小鳥4
退屈なリテリアが読みあさった本は、彼女にありとあらゆる知識を授けていた。秘密をのぞこうという好奇心を後押しするのに十分なほど。
まずは基本からだ。
神域に向かう母の跡をつけてみようとして、リテリアはこの方法の不可能をすぐに悟った。バスティトー二世の勘は尋常のものではなく、不審な動きをすると即座に察知され、やんわりたしなめられてしまう。それでも他の兄妹のように露骨に警戒を高められないのは、次女が寵愛されている証拠なのだろうか。
あるいは母が、娘をとことん舐めているということなのか。
仕方なく、彼女は遠方から気配を探る方法に変える。あちらが何をしているのか、細かい点はわからなくなってしまうが、その分距離が取れているので、こちら側の動きも気がつかれずに済む。息すらも押し殺して母の動きに耳を澄ませていると、少し成果があった。
鍵の音が聞こえたのだ。
バスティトー二世がいつも首から提げていたそれを、リテリアははじめ何のことはない首飾りだと思っていたし、バスティトー二世本人も「お守りだ」と言ってそれ以上の詳しい説明はしなかった。今のリテリアになら、あれがただ首にぶら下がっているだけのものではないことがわかっている。
尾行は不可能。ならば本人がいない間に忍び込むしかない。しかし鍵は彼女が四六時中肌身離さず持っている。盗むのも奪うのもとうてい無理な話だ。
けれど、型を取るぐらいなら。
リテリアにのみ、それはぎりぎり可能であるように思えた。バスティトー二世は次女のみ、しばし共に寝る事があったのだ。
母が、眠っている間になら。
リテリアの計画は静かに進んでいく。
間を飛ばして結論を言ってしまえば、彼女はなんと無事に成功した。いっそ拍子抜けして笑えてしまうほどに楽に、くっきりと裏と表の型を取った粘土板を手に入れることができた。
母はいくつか鍵をぶら下げていたが、そのすべてを写し終えた上に、起こすことなく元の位置に戻す。これは夢なのではないかと思わず自分の頬をつねりたくなったが、我慢した。
翌日、知恵熱か、興奮か、単に夜中起き出していたせいで身体を冷やしたか、タイミングよく熱が出たせいもあり、バスティトー二世はリテリアの浮ついた様子も特に不審がらなかったようだ。
休むようにと言われて上質な掛け布団の下に顔をうずめ、こっそりと中で自分の手にあるものを改める。
何度確認しても、そこにきっちり型があった。ぶくぶくと溶けて泡になってしまうようなことも、朝日を浴びてさらさら砂になってしまうようなこともない。
大事に大事に自室に隠して、リテリアは静かな興奮がこみ上げてきそうになったが、ふと頭が冷える。
――ここからどうやって鍵を作ればいい?
自分の読んだ書物――ちょっとした冒険譚――では、単に粘土で型を作り鍵を複製した、とだけあった。真似をして型を得たまでは良かったが、この型を元にどうしたら複製の鍵ができあがるだろう。
まず、柔らかいものを素材にしては駄目だ。ほしいのは鍵なのだもの、ある程度の硬度がなければ機能しないだろうし、万が一鍵穴から抜けなくなったら、リテリアの侵入がわかってしまう。
どろどろの金属を型に流し込んで道具を作る、鋳造という言葉が頭をよぎるが、リテリアの住んでいる内宮にそんなことをできる施設や設備はない。
そもそも、材料である金属をどうしたら用意できるだろう。一応鍵を作るだけだから、そんなに多くはなくていい。それこそ山ほど持っている手持ちのアクセサリーのどれかを使えばいいかもしれない。
けれど金属を溶かすにはかなりの高温を必要とするし、鋳造は大まかにしか形を整えられないから細部の調整が後で必要だと聞くし、リテリアにはそんな技術も経験もなければ、とてもそんなことをさせてもらえる機会が巡ってくるとも思えない。
――ああ、せっかくここまで来たのに、道のりが遠いわ。
雅な遊び事や紙の本をめくることならいくらでも許してもらえるが、こと庶民的なこと、特に少しでも危険がある事をバスティトー二世は次女にさせたがらなかった。そもそも娘が不要に火に近づく事にすら、彼女はいい顔をしないのだ。お願いするにしても、あまりに唐突な申し出すぎてきっと悟られてしまう――。
「リティ」
「えっ――はいっ!?」
強めに呼びかけられて、リテリアは上の空になっていた自分に気がついた。とっさに声を上げてから顔色を変える。
(いけない、今はロステムお兄様がいらしている時だったのに!)
このところ多忙だったロステムが、ようやく時間を見つけられたらしいとかで、リテリアの部屋まで遊びに来ていたのだ。
彼女はいつも通りロステムの話を聞きながらニコニコ愛想良く笑っていたが、つい、話される内容に興味が湧かずにいるうちに、いつの間にかすっかり意識がそれてしまっていた。
ロステムは金の目を細めてリテリアを見つめる。
「何か心配事でも?」
「そんなことは……」
「僕をごまかせるとでも? 様子が違う」
ロステムは穏やかな調子を保っていたが、やはりリテリアの明らかに注意散漫な態度が気に入らなかったのだろう。不機嫌そうな様子が見え隠れしている。リテリアはしょんぼり肩を落とし、どうやって不機嫌になった兄をなだめようか考える――。
その瞬間、恐ろしいひらめきが彼女にそっと降りてきた。いけない、と自制する間もなく、リテリアは自分の唇が動くのを感じる。
「それは、ロステムお兄様がもうじきここからいなくなると聞いたので」
(何を言っているの、リテリア?)
妹に痛いところを指摘されたらしいロステムの動揺は激しかった。目を見開き、さっと顔を曇らせ、いつもより少し早口に言葉を返す。
「縁談の事? 確かに……女王陛下はさっさと僕に王位を譲って面倒事を押しつけたいらしいから、成人ついでに結婚してとっとと内宮を出ろとうるさかったけど――」
「この前もお隣の国の王女様がいらしていたとか」
「リティ、それは――参ったな、どこから聞いたんだ」
「内宮には意外と噂好きが多いのですよ、兄上」
表のリテリアは、目を泳がせる兄にいたずらっぽく微笑む。リテリアの内面は、そんな自分におろおろしている。
(私、こんなことを言うつもりでは)
「責めているわけではないのです。ただ、兄上がいらっしゃらなくなったら……寂しい」
「リティ」
「私もそろそろ成人後の自分の身の上を考えなければ、と思い始めたら、なんだか不安で……」
リテリアはするすると自分の口から流れていく言葉に唖然とする。
けして全てが嘘ではない。リテリアが口にしていることだって、事実の一つではある。けれど今リテリアを一番悩ませていたことではなかったし、せっかく忙しい合間に会いに来てくれたロステムを前にして上の空になってしまったことを申し訳なく思っているのに。
(これでは私、まるでお兄様を)
「――ですから私、お守りを作ろうかな、と考えていて」
それなのに、良心に逆らってリテリアの口は動き、兄に向かって人なつこい微笑みを浮かべる。
「お守り?」
「ええ。ほら、お母様がいつもしていらっしゃる首飾り。あれは、大事な人とお母様を結ぶお守りなんですって。私にもそういうものがあれば、内宮に一人でいても、寂しくならないかなと……」
(ああ、私って、こんな女だったかしら?)
リテリアの良心が心の隅で嘆いているが、芽生えた欲望はもはや止まろうとしなかった。
(お兄様の好意を、利用して)
「リティ、それなら僕がそのお守りを作ってあげるよ」
気を取り直すようにロステムが言う。
リテリアの想像通りの言葉を返してくる。
品行方正、文武両道、非の打ち所なく素晴らしくて優しい兄。
――王宮の奥深くに閉じ込められ、外界とのつながりを遮断され、何も持たないリテリアとは違う兄。彼なら、母に内緒で鍵を一つ二つ作ることも可能だ。
(駄目よ、リテリア。こんなことをしては。ここでやめなくちゃ。駄目なのに……)
「本当? 嬉しい、お兄様」
心の中で言い訳を並べてみたところで、罪悪感で胸が痛んだところで、結局リテリアが口に出したのはその言葉だったし、表情ははにかむように顔を赤らめさえした。
(私、どうしてしまったんだろう……)
母に芽生えた初めての密かな反抗心は、小さく、確実にリテリアを変えている。
それともそちらの方こそが、彼女の本質なのかもしれなかった。
折良く、それから程なくしてバスティトー二世が宮殿を留守にすることになった。そこそこ大事な視察があるとかで、一週間は戻らないと彼女は面倒そうに告げてくる。
普段ならリテリアは母の長期不在を心底残念がるが、今回ばかりは喜色を隠すのに苦労した。
母と入れ替わるように、ロステムができあがったばかりの鍵を持ってきた。こちらは留守の宮殿を預かることになったらしい。外宮には毎日いるようだが、自分の不在時にサボったら許さないとばかりに女王に案件を積み上げられ、内宮奥のリテリア達がいるところまで顔を見せに来る余裕はたぶんないだろうと彼はしょんぼりしている。
リテリアの心には相変わらず兄に対する罪悪感があったが、それでも勝ったのは純粋な欲望と好奇心の方だった。兄の後ろ姿を見送ると、胸をなで下ろす。
念のためさらにララティヤとルルセラの動向も探ってみるが、一度リテリアを冷やかしにやってきた時以来、彼らが(というかララティヤが)こちらに興味を示す様子はない。
絶好の機会だった。
それぞれが猫の血統ゆえ、いつ何時気まぐれを起こすかわからない部分はあるが、ひとまずリテリアはいつも以上に孤立している状況と言っていい。
作ってもらった鍵を両手に、リテリアはごくりとつばを飲み込む。
まずは最初の関門。
神域の入り口には交代で寝ずの番を勤める門番がおり、決められた者――つまりバスティトー二世以外の出入りをけして許さない。
ところがこれには一部の例外があることを、調べを進めたリテリアは知っている。
嫉妬深いバスティトー二世は、神の姿を自分以外の者が見るのを嫌がり、少しでも神域に別の者が近づく気配を見せれば過剰なぐらいに厳しい処罰を与えたが、いくら超人じみていると言っても人の子であり王、彼女自身が神域を見舞うのにもさすがに限界がある。
そこで、彼女が表の事で忙しい時や、今回のように外に長期間出なければいけない時にのみ、特別に神域への出入りを、つまりは神の世話を任されている者がいたのだ。
彼女は単に、「手」とバスティトー二世に呼ばれていた。
元は別の人の奴隷だったのを、その特性を知ったバスティトー二世が求めたため、献上されたらしい。「手」は生まれつき目も耳も聞こえず、ゆえに文字を読むことも話す事もできなかった。性格はきわめて素朴で従順で、主から受けた指文字の指示のみ淡々と行う。
リテリアが数ヶ月かけて根気よく得た情報によれば、「手」はバスティトー二世から一つだけ――おそらく外壁を開ける――神域の合い鍵を託されており、それを使って部屋の前まで行き、食べ物等を差し入れ、空になった器等を回収してくる。
等、とつけたのは、母や「手」が何やら荷車のような装置に必要な物を詰め込んだ後全部をすっぽり布で覆ってしまうため、実際何が運び入れられて出されているのかわからない部分も多かったからだ。大体は生活用品の中で取り替えの必要のある、たとえば清潔な布とかなのではないかと推測はできているが。
ともあれ、リテリアの侵入計画の第一歩とは、この「手」に成り代わって神殿に忍び込むことだった。
子どもの浅知恵と言えば、実際その通りだ。けれど、そもそもリテリアは元々この密かな反乱に、自分でも期待していなかったのではないかと考えられる節がある。
どこかで見つかってとがめられ、怒られるだろう。
彼女はどちらかというと自分でも、こんな安直な考えが成功するわけがなく、不可能や挫折を経験するだろうと予想していたし、むしろそれによってバスティトー二世の怒りを買うことをこそ、本来望んでいたのかもしれない。
特別扱いに対する優越感を不安。支えの崩れたアンバランスな感情をもてあました彼女の、可愛らしい暴走。
再び過程を飛ばして結論を言うのなら、このなんとも幼稚な計画は完璧に遂行された。
リテリアは「手」に母の伝言係のふりをして接触し、自分が代わりに行くための準備を整えることができたし、心臓をはちきれさせそうになりながら「手」の装束を身にまとって門をくぐっても、真面目な門番達はいつも通りやってきた係の者に一瞥もくれなかった。
快哉か、悲鳴か。どちらを上げるべきか迷った。
リテリアはそう、このときの複雑に興奮した胸中を語っている――。
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