ある喫茶店にて
KEN
ある喫茶店にて
ジャラリ。
カウンターの上に小銭が置かれる。
ここは個人経営の小洒落た喫茶店。僕はそこで働く二十五歳のウェイターで、目の前にいるのは常連客の中年男性。髭は剃りきれておらず髪の毛もぼさついている。スーツはシワシワで、いつクリーニングに出したのかも怪しい。そんな客に堂々と居座られては、この店の清潔でレトロな雰囲気が台無しである。それに、カウンターが傷つくから小銭の直置きは止めてほしい。
僕は軽くため息をつき、コーヒーを淹れている店長に目配せする。それが奥の個室を使わせてもらう為の合図。店長はいつものように、穏やかな笑みで頷いてくれた。
小銭を集めて受け取り、黙って客を簡素な個室の中へと案内する。机一台、木の椅子二脚、そしてコーヒーを淹れる道具一式があるだけの小部屋。扉を閉めると、客は束縛から解放されたと言いたげに首を鳴らした。
「はぁー、やっと気楽に話ができるな。早速だがよ……」
と、懐をごそごそ探り始める男。彼は私立探偵で、名を萩原と言う。
「ちょっと待ってください、唐突に事件を持ち込むのは止めてくれって、僕、言いましたよね?」
「しゃーないだろ、事件は予約とって来ちゃくれねーんだから。さあ早く、うっすいコーヒー淹れてくれや」
僕の抗議にもどこ吹く風の萩原さんに、再度ため息をつく。うっかりこの人と関わってしまったばかりに、根暗で人付き合いが苦手な僕は「事件にやたら巻き込まれる主人公」のような生活を強いられているのだ。
仕方なく、僕はいつも通りにコーヒーを薄めに淹れて出した。苦いのは事務所のインスタントだけでたくさんだ、とは萩原さんの言。豆を挽いて淹れたコーヒーとインスタントコーヒーの違いが分からないあたり、萩原さんの味覚と嗅覚は大したことないに違いない。
「うん、やっぱここのコーヒーはうめぇわ」
満足そうに頷くと、萩原さんは机の上に一冊のハードカバー本を放り投げた。表紙にはコーヒーをこぼしたような染みが大きく広がっている。本好きの僕は思わず顔をしかめてしまった。
「これが今回の品ですか」
「そ。いつも通り、ぱぱっと『見て』くれ」
促されるまま、僕は左手を伸ばして本に軽く触れる。と。
ザンッと音を立てて、目の前の景色が変わった。
ゴミ袋と下着が散乱した部屋。至る所にハエがたかっていて、不衛生だ。そんな部屋の中、二人の男がこの本を取り合っている。
二人とも二十代後半くらいで、チンピラみたいな格好。片方の右手には火傷痕。二人の足元にはローテーブル。その上に二つのコーヒーカップ。そして本は、揉み合っている二人の手から滑り落ちた。
「おえっ……!」
見えている景色のあまりの醜悪さに、耐えきれずえずきかける。左手が本から離れ、僕の景色は元に戻った。
「大丈夫か?」
全然心配そうじゃない声色で、萩原さんは声をかけてきた。少し腹が立つ。
「……いえ、あまりに汚い部屋だったので、気持ち悪くなっただけです。ええと、そうですね、他にわかるのは……」
僕は見えたものを細かに伝えた。僕はいわゆる「サイコメトリー」が出来る人間で、物が過去に「見ていた」ものを見ることが出来る。ある事件でその能力を萩原さんに知られてしまい、以来こうして、事件の遺留品らしきものを「見る」作業をさせられている。
「なるほどなるほど……、じゃ、犯人はあいつで決まりだ! 証拠の目処も立った。ありがとな、今回の謝礼は次の時に持ってくるわ。それと、これな!」
ひとしきり頷いてカップの中身をあおり、萩原さんは封筒を一つ投げてよこした。中には一万円札の分厚い束。前回「見た」ものの謝礼と口止め料ということなら、五十万は入っているだろう。
萩原さんはいつもこうだ。具体的な事は喋らず、ただ物を「見て」くれと言う。そして見たものを一通り伝えると、勝手に満足して前回の謝礼を置いていくのだ。
僕はそれで充分だった。僕は推理小説に出てくる頭の良い探偵じゃないし、知りたがりな女子高生でもない。好き好んで事件に首を突っ込み、推理などする気にはならない。ただ、この能力が萩原さんに依頼した誰かの役に立っているなら、それでいい。
「じゃあなー、コーヒーごちそうさん」
カップを片付ける僕を尻目に、萩原さんはそそくさと部屋を出て行った。壁の向こうからは、「いつもすんません、マスター」と言う声と、ドアベルがからから鳴る音が聞こえた。
◇
「ありがとうございました、店長」
客が居なくなったタイミングを見計らって、僕は店長に頭を下げた。そして萩原さんに貰った封筒を、丸ごと店長に差し出した。
「要らないといつも言っているでしょう。自分の貯金として大事にしまっておきなさい」
店長は封筒をゆっくり突き返す。しかし、返しきれない恩がある僕は引き下がらない。引き下がれない。祖父の戦友だった店長は、天涯孤独の身となった僕を引き取り、父のように育ててくれたのだ。学費も出してくれた。その恩を返すために、僕はこの店で働いている。
「いえ、僕のせいで店長にご迷惑をおかけしているので、受け取って下さい」
萩原さんが座ったカウンターを一瞥し、僕は強く封筒を押し付ける。店長は困った顔をした。
「君は繊細だね。あの探偵さんくらい図太くても良いのに」
いたずらっぽく笑ってみせる店長。だが僕は笑い返せない。
自分が潔癖気味だという自覚はある。だからこのお金を使ってはならないと思ってしまうのだろう。自分のぶしつけな能力で得てしまった、汚いお金だと。
「わかったよ。口止め料という事で、これだけ受け取ろう」
店長は封筒の中から一枚だけ抜き取り、残りを封筒ごと返してくれた。
「いいかい、君の能力は決して恥ずべきものじゃない。誇りに思いなさい。辛いこともあるだろうが、今の君ならきっと乗り越えられる」
店長はそう言って僕の手を握った。少しごつごつした、温かい手だった。
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