第5話 依頼、一人で出来るもん
手に持った風呂敷包みを生首でも入っているかのように苦々しく見つめながら、一磨は重い足どりで一人ぼっち、菊華陶磁器が初日の目的地に指定した旅館「綿毛屋」に向かって歩いていた。
「いやぁ……。参ったな……。受け取ると同時に砕け散るって、どういう事態だよ……」
手にずしりとかかる嫌な重みが、菫に言われた注意事項を警報のように一磨の頭に響き渡らせる。
『日没までに茶碗を持って宿に到着出来なければ爆発』
その言葉がぐるぐる回って、自分のそう遠くない未来の姿が脳裏にはっきりと浮かび上がってきた。
① 割れた茶碗を持って宿に着いた途端、爆発して木端微塵
② 菊華陶磁器の者に箱を開けられて死ぬほど文句を言われた後、爆発して木端微塵
③ 割れた茶碗では宿に到着した事にならず、日没と共に木端微塵
結局、木端微塵。
一磨は不安の余り眉間に皺を寄せて「くぅっ!」と呻きながら思いきり仰け反った。まぁ何とかなるさ、といつものように笑い飛ばしたくても、盗人を作品ごと爆破するような菊華陶磁器の連中が、壊してしまった人間の事をただで済ますとは思えない。
「やべえっ! ここじゃねえか!」
悶々と悩みながら歩いているうちに、気が付けば綿毛屋の前に到着してしまっていた。素早く木の陰に隠れて何か良い方法は無いものかと頭が沸騰するほど考えたが、日はすでに傾き始めている。このままぐずぐずしていたら時間切れで荷物は間違いなく大爆発、気持ばかり焦って良い考えなんてまるで出て来ない。そもそも実際問題として、割れてしまっている以上、どうしようもない。
「こうなったら成るように成るしかねぇ!」
一磨は覚悟を決めたと言うよりは、やけっぱちになって木の陰から勢い良く飛び出すと、歯を食い縛って宿の入口へと突き進んだ。
宿の敷地に入れば到着した事になると、菊華陶磁器で菫に伝えられていた。
庭園へと続く宿の入口が、まるで地獄の門のように恐ろしく感じられる。
ためらったら負け、そう思った一磨は尋常でない冷や汗を流しながら、立ち止まる事無く一気に宿の敷地へ突っ込んでいった。
「ひいぃっ!」
敷地に一歩足を踏み入れた所で首を竦めながら風呂敷包みに目をやったが、爆発はしていない。どうやら助かったらしい。
「ふうぅぅぅぅぅぅう……」
大きく溜息をついて第一関門突破。
しかし、宿の玄関先に作務衣を着た男が立っており、菊華陶磁器の者であろうその男と思いきり目が合ってしまった。まだ動揺から立ち直っていない一磨に向かって、男がゆっくりと歩み寄って来る。
逃げる訳にもいかないので、一磨はその場で立ち竦んだ。
「すみません。万真さんですよね?」
男の問いかけに体は強張り、全身の毛穴が開く。緊張のあまり返答しそびれた一磨に構う事なく、男は一方的に話し始めた。
「実は、ここの宿代さっき自分が払ったんっすけど、万真さんの名前じゃなくて、自分の名前で宿取っちったんすよ、鈴岡で取っちったんす。これって、俺が宿に泊まる事になっちまう感じっすか? 万真さんは野宿って感じになっちゃいます? 俺、やっちゃった感じですかね? やばいすか? 俺また怒られちゃいますか?」
何やら男は泣きそうな顔になっている。
「……いや、別に……。名前が違ってても大丈夫じゃないかな……?」
一磨が答えると、男は一磨の言葉を頭の中で何度も反芻するように考え込むような表情をした後、
「えっ……ほんとっすか! 信じていいっすか! まじあっぶねぇ所だった! 本当よかったぁ! あっ、そういや先輩が、万真さんに明日もよろしくって言ってました。じゃあ俺は工房に帰るんで失礼しやぁす!」
そう言って嬉しそうにぺこぺこ頭を何度も下げた後、立ち去ってしまった。
「う、うん……」
男の軽さに面食らったものの、これは油断させておいてから爆破する菊華陶磁器の作戦かもしれないと考え、門から出ていく男の姿を目で追い続ける一磨。しかし、とくに怪しい動きはせず軽い男はふらふらと道を戻っていく。意表を突かれたものの最後の関門は日没のみとなった。
宿に入って宿泊の手続きを済ませると、女将にまもなく夕飯である事を告げられたが、木端微塵になるかもしれない状況の中で飯を食べられるほど一磨の神経は太くない。むしろ細い。なので夕飯は丁重に断る事にして、その代りに提灯を借りて外へ出た。
日没と同時に爆発しても被害が出ないよう林の奥へ入り、風呂敷包みを木にぶら下げて離れた場所から観察を行っていると、薄暗くなるにつれて恐ろしげな動物の唸り声や不吉な気配が周囲に漂い始めたが、爆死する可能性がある今、そんな事は気にしていられない。
次第に一磨の不安は増していき、緊張感で吐き気をもよおし、叫び声を上げたくなるほどに追い詰められた精神状態の中、とうとう日没がやってきた。
しかし爆発は起こらない。
念の為に月明かりの下でしばらく観察を続けていたが、風呂敷包みが爆発する気配は無かった。
「よっしゃぁあああっ! 助かったぁぁぁああ!」
一磨は大声で叫ぶと、尻を振って小踊りしながら助かった喜びを全身で表現、依頼が終わったかのような達成感と共に宿へ戻った。
宿ご自慢の広い露天風呂にゆっくり浸かって心と体を癒した後、夕飯をとらなかった一磨の為に女将が部屋へ用意してくれたおにぎりと胡瓜の漬物を齧る。
「ああ……、生きてるって素晴らしいな……」
なんの変哲もない普通の塩おにぎりだったが体中に染み渡るほど美味しく、かりっと齧った胡瓜の心地よい音が窓から庭園に抜けて行く。この味は一生忘れられないだろうなと思いつつ一磨は夜の庭園を眺めた。
やり遂げた気分でふかふかの布団に入り、ぐっすりと就寝。
そして翌朝。
朝食をお腹一杯食べ、温泉の効能で心なしか肌もつるつる、体調万全の一磨は二日目の宿に向かって出発する事にした。
「今日も良く晴れてんな。よし、行くか!」
真っ青で雲一つ無く、見ているだけで気持ちの良い晴天の下、風呂敷包みの中でざらざら鳴る嫌な音は聞こえない事にして、颯爽と歩き出す。
二日目の行程は山越えとなる。山道を進むにつれて次第に遠くの方まで見渡せるようになり、さらに山道を登っていくと白い波頭に覆われた海、そして様々な建物がひしめき合う町の様子と周辺の景色が一望できる、見晴らしの良い場所に出た。
「山登りも結構いいもんだ。休みの日に弁当持って来たら楽しそうだな」
一休みをしようと鼻歌混じりで切り株に腰をかける一磨だったが、三味線の音がどこからか風に乗って聞こえたような気がしてふと顔を上げた。
「んっ……?」
一磨の背後、生い茂った草木の先に空き地があるらしく、奥の方に派手な色をした物体の一部が僅かに見える。こんな場所に何が置いてあるのか気になり、空き地へ続く道を探して散策してみると、大木が乱暴に切り倒され、先へ進む事の出来る場所を発見した。
軽い気持ちで太い木の幹を乗り越えて空き地に目をやった瞬間、そこに見えた光景に驚き、一磨は立ち竦んだ。
倒された沢山の大木の先に広がった空き地の中央に、遊郭の一部が突然山奥に出現したような、周囲の自然に全く似つかわしくない、艶めかしい雰囲気漂う御座敷があった。
「一体……、どういう事だ……?」
真っ赤な布で覆われた六畳ほどの分厚い板が地面に敷いてあり、その上には綺羅びやかな色彩の小机や座椅子が置かれている。金銀眩い屏風と大和絵の描かれた巨大な番傘が立てられ、その陰に隠れるように一人の女がこちらに背を向けて座っていた。
女は周囲の品々より一層華美な着物を肩まではだけ、白く滑らかな肌を大胆に露出している。
「完全に怪しいだろ……。露骨に罠じゃねえか……」
そう言って警戒したものの、露わになっている女の背中が気になって仕方なく、一磨は危険だと分かっていながら前進を続けた。そして大胆にも座敷のすぐ近くにまで近寄り、屏風の陰に潜んで女の背中をまじまじと眺めていると、
「お待ちしておりました。私、戸々舞と申します」
女が急に振り返って挨拶をして来たので、驚いた一磨は派手に尻餅をついてしまった。慌てて逃げ出そうとしたが、戸々舞と名乗る女が余りにも親しげに微笑んできたので、警戒しながらも話し掛けて見る事にした。
「お、おい……。こんな所であんた何やってんだ?」
戸々舞が魅惑的な笑顔を崩す事なく、一磨に答える。
「あなたの持ってる荷物を譲って貰う為に待っていたの。素直に渡してくれたら、痛い事はしないであげる」
「荷物を!? やっぱりか! あんた、山賊なのか!? 山賊にしては雅過ぎるだろ!」
慌てて立ち上がった一磨は全力で走り、戸々舞から距離を取った。
「ふふっ……、山賊……? こんな山賊はいないでしょ。山の中できらきら目立っちゃって仕様が無いんじゃない?」
「何でこんな御大層な家具一式、山に持ち込んで旅人を襲ってるんだよ!」
その言葉を聞いた戸々舞は少し困ったような表情を浮かべた後、不満げに唇を突き出した。
「さっきから物騒な事ばっかり言って嫌ね……。まだ襲ってないでしょ、私は渡してってお願いをしたのよ? 今日菊華さんの所からやって来た荷物は全て持って帰らないといけないの。あなたには悪いと思ってるけど、私、仕事には手を抜かない主義なの」
「仕事って……、あんたも誰かに依頼を受けてこんな事してるのか?」
「あら……いけない。ちょっと喋りすぎちゃったみたい。それは言えないわ……。ひ・み・つ……」
戸々舞が前屈みになって人差し指を自分の唇へそっと押し当てると、着物の前合わせから覗く胸の谷間が強調され、こんな状況ながら一磨の視線はその柔らかそうな箇所へ釘付けになった。
「荷物を渡してくれないのなら、痛い思いをする事になっちゃうわよ。どちらでも私は構わないけど、早く決めてね、優柔不断な男ってあんまり格好の良い物じゃないから」
そう言って戸々舞が座椅子に深く凭れかかったとたん、沢山の白い細々とした物体が周辺の木々から一斉に空へ向かって舞い上がった。鳥の群れが飛び立ったのかと思ったが、それらは全て折り紙でできた鶴で、無数の折鶴が戸々舞の周りを縦横無尽に飛び回っているのだった。
「まさか……、この折鶴、全部あんたが式術で操ってんのか!?」
「操るぐらいなら誰でもできるじゃない。こんな事で驚いちゃ駄目。ちょっと見ててね」
戸々舞が手を上げると折鶴の群れが一本の長い綱のような隊列を組み、幾重にも回転する渦巻き模様を宙に描いた。そして、渦巻の先端部が地面に向かって急降下、先頭の折鶴が地面に接触した瞬間、爆発でも起きたかのように地面は吹き飛び、折鶴の通った場所が大きく抉れてしまった。
「嘘だろ………。折鶴なんだろ……。とんでもねぇ破壊力じゃねえか……」
「でしょ、これで勝ち目の無い事が分かった? あなたと一緒に荷物まで壊すといけないから、ちょっと変形させるわね。さぁ、一体何の形になるのでしょうか?」
戸々舞がさっと手を振ると、折鶴は数羽を残して一斉に鶴から真っさらな折紙へその姿を変えた。そして宙に浮かんだ大量の折紙が、空中でそれぞれの縁を隙間無く合わせて一枚の巨大な折紙となり、勝手にパタパタと折り畳まれていく。
その後、部分的に広げたり、折り込んだりといった、折紙作りの工程を素早く幾度も繰り返し、あっという間に人の身長程もある一羽の巨大な折鶴が完成した。
しかし先ほどの形状とは異なり、巨大折鶴の胴体部分からは、手足らしき四本の細長い突起が伸びている。
「おい……、何だそいつは……。鶴人間か……?」
鶴人間という一磨の表現がぴったりの、手足を持った人型巨大折り鶴。奇怪な姿をした鶴人間は、腕を組んだまま優雅に翼を羽ばたかせ、杖のような二本の足を使ってしっかりと大地に降り立った。
鶴人間の周囲には小さな折鶴が数羽、くるくると円を描いて飛び回っている。
「鶴人間だなんて、変な呼び方はやめて貰える? この式術人形の名前は鶴丸って言うの。鶴丸が鶴人間なら、あなたなんて屑人間じゃない」
「屑人間って……、それはちょっと言い過ぎじゃねぇか……?」
「鶴丸の力は人間の比じゃないから、早い所、荷物を渡したほうが身の為よ。背中向けた瞬間に折鶴を打ち込むから、逃げようなんて思わないでね。あなたの体を貫通して荷物が木端微塵になったら困るもの。荷物があなたの血で汚れても嫌だし」
戸々舞が物騒な事言うや否や、鶴丸の周囲を飛んでいた折り鶴のうち一羽が、目にも止まらぬ速さで一磨に向かってすっ飛んできた。空を切る恐ろしげな音と共に折鶴は弾の如く地面を貫き、一磨の足元にぽっかりと拳大の穴を開けた。
「とんでもねぇな……。あんな奴と戦わなきゃいけねぇのか……」
数羽の折鶴を従え、鶴丸が長い足を地面へ交互に突き刺しながら、一磨に向かってゆっくりと近付いて来る。
「畜生……、やってやろうじゃねえか……。俺だって、もののふの端くれなんだよ!」
一磨は恐怖を振り払うように大声を出すと、昨日神社で購入した衝撃の御札を懐から取り出し、鶴丸へ向けて投げ放った。
御札は鋭く宙を飛び、見事鶴丸の胸元にぺたりと貼り付いた。御札が光を放つと同時に強力な衝撃波が鶴丸の体を包み込み、鶴丸の足元の土が後方へ勢い良く吹き飛んでいく。
次第に御札の威力が増していく様子に一磨は手応えを感じて「よしっ!」と声をあげたが、飛んで行くのは土ばかりで肝心の鶴丸が吹き飛ぶ気配は一向に無い。
そしてとうとう御札の効力が切れてしまった。
円状に土が吹き飛んでできた地面の段差を乗り越え、鶴丸が何事も無かったかのように平然と歩み寄って来る。
「なっ……、嘘だろ!? 全く効かないのか!?」
「残念ね。私が折紙にかけてる式術以上の力でないと効かないの。直接攻撃するにしても鶴丸の体は鉄と同じくらい硬いわよ。今の御札、どうせ安物の簡易札でしょ。悪いけど、鶴丸相手にそんな物意味無いわ。やっぱりもののふなんて所詮、便利屋さんに毛の生えた素人の集まりなのね。どう? 荷物渡したくなってきた?」
「くそっ……。好き放題言いやがって……」
早くも手詰まりになってしまった一磨が自分の弱さを痛感していると、彌鈴のくれた御札の事がふと頭に浮かんだ。どんな効果があるのか、そもそも式術が込められているのかどうかも疑わしい「水がどどん」「びゅん風」「石井さん」と書かれた三枚の御札。一磨はその中から「水がどどん」と書かれた御札を抜き取り、すがる思いで強く握り締めた。
「同じ事よ。御札と時間の無駄だと思うんだけど。あなたって学習能力無いの?」
「俺はよ、諦めが悪い事で有名なんだよ! こんな所で終わってたまるか!」
腹の底から叫び声を上げ、彌鈴の御札を迫り来る鶴丸に向かい渾身の力を込めて投げ放つ。
「頼むぞ、行けぇっ!」
気迫に満ちた一磨の掛け声で、僅かながらも周囲に緊張が走った。
しかし、一磨の手を離れた御札は鶴丸の足と足の間にへろへろと舞い込んで地面に落下しただけ。全く何も起こる気配が無い。
「あれっ……。おいっ……。どうした……。もしもーし!」
御札に向かって声を掛ける一磨だったが、依然として場は沈黙したまま。
「終わった……」
がっくりと肩を落とし、四つん這いになる一磨。
しかし、その直後。
御札が光を放つと同時に地鳴りのような轟音が響き渡り、幾つもの巨大な水柱が猛烈な勢いで噴き上がった。
水柱に込められた力は戸々舞の式術を上回っているらしく、鶴丸の周囲を飛んでいた折り鶴の一羽が水柱に掠った瞬間、ただの濡れた紙に変り果てて地面に叩きつけられた。
これほどの式術であれば鶴丸も倒せるかもしれない。
ところが残念な事に、水柱の直撃を受けたのは一磨の方だった。
「なんで俺がぁぁぁぁあ!」
悲鳴と共に、一磨の体が水柱の強烈な力で上空へ連れ去られていく。正面に見えていた鶴丸の姿は一瞬で下方に遠ざかり、恐怖の余り一磨は体を丸めて固く目を閉じた。
彌鈴の御札は張り付けた場所の周囲に巨大な水柱が複数上がる強力な式術だったらしく、御札の真上にいた鶴丸や御座敷の戸々舞は全くの無傷、運悪く水柱の発生箇所にいた一磨だけが上空に運ばれてしまった。
鶴丸の周囲には地面より轟々と音を立てて五本の見事な水柱が吹き上がっていたが、式術の効果が終わった事でそれらが一瞬の内に消滅、上昇していた一磨の体が急にふわりとした感覚に包まれた。
恐る恐る目を開けた一磨の目に映ったのは、目も眩むような高さの上空だった。
遥か彼方に連なる山や森や広大な海までもが一望できる現実離れした光景が、自分の真下に遥か地平線の先まで広がった。雲は自分のすぐ横に浮かんでおり、太陽は普段よりも一層眩しく自分の顔を照らし出している。
その瞬間、凄まじい恐怖に一磨は襲われた。
「嘘だろ……」
絶句すると同時、一磨の体が大地に向かって落下し始めた。地上から強烈な風が全身に吹き付けきて、頭の中は真っ白、歯を食い縛って気絶だけはしまいと耐えていたが、地面はぐんぐん接近してくる。このまま叩きつけられたら間違い無く死んでしまう。
「ひぃいいいい! ひぃいいいい!」
悲鳴を上げながらも一磨は風に飛ばされないよう、必死になって懐から衝撃の御札を取り出して、無我夢中で自分の腹へ貼り付けた。光と共に発動した式術の衝撃波が、空から猛烈な速度で落下して来た一磨の腹を上に向かって一気に押し返す。
「ぐえぇぇぇぇぇ!」
腹部を突き上げる御札の強力な衝撃波と落下してきた勢いが相殺され、一磨の体は地面すれすれの空中で無事静止した。しかし落下が止まった後も御札の効力はまだ残っており、一磨の体は綱で引っ張り上げられるように、もう一度空へ舞い上がった。
そして、結構な高さから地面へ容赦なく叩きつけられる。
「ぐっはあああぁぁ!」
悲痛な叫び声を辺りに響かせて一磨は大地に突っ伏した。満身創痍で顔を上げると、ぽかんと口を開けた顔でこちらを見ている戸々舞と目があった。
あれ程の高さから落下したにもかかわらず何とか助かった喜びと、臨死体験に近い恐怖によって興奮状態に陥っていた一磨は、
「ま、ざっとこんなもんさ……」
敵である戸々舞に向かって、どうだと言わんばかりの得意げな顔で親指を立てた。
驚いたのは戸々舞だった。
「何が!? 意味が分からない! いきなり、とんでもない力の式術使ったと思ったら、何、自爆して瀕死になってるのよ!?」
動揺する戸々舞に追い打ちを掛けるように、一磨と共に大空に舞い上がっていた風呂敷包みが地面へ激突。箱の中で破片のぶつかり合う音が盛大に響き、中身の砕け散っている事が戸々舞にはっきりと伝わった。
「えええっ!? 今ので荷物壊れちゃったんじゃないの!? ちょっと! 私、まだあなたに何もしてないのよ! さっきからあなた何なの? 一体何がしたいの!?」
一磨がふらつきながら、泥まみれで立ち上がった。
「なあ、荷物壊れちまったんだから、もういいだろ……。見逃してくれよ」
「中身がどうなろうと私は荷物を持って帰る事が任務だから、見逃すわけにはいかないの。あんな強力な御札を持ってるなんて驚きよ。それで勝手に自滅するなんてさらに驚きよ。あなた、ちょっと行動が読めなさ過ぎて危険だわ。早い所、荷物を鶴丸に渡して」
再び鶴丸が一磨に向かって前進を始める。
それを見て、一磨は懐から彌鈴の御札を取り出した。残りは二枚。少しだけ迷った後で「石井さん」と書かれた御札の方を力強く抜き取った。
「どんな御札だか、全く想像がつかねぇ……。頼む、この状況を何とかしてくれ……」
祈るように呟いて御札を放つと、御札は宙を飛んでくるりと回転し、眩い光を周囲に放った。
すると、広場に転がっていた無数の石ころがその光を浴びてふわりと地面から浮かび上がり、御札へ向かって一斉に集結を始めた。宙に石ころの塊が作り出され、塊が次第にその大きさを増していく。そして結構な大きさになったところで突然破裂、塊は周囲に大量の石をばら撒いて分散した。
飛んで来る石から身を守る為に一磨はしばらくの間、腕で顔を覆っていたが、石つぶてが止んだ所で前方を見てみると、石の塊が浮かんでいた場所に何やら人型の物体が出現している。
「なんだ……、ありゃ……」
その人型は鶴丸と同じ式術人形と思われる、大小様々な石を組み合わせてできた石の人形だった。
空中からゆっくりと降下してきた石人形は、まるで生きているかのように全身を滑らかに動かし、素早い動作で正拳突きを数回繰り出した後、鶴丸へ向かって隙無く身構えた。
どうやら石人形は一磨を守るべく、鶴丸と戦ってくれるらしい。そんな石人形に向かって、一磨が全力で叫ぶ。
「小さすぎるだろぅうッ!」
勇ましく鶴丸に向かって身構えている石人形だったが、その身長は一磨の膝ぐらいまでしかなく、鶴丸と並ぶとその大きさは歴然、まるで大人と赤ん坊が対峙しているようだった。
「御札に書いてあった石井さんってのは、あの人形の名前なのか? あんな小さい人形が鶴人間に勝てるわけねぇだろ……。駄目だ……。この御札も使えなかった……」
一磨は絶望してがっくりと膝を着いた。そんな一磨の姿を、構えを解いた石井さんが振り返ってじっと見つめている。石でできた顔から感情を読み取る事はできないが、その体はふるふると小刻みに震えており、何やら一磨に対して怒っているように見える。
石井さんは小さな歩幅でよちよちと一磨のすぐそばに近寄ってきた。
「何だ……」
一磨が石井さんに向かって顔を上げた瞬間、突如石井さんは目にも止まらぬ速さで一磨の顎を下から突き上げるように思いきり殴り付けた。
一磨の体が一瞬のうちに空高く舞い上がり、弧を描いて戸々舞の居る座敷を大きく飛び越えた。そのまま林の中に落下して一磨の姿は見えなくなり、豪快に枝のへし折れる音だけが辺りに響き渡る。
「嘘でしょ……」
その様子を一部始終見ていた戸々舞は、驚きの声を上げ、一磨を殴り飛ばした石井さんは何事も無かったかのように体の向きを変え、再び鶴丸へ向かって身構えた。
「何なのよ……。こんなに膨大な力を込めた式術人形を作り出す事が出来るなんて……。聞いた事も無いわよ……」
外見で判断した一磨とは異なり、戸々舞は石井さんの小さな体に秘められた底知れぬ力を感じ取っていた。
戸々舞の心が乱れた影響で棒立ちになってしまった鶴丸に、石井さんがすっと近付き、腰を低く落として小さな体をさらに縮めた体勢から正拳突きを繰り出した。
周囲の空気が陽炎のように揺らめいて石井さんの拳を覆い、尋常でない破壊力を込めた巨大な拳となって鶴丸に襲い掛かる。分厚い鉄の板に岩石を衝突させたような音が響き渡り、たった一撃で堅固な鶴丸の体が爆ぜた鉄の如く、見るも無残な形に捻じ曲がってしまった。
鶴丸が地面に崩れ落ちて動かなくなった事を確認すると、石井さんは静かに顔を上げ、今度は怯えきった様子の戸々舞へ顔を向けた。
恐怖に呑まれた戸々舞の目には、石井さんが岩石を繋ぎ合せた天を衝くほどに巨大な怪物の姿に映っている。自分を喰らおうとその巨体を動かし、真っ赤な口から涎を滴らせて近付いて来る、世にも恐ろしい怪物の姿。
「こ……来ないで! やめてっ! こっちに来ないでよ!」
戸々舞の叫び声に反応して、御座敷の周囲に潜んでいた数十羽の折鶴が一斉に飛び上がり、石井さんへ弾丸のように突っ込んでいった。様々な角度から折鶴が目にも止まらぬ速さで捨て身の特攻を仕掛けていったが、石井さんは軽く振った腕の動きだけで折鶴を次々叩き落としていき、あっというまに全ての折鶴を破壊してしまった。
乱れた着物から太ももや肩が露出するのも構わず、這いつくばって御座敷から逃げ出そうとする戸々舞。しかし、恐怖に身がすくんでしまい遅々として進まない。振り返って見れば、石井さんは既に御座敷へ足を掛けている。その姿を見てもう逃げられないと諦め、戸々舞は床板の上に突っ伏してしまった。
その時、
「悪いな……。これで俺の勝ちだ……。でも、あの石っころにぶん殴られるよりは、大分ましだと思うんだよな……」
座敷の外から掛けられた声に顔を上げると、そこには木の枝や葉っぱにまみれた傷だらけの一磨が立っていた。
御座敷に上がってきた一磨は戸々舞のそばに駆け寄ると、その背中に御札を貼り付け、足を引き摺りながら大慌てで逃げ去っていった。取り残された戸々舞の背中に貼り付けられた御札が光を放ち、その体が猛烈な勢いでくるくると回転し始める。
「きゃあああああぁぁぁぁ!」
響き渡る絶叫と共に、御札から発生した強烈な風のうねりが御座敷を一瞬で覆い尽くした。床板はめくれ上がり、番傘や屏風や家具、そして石井さんまでもが風の渦に巻き込まれていく。
渦の回転と吹き荒れる風の勢いは凄まじく、結構な距離を逃げてきた一磨のいる場所でさえ、立っていられないほどの強風が吹き荒れていた。
「おいおい……。この式術も……半端ないな……」
先ほど石井さんに殴り飛ばされた一磨は、木の枝を折りながら落下する事で、全身をしこたま地面に打ち付けてしまったものの、命からがら助かっていた。
そして林の中で一人、残り一枚となった彌鈴の御札をよく観察した所「びゅん風」と書かれた御札の裏に古今の物であろう丁寧な字で、御札の使い方の詳細な説明が書いてあるのを発見、その説明書きのお陰で一磨は最後の最後に、ようやく彌鈴の御札を正しく使う事が出来たのだった。
風の渦は御座敷だけでなく周辺の土や草、あらゆる物を吸い込んで次第にその大きさを増しながら回転を続けた。その勢いは留まる事を知らず、空き地の端に生えている木までもが渦の引っ張る力によって大きく撓り、根ごと引き抜かれそうになっている。
地面に伏せていてもずるずる引き寄せられる渦の吸引力を前に、このままでは自分も呑み込まれてしまうと危険を感じ始める一磨だったが、突然強風はぴたりと止み、渦の上部から何か綺羅びやかな物がふわりと宙に舞い出した。
一磨が目を凝らして見ると、それは戸々舞が身に着けていたはずの派手な着物。
そして次の瞬間。
渦の中から全裸の戸々舞がすぽんと勢い良く弾き出され、上空へ飛んでいった。
「嘘だろ!? おおおおおおおおおおおおっ!」
負傷している事も忘れて一磨は全力で前に駆け出し、大空に消え去っていくあられもない戸々舞の姿を驚異的な集中力で脳裏に焼き付けた。
その直後、破壊された鶴丸の体から小さな折鶴が次々発生し、戸々舞の後を追うように飛び去って行った。
「あの折り鶴がいれば、裸で吹き飛ばされてもまぁ、大丈夫だよな……」
遠ざかっていく折鶴を眺めながら一磨が呟く。
次第に渦の勢いは弱まり始め、回転していた様々な物が音を立てて落下し始めた。石井さんは式術の効果が切れて消失したらしく、その姿はどこにも見あたらない。
なんとか戸々舞から荷物を守る事に成功した一磨ではあったが、勝利を確信してほっとしたとたん、全身を激痛に襲われた。特に落下の時に痛めた呼吸をするたび軋むように痛む左肩と、石井さんに殴られた顎は重いほど腫れ上がって、相当酷い事になっている。
「彌鈴の御札が無けりゃ終わってた……。とにかく休まないと……、こりゃまずい……。」
勿体ないなどと言っている場合ではなく、一磨は持っていた治癒の御札を十枚全部体に貼り付けたが、こんな安物の御札では何枚貼り付けても効果が表れるまでかなりの時間がかかる。
「痛たたたた……。とにかく宿だ……宿まで行けばなんとかなる……頑張れ、俺……。あのお宝映像を胸に宿まで突き進め!」
木乃伊のように御札だらけの姿で風呂敷包みを拾い上げた一磨は、戸々舞のあられもない姿を思い起こして自分を励まし、よろよろと山を下り始めた。
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