黄昏
猫柳蝉丸
本編
軽く開いていたのだろう。
カーテンの隙間から漏れる陽光の眩しさにおれは目を覚ました。
まゆみの夢を見ていたような気がするが、思い出そうとしても記憶はあっと言う間に頭の中からこぼれ落ちた。仕方が無い。夢とはそういうものだ。状態を起こして軽く息を吐くと、居間の方から小さな音が漏れている事に気が付いた。
また早朝からゲームをプレイしているのか。
そう思いかけるが、不意に思い直して壁掛け時計に視線を向けてみる。
十時二十三分。
早朝というわけではない。むしろおれが起きるのが少し遅かったくらいだ。
何、早く起きようと遅く起きようと今のおれの生活に関係は無い。一生続くかと思われた会社生活は去年おさらばしたし、丁寧に毎朝朝食を用意してくれたまゆみも、まゆみに似て穏やかに育ってくれた美紀ももうこの家には居ないのだから。
おれは自由なのだ。様々な意味で。
洗面台で顔を洗ってから居間に向かうと、予想通り丸山がゲームをプレイしていた。
処分するのも勿体無いからと美紀が家に置いて行った乙女ゲームだった。
乙女ゲームばかりプレイしていて結婚出来るのかと心配な美紀ではあったが、随分前にそれなりの相手の家に嫁いでくれた。考えてみれば有休を取って古いRPGをプレイしていたおれですら娘を成人まで育て上げられたのだ。趣味など結婚にはそれほど関係が無いという事なのだろう。
丸山はおれに軽く視線を向けたが、何事も無かったかのようにゲームに戻った。
おれも奴に会釈も挨拶もしなかった。特に話す事があるわけでもない。
冷蔵庫の中から食パンを取り出しながら丸山のゲームに視線を向ける。老眼が進んではいるが老後の暇潰しの為に大画面のモニターを購入しているのだ。遠くてもはっきり見える。モニターの占有率は丸山の方が遥かに高いのはよかったのか悪かったのかだが。
乙女ゲームなのだ。モニターに写し出されているのはイケメンばかりだった。
美紀がイケメンを求めて乙女ゲームをプレイするのは分かる。まゆみに似て穏やかで内気な娘だった。読書の代わりにゲームで理想のイケメンを求めていたのだ。おれだって流行した時期はギャルゲーを何本もプレイしていた。血は争えない。
丸山もイケメンを求めているのだろうか、と毎度の如く思う。
丸山との同居は確か半年になるはずだが、美紀の残した乙女ゲームを見つけてからはそれをプレイしてばかりになった。浮浪者に似た生活を送っていた中で娯楽に飢えていたせいなのか。それとも心に乙女を住まわせているからなのか。面と向かって丸山に訊ねた事は無い。訊ねようと思った事は無い。丸山にイケメンを求められたところで、枯れ果てた肉体のおれにそれを満足させる事は出来ないのだから、目を逸らすのが吉だろう。
焼いた食パンを口にしながら丸山と出会った日の事を思い出す。
あの日、夕方の散歩の休憩に公園のベンチに座っていると、不意に丸山が隣に座って来たのだ。二十代後半だと思われて、髪を茶色く染めた軽い感じの優男であった丸山が。他にいくらでもベンチは空いているというのに、わざわざ呼吸音が分かるほどの距離まで詰めて。親父狩りか。と古い言葉だがその時は思った。近所でそういう事件が起こっている事は何度か噂で聞いていた。
自慢では無いが我が家に貯蓄はそれなりにある。還暦を超えて痛い目に遭うのも勘弁してほしかった。五万円くらいまでなら若者に恵んでみせるとして、それ以上を要求するようなら警察に飛び込もうと思っていたが、丸山はおれに予想もしていなかった言葉を浴びせた。
――俺、行く所が無いんだ。おじさんの家に連れてってくれないかな?
急に何を言い出しているのか理解出来なかった。
からかわれているのかと思った。金銭を要求される方が分かりやすかった。
夕焼けに照らされていて、そう言った丸山の表情もよく掴めなかった。
勿論、そんな要求に応じる必要は無い。おれはこの男を無視して立ち上がる。追って来るようなら大声を上げてやる。暴力を振るわれるようなら後で必ず警察に飛び込む。そんな粗筋を頭の中にシミュレートした。シミュレートしていたはずなのに、おれは。
おれは気が付けば頷いてしまっていた。頷いて、丸山を家に招いてしまっていた。
あの時のおれの思考がどうなってしまっていたのか、今でも完全には理解し切れない。しかし推測は出来る。あの時のおれは久し振りに感じる人間の鼓動から、呼吸から、体温から離れたくなかったのではないだろうか。それが例え得体の知れぬ自分よりずっと若い男であったとしても。
おれは、人恋しかったのかもしれない。自らでも気付かない内に。いつの間にか。
それからしばらく後で丸山から聞いた話だが、丸山はずっと知人の家の間を転々としながらも、近所の公園でたまに見かけるおれに目を付けていたらしい。それなりに金を持っていて家族と同居していない、老いて寂しそうな男を。そんなに寂しそうに見えていたのだろうか、とおれは丸山と二人で狭くなった湯船に浸かりながら思ったものだ。
とにかくそれ以来、おれと丸山は男二人で奇妙な同居生活を続けている。丸山は特におれに金銭を要求しない。美紀の残していったゲームと三食と寝床、そしてたまにおれと身体を重ねる事さえ出来れば満足らしかった。確かに浮浪者に近い生活を送るよりはずっとまともな生活には違いない。
おれは丸山と肌を重ねるまで、自分が男とセックス出来る人間だとは思っていなかった。昔から女の肉体にしか興味を持てなかったし、妙に距離感が近い知人の男は避けていた。自分が同性愛者だとは今でも思っていない。両性愛者でもない。丸山は男だけが恋愛対象らしいが、おれは決してそうではないのだろう。とても残念な事に。
乙女ゲームをプレイしている丸山の横顔を見ながら、また思う。
丸山はやはりイケメンの方がいいのだろうか。こんな老いて枯れた肉体を持って、髪の生え際が相当に後退しているおれなどより、見目麗しくて若々しいイケメンの方が。イケメンの方がいいに決まっている。極一般的な感性を持っていれば誰だってそう考える。丸山は単に都合がいいからおれの家に転がり込んでいるだけなのだ。
それを丸山に訊ねる事は出来なかった。これから先も出来そうにない。
おれは丸山に気付かれないよう嘆息する。丸山の事を責めてばかりもいられない。おれだって丸山を利用している。お互い様、いや、もしかしたらおれの方が打算的で醜悪かもしれない。だからこそ丸山に想いをぶつける事なんて一生出来ないだろう。
丸山はそれからずっと昼食も摂らずに乙女ゲームをプレイしていた。
おれも昼食を摂らず、ただ丸山のプレイをじっと見ていた。
この関係をいつまで続けられるのかと若干の不安を感じながら、秋の陽が傾くまで。
・
不意に眩しさを感じて目を細める。
気が付けば黄昏時になってしまっているらしかった。
我が家は、おれは、世界は薄紅に染まっていた。
そして、乙女ゲームをプレイし疲れたらしい丸山も、出会ったあの日のように。
丸山の顔が夕陽に照らされる。表情も全く掴めない程の夕焼け。
誰か彼か分からない程の黄昏――誰そ彼に。
おれはあの日、丸山の誘いに乗って奴を我が家に招き上げた。
結果的に奇妙な同居生活が始まる事になったし、それに後悔はしていないが、けれど思う。おれはもっと丸山の表情を見つめておくべきだったのだろうと。あの時、おれは久し振りに感じる人間の体温に酔って、その持ち主の表情を確認する事を怠った。いや違う、そうじゃない。あえて見なかったのだ。簡単に言えばどうでもよかったのだ、それがどんな表情の持ち主でも。
おれに体温を感じさせてくれる相手なら、誰でも彼でも構わなかった。犯罪者であろうと、極悪人であろうと、金目当てであろうと、週に三回おれの身体を求めてくる男であろうと、一人で生きていくよりはずっといいと考えてしまったのだ。だからおれは誰そ彼を言い訳に丸山の表情を確認しなかった。今でもはっきりとは確認していない。奴とセックスしている時であろうと、その表情を直視しないようにしているのだ。
この奇妙で掛け替えのない斜陽の生活を続けていく為に。
丸山がおれに視線を向ける。恐らくはゲームのし過ぎで腹を空かせたのだろう。
おれも腹が減っていないわけではなかった。
夕食を軽く用意すると、丸山はそれを食べながらゲームのプレイに戻った。
プレイしている乙女ゲームがそんなに面白いのだろうか。おれもいつかプレイしてみてもいいのかもしれない。丸山の表情の事から思考を外せるのならば、それも悪くない考えだった。丸山がモニターを譲ってくれるかどうかだけは問題だが。
夕食を摂ってから風呂から上がった時には、丸山が居間で寝落ちしていた。どうしようもない男だが、昔のおれみたいで苦笑する事も出来なかった。まゆみもよくこんなおれと結婚してくれたものだと痛感させられた。
居間のテレビと電灯を消して自室に戻る。丸山は放置して構わないだろう。
どうせ丸山は明日も早朝から目を覚ましてゲームを再開するのだろうし。
観たいテレビも読みたい本も無かったから、おれは早めに床に就く事にした。
今日も特に何も起こらない普段通りの一日だった。安心出来る一日だった。
もうほんの少しでも長くこの生活が続けられるのなら、他に望む事など一つも無い。
それまでは続けよう、誰とも彼とも分からない丸山と黄昏みたいな老後の生活を。
布団を敷いて自室の電灯を消すと、俺は不意に気が付いた。
そう言えば。
今日も丸山と一言も会話をしていない。
黄昏 猫柳蝉丸 @necosemimaru
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます