の生きる時代は終わったよ、熊野君。

しかし、これを隠し通すことの心の重荷のほうが大変だったんじゃないか?

キミの一生を台無しにしたかもしれん。




いえ、でも正直こんなに長く付き合うとは思ってもいませんでした。

いつか、誰かが発見し世に広がるだろうと思っていましたから。

男は弱々しく微笑んだ




発見されずに良かった。

すごいモノじゃが、人間を必ず幸せにするものではない。


人間は人間を超えてはいかんよ。



老人はしんみりと言った。

そして


副作用じゃよ。

3度でこうなった。


シャツを腕まくりし、男の方に向けた。


男は一瞬たじろいだ。

老人の手首から先は普通にあるのに、

まくり上げたシャツの中の腕は、透明になっている。



触ってみてくれ。



男は言われるままに、ゆっくり老人の腕に手を伸ばした。

そしてしっかり両手で包むように握った。

男の手のひらには温かい老人の腕の感触が確かにある。

しかし、男の手のひらの中には丸く透明な空間があるばかりだった。

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人類は知らない くるみ @sarasura

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