クレイジー・キッチン 第二話「コロッケ」(1)
第二話 人に優しくしてもらうには、まずは自分が優しくなろう
灰色のビジネス街、アスファルトに叩きつけられ染み込む大粒の雨。
「雨、全然やみそうにありませんね……」
ガラス越しに聞こえる雨音は人の心を不安にさせる効果でもあるのだろうか? カナさんがどこか寂し気に呟いた。
「何をいっているんだお前は。雨がやんだら客が来てしまうではないか」
「何をいっているんだお前は」
呆れ顔のカナさんを放っておいて、俺も雨粒の流れ落ちるガラスを通して人通りのまばらな街を眺めた。
色とりどりの傘が足早にどこかへ向かう。俺と違って、どこか目的地があるのだろう。羨ましいとまではいわないが、違う世界に生きているのだという隔たりを感じた。
それを寂しいと感じる程度のロマンが、俺のなかにも残っているらしい。
かみなり様が女にフラれた腹いせに八つ当たりしているような激しい雨。こんな日はひどく憂鬱だ。俺が調理師専門学校に通っていた当時、付き合っていた女と別れ話をしたのも、確かこんな日だった─。
『あなたは勝手な人だわ』
別れ際、彼女は俺にそういった。
断っておくが俺は彼女を殴ったことなどない。我儘をいったこともない。大声を出した記憶すらないほどだ。
愛情とは誠意を示すことだと信じ、実行してきたつもりだ。しかし、俺が彼女を喜ばせるための努力を怠っていたことは否定できない。
流行のデートスポットを調べ、美味いイタ飯屋を巡り、スケジュールをぎちぎちに詰め込んだ観光客のような真似をするのが嫌だった。そうした行為を、軟弱と考えていたフシすらある。
俺が飯を作り、彼女が本を読み、同じ時間を共有する。そこに言葉など無くてもいい……。そんな関係を望むには、俺も彼女も若すぎたのだろうか。
彼女は俺を『つまらない男』ではなく、『勝手な男』と評した。もしかすると彼女は誰よりも俺を理解していたのではないか。
僅かな時間だが、愛を囁いた記憶を、辛いものとして思い出すこと自体が裏切りなのではないか。そう考えてしまうことがある─。
「よし、決めた」
「え?」
「今日は閉店までひとに優しくする。ジェントル店長デーだ」
「え? え?」
訳も分からず間抜けヅラを晒すカナさんはとりあえず無視して、俺は他人に優しくとは具体的にどうするべきかと考え始めた。最近、そんなことをした覚えがないので正直なところ悩んでいる。
外は寒い。客が来たら熱い茶を出してやろう。手を温めるのにちょうどいいくらいのやつだ。濡れていたらタオルを貸してやってもいい。白くてふっかふかのやつをだ。
出迎えはそんなところでいいだろう。後は流れで、にこやかに。
彼女と別れてから、どれだけの月日が流れただろうか。その間ずっと俺の時間は止まっていたように思う。そろそろ気持ちを切り替えて新しい恋というものを探してもいいのではないか。
人生には彩りが必要。命短しやらせろ乙女、ボーイ・ミーツ・ファックだ。
例えばそう、ドアが開いて全身ずぶ濡れの女性が入ってくる。俺は何も事情を聞かず、顔がすっぽり隠れるくらいの大きなタオルを貸し、熱いお茶を出す。女は何も言わない。
タオルの下から泣き声をこらえるような何かが聞こえるが、俺は知らないふりをする。やがてお茶が冷めるころ、ありがとう、と擦れた声で言い、タオルを外す。無理して浮かべたその笑顔に、俺は一目で恋に落ちる、と……いかん、これは完全にバーのシチュエーションであって、洋食屋の出番はなさそうだ。
さわやかな笑顔でからあげをサービスするというのも絵にならない。
首を振って馬鹿な考えを振り落とそうとしたその時、からんからんとドアベルが鳴って、俺は弾かれたように顔を上げた。
ひだるまキッチンのドアを開け、そこに立っていたのは、初老の紳士であった。
……はいはい、わかっていましたよ。どうせそんなオチだって。
恋に落ちることはなかった。むしろこの流れで落ちても困る。
とりあえず他人に優しくしようという思い付きは継続中だ。さあ来い、何でも言えお客様コノヤロー。精一杯おもてなししてやるぜ。
男は店内を軽く見まわしてから券売機を見つけると、少し困ったような顔をした。こういったスタイルに慣れていないのだろうか。
「何か……」
「はい?」
「お薦めはあるかね?」
渋い、それでいて艶のある声。この男は過去に多くの人間を魅了し、動かしてきたのだろう。そんな背景を想像させる。
ハッキリ言って、初対面の奴にお薦めを聞かれたって困る。こちとらアンタの好みも持病も知らんのだ。
いつもなら、
『薦められねぇモンなんかねぇよ! テメェが食いたいモン勝手に食え!』
……とでも言ってやるところだが、今日の俺はジェントル店長だ。せいぜい優しく提案してやろう。
俺は軽く咳払いをして喉の調子を確かめてから、猫にでも話しかけるような明るい声でいった。よし、いけそうだ。
「ウチのはなんだって美味しいけどねぇ。こんな寒い日はコロッケ定食なんかどうですか。揚げたて熱々のをご用意しますよ」
「揚げたてを、ふぅふぅ吹きながら食うのかい。いいね、それをいただこう」
男が慣れぬ手つきでチケットを買うと、カナさんがそれを受け取りカウンター席へ案内した。ふわり、という擬音がふさわしいような座り方をする。動作ひとつひとつが絵になる男だ。
俺は彼に、俺の料理を認めさせてやりたくなった。いい男に認められる、それはそれでひとつの快楽であろう。
油の温度を目と耳で計り、下ごしらえを終えたコロッケをゆっくりと沈める。
洋食屋に限らず、飲食店というものは様々な料理を多数の客に手早く提供しなければならない。その為、手順を簡略化させなければならない場面というものが出てくるものだ。
だが、あらかじめ揚げておいたものを注文に応じてレンジで温めて出すようなこともしたくない。
揚げたて。それだけは俺の譲れぬ信念だ。
できる限り美味いものを。それこそ、恋人に食わせるときのような気持ちで─。
……止そう。俺のコロッケが好きだと言ってくれた女は、今は他人の女房だ。
俺が真剣に相手をするべきはカウンターに座る紳士と、油に沈むコロッケだ。
「お待ちどうさん! ひだるまキッチン特製、コロッケ定食だ!」
湯気の立ち昇るコロッケを、紳士は箸で一口大に切って、食べる。
うむ、と感嘆の声が漏れた。
「こいつは美味いな。意外、といっては失礼かな? 本当に美味いよ」
紳士は楽しそうに笑っていう。失礼などとは微塵も思わなかった。
ビジネス街の端っこにちょこんと構える小さな洋食屋。半ば雨宿りのつもりで立ち寄ったそんなところに天才料理人がいたとあれば、意外でなくてなんであろうか。
当初の予想としては、べっちょりとしたぬるいコロッケを『まあ、こんなもんか』と諦め顔でもそもそと食い、雨が弱まったのを確認してからキャベツとご飯を半分ほど残して立ち去る、そんな所だっただろう。
うむ、という一言。それが最大の賛辞であった。わざとらしい料理番組のように、さっくりしてほっくりしてジューシーで、などといった言葉はいらない。良いものに出会えたという驚きと喜び、それだけで充分だ。
紳士は残りひとつとなったコロッケを、名残惜しそうに見つめながらいった。
「持ち帰りなんかは、やっていないのかね?」
「え?」
冗談ではない。この前の肉まんですら後悔しているのだ。
忙しい時に注文が入れば手が回らないと、カナさんと十数回の口論と三回の殴り合いの果てにようやく、お持ち帰り用肉まん限定二十個ということで手打ちになったのだ。これ以上、厄介ごとの種を増やしてたまるか。
「冷めたコロッケはですね、ひだるまキッチンのコロッケではないのですよ」
嘘をつくときはなるべく堂々と。動揺を隠し、俺は完璧なおためごかしを披露した。
……つもりだった。
「そうか。ふ、ふ……、ならば仕方ないな」
紳士は笑っていた。俺の浅ましい嘘を見抜かれたようで、なんだか気恥ずかしい。
「また寄らせてもらってもいいかな。今度は人を連れて……」
「もちろんです。味わって欲しい料理がまだ他に沢山あります。例えば、ウチはトンカツなんか自慢でね、お薦めですよ。是非ともあなたに食べてほしい」
聞きながら頷き、紳士は懐に手を入れてから、はにかんだような顔をしてすぐにひっこめた。ここが食券式の店で、既に前払いをしているということに気付いたのだろう。
俺はこの男がいっぺんに好きになった。男女の恋愛こそ見つからなかったが、良き出会いがあったことは確かなようだ。
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