もののふものの
makaron
第1話 全部のはじまり
底まで青く透き通った川の中を、揺らめく水藻から出てきた二匹の魚がじゃれ合いながら楽しそうに泳いで行く。
川面は春の陽をきらきらと反射して、辺りに生い茂る草木を鮮やかな緑色に輝かせていた。
しまりの無い顔をさらに緩め、橋の袂から川を眺めていた一磨だったが、そんな穏やかな光景をせいか、仕事へ行くのが猛烈にめんどくさくなってきた。
団子でも食べながら原っぱに寝転んで、のんびり過ごす。その考えが途轍もなく魅力的に思える。
しかし下っ端の身分でそんな事をすればどうなるかは、嫌と言うほど分かっている。
今日の報酬は貰えない上、無け無しの稼ぎから違反金を徴収、また三日も四日も米と塩だけで暮らさなけばならなくなる。
馬鹿な考えを捨てて、気持ちを切り替える為に首を振って思いきり背伸びをすると、新調したばかりの着物がしゅるりと軽やかな音を立てた。
「ここは静かでいいな。町は人が多過ぎる」
大自然に囲まれ、瑞々しい空気に満ちたこの渓谷は、町から結構な距離歩いただけの事もあり、日に日に増える馬車のけたたましい音、溢れ返る買い物客や観光客の喧騒、行き交う行商人の物売りの声や御廻り番衆達の怒号などなど、一年中騒がしい御麩浜乃町の活気が嘘のようだ。
町外れの辺ぴな集合場所を煩わしく思っていた一磨だったが、自然を眺めて時間を潰すのもなかなか良い物だと感じ始めていた。
そんな寛いだ気分の中、それは起きた。
突然大地が小刻みに揺れて地鳴りのような音が轟き始めたのである。
一体何事かと橋の親柱にしがみ付き、引けた腰で周囲を見回すと、背後にそびえ立つ山、その斜面を覆っている木々が次々倒れ出している。
土砂崩れが起きたのかと思ったが、目を凝らすと、何か恐ろしく巨大な生き物が山の斜面を猛烈な勢いで駆け回っているではないか。
そしてあろう事かその生物は、一直線にこちらへ向かってきているのである。
「嘘だろ……」
周辺の揺れと轟音が激しさを増し、恐怖に身の竦んだ一麿はその場へへたり込んでしまった。
倒された木が次々と川に転がり落ちて大量の水飛沫が上がる中、騒ぎの主は一麿の目の前に出現した。
けばけばしい色合いの真っ赤な牛、しかし牛と呼ぶには余りにも巨大で、厳めしい筋肉に覆われた生き物が、狂ったように頭部を幾度も天に向かって突き上げている。
頭に生えた太い鉤状の角は周辺のあらゆる物を弾き飛ばし、岩は丸ごと、木は根っこから引き抜かれて大回転しつつ、当たればまず命は無いであろう猛烈な速度で目の前を飛び交い始めた。
「岩ぁああ! 木ぃいい! ひぃいいっ! ひぃいいっ!」
身をひたすら小さくして絶叫を続ける一磨。
恐怖におののく中、ふと何者かが巨牛の周りを軽快に跳び回っている事に気付いた。
その相手に攻撃が当たらないので巨牛は怒り、暴れ回っているらしい。
それは一人の少女だった。
少女が楽しそうにキャアキャア騒ぎながら、素晴らしい身のこなしで巨牛の角を躱し続けているのである。
そして巨牛が体勢を崩した隙を突き、大きく宙返りして背後に回り込むと、そのまま走り去っていった。負けじと巨牛も周囲の岩や木を弾き飛ばして強引に方向転換、地響きを立ててその後を追いかけていく。
騒ぎは次第に遠ざかっていき、完全にその気配は消え去った。
後に残ったのは無残に荒れ果てた山の斜面と静けさだけ。
「た、助かった……。一体……、何だったんだ……?」
動揺の余り立つ事ができなかったので、一磨は長くゆっくりと息を吐いた。心を落ち着ける為に無理やりくつろいだ雰囲気を装ってみる。
「ふぅ……。いやいやいやいやいやいや。全くもって今日はいい天気ですなぁ……」
しかし、平穏はその一瞬だけだった。
「隙ありぃぃぃいい!」
遥か遠くで響いた叫び声にぎょっとして振り返ると、大砲の弾のごとく丸まった先ほどの巨牛が、とんでもない速度で木やら岩やら地面やら片っ端から弾き飛ばし、一直線にこちらへ向かって飛んで来ている。
大きな事故に会った瞬間、人は時がゆっくり見えると言うがまさに今、一磨はその奇跡を体感する事となった。
右の頬を皮一枚掠めて過ぎ去っていくのが、巨牛の背中だと分かった。呼吸すらできないほどの風圧の中、今度は骨の張り出した腰の部分が目の前を通り過ぎて行く。当たらずに済んだとほっとしたのもつかの間、荒縄を幾重にも束ねたような極太の尻尾が接近、その先には燃えるような赤い大量の剛毛がもっさりと生えていて、それがしなりながら接近して来て……。
「げぺぃあぁぁあ!」
巨牛のしっぽに引っ叩かれ、一磨は絶叫と共に弾け飛んだ。
飛び石のように回転しながら川面を三回ほど跳ねた後、反対側の岸に激突、その反動で体はくるくると空高く浮上し、川へ勢いよく落下して盛大な水柱が立ち上がった。
崩れた水柱が水面を激しく叩き、その騒々しい音が拡散してしまうと、辺りには何事も無かったかのように再び静寂が訪れた。
穏やかな春の陽射しが降り注ぐ中、鳥は鳴き、川は静かに流れ続ける。
そこへがさがさと乱暴に草を掻き分けて、川岸に走り寄って来る人影があった。
「あっちゃあ……。これはまずかったなぁ……。人がいるなんて思わないもんな……」
川面を眺めて申し訳なさそうに呟いたのは、先程巨牛の周りを跳び回っていた少女。
少女はしばらくの間茫然と立ち尽くしていたが、水面にぷかりと一磨の体が浮かび上がってきたのを発見すると、大急ぎで川岸を移動してその近くに寄り、恭しく膝を付いた。
一磨の体は川面の動きに合わせて上下に揺れながら、岸で屈み込む少女の方へと漂ってきている。
「えっと、ええっと……。私が大きい牛を突き飛ばしたせいで、こんな事になっちゃって何かすいませんでした。呪うとか、幽霊になるとか、そういうじめじめした感じの仕返しは勘弁して下さい。あとで捨てようと思ってたこれしかないけど、お供え物です」
少女は懐から、乾燥してカピカピになったみかんの皮を取り出して川岸に供えた。きし麺のように長く剥いた紐状のみかんの皮に向かい、少女は厳かに手を合わせ目を閉じた。
「ふぅ、これで大丈夫だな……っと」
その瞬間、事切れたとばかり思っていた一磨が突然水面から顔を上げた。
「全く大丈夫じゃねぇ!」
「ぎゃあぁぁぁぁああ!」
驚いた少女は勢い良く後方へ転がり、岩に激しく頭を打ち付けてしまった。
一磨は必死になって川から上がると四つん這いになり、飲み込んだ水をしこたま吐き出した。ぜえぜえと荒い息を繰り返す事でようやく落ち着いてきたので、少女の元へ歩み寄り、一気に捲し立てる。
「馬鹿野郎! あの牛、お前がこっちに飛ばしてきたのか!? 俺はそれに当たって猛烈に回転しちまっただろうが! 川の上を飛び跳ねて、水の中にドボンだよ! 下手すりゃあの世まで飛び跳ねちまってたぞ! この川どころか、三途の川まで越えてな! そんであいつはどこだ? あの馬鹿でかい牛はどこに行ったんだ!?」
またあんな大回転させられた日には絶対死ぬ。そう思った一磨は首をもげるほど激しく振って、周囲の山や林を全力で見回した。
「大きい牛はね、あっちにびゅうぅうんって飛んで行っちゃった」
少女が指差した方向には巨牛がすっ飛んでいった跡らしき、山肌を半円状に抉り取った一筋の太い溝が遥か先まで続いていた。あんな物に弾き飛ばされたのかと、ぞっとした一磨は腹の底から絞り出すような声で言った。
「それは良かった。本当にな……。そこでお前に質問だ。何であんな化け物を俺に向かって飛ばして来たんだ? 俺に何か恨みでもあったのか? ちょっとした茶目っ気か? 俺の一生はここで終わる所だったんだ、納得がいくように説明してくれ。全力でな」
怒りで震える一磨の事など全く気にせず、少女がのほほんと答える。
「わざとやったんじゃないよ。山の中で食べ物探してたらね、あの牛が洞窟の中から私の事覗き見しててね、フンフンフンフン鼻息がうるさいからとりあえず引っ叩いたの。そしたらものすごく怒って追っかけて来ちゃって。あんな体大きいのにあの牛、心はすごく狭いんだよ。びっくりだよね!」
「びっくりなのは俺の方だ、馬鹿野郎! あんなごつい生き物はこの山の主なんじゃねえのか? そんな得体の知れない奴をとりあえず引っ叩くなよ! 山奥にすっ飛んで行ったから良いものの、あれが町に行ってたら大変な事になってたぞ! 大騒ぎどころじゃないだろ!」
「ごめんなさい……」
様子が一変、急に少女がしょんぼりした顔になって深々と頭を下げたので、人の良い一磨はあんな目にあったにもかかわらず、少し言い過ぎたかなと、逆に悪い事をしたような気分になってしまった。
「あれ……。そんなに落ち込んじゃうのか……? ええっと……。分かればいいんだ、分かればな……。今後軽々しく他人に向かって特大の哺乳類を飛ばすのはやめろよ、当たった人間は確実に死ぬからな。俺の怪我なら大した事無いから、まぁ、気にすんな」
慌てて取り繕った一磨に向かい、少女は顔を上げてにっこり笑うと、
「うん。全然気にしてないから大丈夫。話が長くなりそうだったからね、謝っといたの」
そう言い放って、何事も無かったかのように立ち去った。
「はぁっ……!?」
壮絶な不意打ちをくらった一磨は、はっと我に返るやいなや、少女の脳天にげんこつを叩き込んでやろうと力強い一歩を踏み出した。
しかし鼻息荒く数歩進んだ所で、これ以上あの生意気娘に関わってもまた腹が立つだけだと少し冷静になり、放っておくという大人の対応を取る事にした。
気を取り直して集合場所の橋へ戻ると、周囲は無惨に荒れ果てていたものの、橋自体は奇跡的に手摺が一部吹き飛んだだけで無事だった。
しかし厄介な事に、橋の袂には鼻歌混じりで空を見上げる先程の少女が立っている。
慌てて距離を取り、物陰からしばらくの間観察していたが、一向にどこかへ去る気配が無い。
また何かしでかすのではないかと気になって仕方なく、一磨はわざとらしい咳払いを何回かした後、渋々少女に声を掛けた。
「よぉ……。お前はそこで何してんだ? 町には戻らないのか?」
少女は首だけ捻って一磨の方を向くと、
「私ね、この橋で人を待ってるんだ」
何やら嬉しそうな様子で、橋の親柱に刻み込まれた「御雑煮橋」の文字を指差した。
「そうなのか……。あのよ……。偶然……。俺もこの橋で人を待っているんだが……」
何気無く一磨が答えたとたん、その言葉で少女の顔は急にぱっと明るく輝き、一磨の近くに走り寄ってきた。
「じゃあ、じゃあ、じゃあ、あなたが万真一磨? もののふの人なの?」
鼻がくっ付くほどに少女は大接近して、真っ直ぐこちらの顔を覗き込んでくる。慌てた一磨はその小さな体を必死で押し離した。
「ちょっと待てって! 近いよ! 少し離れろよ! 俺が万真一磨だけどよ……まさか、お前が……!?」
「今日仕事を一緒にする、春乃女宰だよ。私の事は宰って呼んでいいからさ」
「お前が今日の仕事の相棒!? 嘘だろ!? お前、もののふなのか? そんななりで?」
「うん。よろしくね!」
宰がぴょこんと小さく飛び跳ねて頭を下げると、柔らかな髪が空気を纏ってふわりと丸く膨らんだ。
「私、今日からもののふになったんだよ!」
腰に手を当てて胸を思いきり反らし、やたら得意気な顔をする宰。その姿を一磨は口をぽかんと開けて、まじまじと見つめた。
小さな背丈に、肩で切り揃えられた髪とぱっちりした目の可愛らしい顔立ち、薄紅色をした膝上丈の着物には桜吹雪が鮮やかに描かれていて、漆塗りの下駄と共に相当な高級品のようだった。お世辞にも賢そうな顔立ちではないが、口さえ開かなければどこか名家の娘と言われても納得できる育ちの良い雰囲気があり、もののふらしい所と言えば腰に刀を下げている事ぐらい。
こんな少女が? と訝しむ一磨だったが、特級もののふの称号を持った子供も都に行けばいると以前に聞いた事があり、年齢に関係なく腕さえあればいくらでも活躍できるのがもののふの世界。逆に自分こそ、いい年をして未だ下っ端もののふをやっている事実に気付いて考え直した。
「まぁ……。今日からって言っても、雑用をちゃんとこなして来たんだから大丈夫だろ。俺も似たようなもんだからな」
「ざつよう……? ざつようってなぁに? うん? 誰かもそんな事言ってたな……。あっ! そういえばね、私の持ってた手紙を見てもののふ処の人が、免状があるなら雑用はしなくていいって言ってた。私、今朝この町に出てきたばっかりで、もののふの事何も知らないって言ったんだけど、今日仕事を一緒にやる万真一磨って人はお人好しで、何でも教えてくれるから、その人に一から聞きなさいだって。ねぇねぇ、早速聞いていい? お人好しって、どういう意味?」
それを聞いた一磨はどっと全身から疲れが吹き出し、膝から崩れ落ちた。
免状さえあれば、もののふの肩書きを手に入れる事はできる。免状を持ってはいるけれども、常識はまるで持っていないであろうこの少女に不安を感じたもののふ処の連中が、一磨に新人教育を丸投げしてきた事は明白だった。
巨大な牛に突き飛ばされて死に掛けたと思ったら、今度はもののふが何かも知らない素人かつ、ちょっと、いや、かなり阿呆そうな少女が相棒としてやって来た。この数十分間の出来事で一磨の心はみごとにへし折れ「依頼をさぼって家に帰り、飯食って風呂入って寝る」という駄目な発想がひょっこり顔を出す。
しかしそんな事をしたら確実にまた雑用へ逆戻り、文句を行った所で誰も助けてくれない事は長い下積み生活で良く分かっている。こちらの苦労などまるで理解してくれないであろう阿呆丸出しなこの少女も、本日の大切な相棒である事には違いない。
頭の中で様々な考えがぐるぐる回り、一磨は地面に突っ伏して「ううぅんううぅん」と呻いた。
そして亀のように丸くなって、数分間動かなくなった後、
「よいしょぉぉおおおい!」
突拍子も無い大声と共に勢い良く立ち上がり、濡れた髪をびしっと後ろに撫で付けた。
「泣き言ったって仕方ねえよ! 頑張るんだよ、俺!」
自分に言い聞かせるように叫び、半ばやけくそになって立ち直った。
「よし! 耳かっぽじって良く聞け。俺がもののふについてとことんお前に教えてやる!」
「やったぁ! よろしくお願いします!」
宰はぴんと右手を真っ直ぐ伸ばして元気に返事をした後、姿勢を正して頭をぺこりと下げた。
「いいか、『もののふ』ってのは、怪異や物の怪を退治したり、貴重品や要人の警護をしたり、金を貰って力と技の必要な依頼を解決する専門家だ。誰でも、もののふ処に自分の名前を登録すれば仕事は貰えるんだが、最初は雑用つって門番やら荷物運びみたいな簡単な仕事をただ働き同然の報酬でやらされる。ごく稀に回ってくるまともな仕事を何度かこなして、もののふ処の奴らに認めてもらえれば、雑用は卒業、晴れてもののふになれるんだ」
「じゃあさ、一磨も雑用やったの?」
「当たり前だろ、俺なんて三年はくだらねえ事させられてたぞ。先月、ようやくもののふになれたばっかりなんだ。それはそれは、涙なしには語れない辛い日々だったぞ」
「ええっ!? 三年も雑用するの!? もののふになるのって大変なんだ……。私、いきなりもののふになっちゃったけど、ちょっとずるい感じなんだね」
宰は声を上げて驚き、ここに来て初めて一磨の顔を尊敬の眼差しで見つめた。
「ま、まぁ、雑用の期間は人それぞれだけどな……」
たいがいの新人は、挫折しなければ一年も掛からずに雑用を終了してもののふの仕事を貰うようになるが、剣術も式術もまるで駄目な一磨はいつまでたっても失敗ばかり。三年も雑用を続けていたので、もののふ処においてちょっとした有名人になっており、雑用卒業の記念すべき日には、顔見知りのもののふ達は勿論の事、普段は問題児と称される荒くれのもののふ達ですら、その傷だらけの強面に笑みを浮かべ、一磨に拍手と声援を送った逸話がある。
「お前のさっき言ってた免状って、名のある道場主とか神主のお墨付きの人間が貰えるってやつだろ? 話には聞いた事あるけどよ、そんな奴はそうそう居るもんじゃない。実際に免状見せられて、もののふ処の奴ら慌てたんじゃないか? 半ば役所みてえな所だから、珍しい事が起きるとすぐてんやわんやだ。それでよ、お前は本当に免状貰うほどの凄腕なのか?」
「すごうで? ……ってなぁに?」
きょとんとしている宰の腕も脚も武器を振り回せるようなたくましい物ではなく、肌はつるんとしてふっくら、どこからどう見ても只の健康な娘の体だった。どえらい式術を使いこなす雰囲気も無いので、大商人か役人が金に物を言わせて我が娘の為に免状を手に入れたのだろうと判断した時、一磨は驚きの声を上げた。
「……ん? その刀は何だ? お前……、それ竹輪じゃねぇか!?」
宰の腰に下げている刀、その薄茶色の鞘は何やらでこぼこしており、こんがりとした焼き目まで付いている。どこからどう見てもおでんなどに入っている、練り物の竹輪にしか見えなかった。
「何やってんだお前は……。そんな馬鹿でかい練り物腰にぶら下げて……。ひょっとしてそれ弁当か……? 腹が減ったら齧るのか?」
「違うよ。これ食べる竹輪じゃなくて、竹輪みたいな刀なの。でも私はこの刀を竹輪って呼んでるから、竹輪じゃないって言ってもこれ竹輪なんだよ。かわいいでしょ、竹輪!」
「竹輪、竹輪ってうるせぇな! でもなんだかお前に良く似合ってるよな……。触ってみてもいいか?」
一磨が竹輪に触れてみると、確かに練り物ではなく、ひんやりとした硬い素材で出来ていた。刀が持つ武器としての威圧感はまるで無く、温泉旅館などで売っている、受け狙いのお土産品にしか見えない。
「こんなふざけた刀で斬られた日には、死んでも死にきれないな……。ちょっと抜刀してみてくれるか?」
「抜刀……って? ああ、鞘から抜く事? 竹輪はね、このままで刀なんだよ」
鞘らしき竹輪の部分を宰が引っ張っても刀身の出る気配は無く、どうやら竹輪を模した棒に鍔と柄が取り付けられているだけらしい。
「お前……それ、竹輪みてえな棍棒を腰にぶら下げて、刀と言い張ってんのか……。竹輪で相手をぶん殴って倒すってのか……。自由過ぎるにもほどがあるだろ……」
巨大な竹輪を腰に下げている、免状を持った少女。謎だらけの小さな相棒を前に、一磨は思わず唸ってしまった。
「じゃあさ、今度は一磨の事を教えて」
いろいろと驚く事があり過ぎて名乗る事すら忘れていた一磨は、さすがに失礼な事をしたと姿勢を正した。
「すまん。ちゃんと名乗ってなくて悪かったな。俺の名は万真一磨、三年前にこの世界へ入った。偉そうな事ばかり言っちまったが、俺だって先月雑用が終わったばかりの下っ端もののふだ。でも今日からもののふのおまえよりは、知ってる事はあるからよ、まあ、とりあえずよろしくって事だ」
そう言って一磨が右手を差し出すと、
「うん。お友達になってね」
宰もにっこり笑いながら右手を出し、二人は力強く握手を交わした。
「お前、何だか良く分かんない奴だけどよ。仕事が終わったら、その報酬で俺が飯おごってやるよ。免状があるとは言え、今日がもののふ初仕事だろ。門出の祝いをしてやる」
「えっ!? お祝いしてくれるの? やったぁ! 一磨っていい人なんだね。見た目はなんだか弱そうで頼り無いからさ、この人本当に大丈夫なのかなって思ってたんだけど、それ言わなくてよかったよ! 言ったら失礼だもんね!」
「あ、うん……、失礼……だよな……。今お前、言っちゃったからな……」
一磨の呟きなどお構いなく、大喜びの宰は子犬のように草むらをぐるぐる駆け回った。
「ほら! じゃあ、さっそく仕事に行くぞ!」
濡れた髪と服が体にべったり張り付いて気持ち悪く、体の節々が痛む一磨だったが、少しでも先輩らしい所を見せようと背筋を伸ばして颯爽と歩きだす。
「了解!」
その後ろを宰が追いかけ、晴天にも関わらず全身びしょ濡れの男と、腰に巨大な竹輪をぶら下げた少女という、怪しげなもののふの二人組がここに誕生した。
稜線が背後に遠ざかって、町の賑やかな気配が漂い始めた頃、一磨が宰に向かって話しかけた。
「そういやお前、付喪神退治くらいやった事あるよな? まさか、全く何もできませんって事は無いよな?」
「つくもがみ? 何それ?」
「ちょっと待てよ……、なんで付喪神すら知らねぇんだよ。地域で呼び名が違うのか? 見た事ないってのは分かるが、普通に暮らしてりゃ付喪神の話くらい耳にするだろ。それにもののふ処で貰った依頼書の内容に、付喪神退治って書いてあったはずだぞ」
「その紙はね、読めって言われたけどまだ読んでないよ。二、三日経ったら読もうと思ってる」
「遅えよ! 浅漬けじゃねえんだから、軽く寝かすなよ! 今度から依頼書は貰ったらすぐに読めよ、仕事なんだからな!」
「分かった。読もうっていう気持ちだけは持つよ。気持ちだけね。そういう事でいいね」
宰の態度が若干気に障ったが、一磨は無視して説明を始めた。
「付喪神ってのはな、物や動物に常世の存在が取り憑いて人間に悪さをする事だ。物の怪なんて言う場合もあるな」
「じゃあ、今日は物の怪退治するの!? 幽霊とか!? あの人達うらめしやって本当に言ってくるの? うらめしやって恨めしいって事でしょ? なんで!? 幽霊ってふらふらしてるだけの生活だから、ある意味人生としては成功してるのに!?」
「ぐいぐい来るなお前は……。そんな事俺が知るかよ……。幽霊ってのは物の怪じゃあないぞ。それにな、俺達みたいな下っ端の退治する付喪神は、ちょっと凶暴な動物だったり、夜中に道具が動いたり光るぐらいのしょぼい奴ばっかりだ。大抵が御札でも貼りつけりゃすぐに消滅しちまう。なのに今日の依頼主は太っ腹だからな、飼い犬に憑いた付喪神を退治するだけで一人一万円もくれるんだぞ。今からそいつの屋敷に行くからな。とんでもない豪邸に住んでるんだと」
「豪邸って、大きな家の事だよね? それどのくらい普通の家より大きいの? 象ぐらい大きい? 知ってる? 象のふんって私の頭よりもおっきいんだって! なにがすごいって、象の肛門の大きさだよね!」
「ちょっと町に着くまで……、静かにして貰ってもいいかな……?」
二人が下らない話をしているうちに道は煉瓦で綺麗に舗装され、昔ながらの由緒正しき立派な数寄屋造の御屋敷があったかと思えば、その向かいには最新の建築技術でできた石造りの洒落た巨大建物、美しい花々が咲き乱れる豪華な舶来風庭園や、純大和風の典雅な庭園などがあちこちで見受けられるようになり、町の景観は粋で華やかな物に変わり始めた。
高級感漂う着物や派手な洋装に身を包んだ人々の姿も増え、宰は夢中になって道ゆく人や周囲の景色を眺め続けた。
そして様々な店が隙間なく並んで大勢の人々でごった返す、町の目抜き通りに出た瞬間、宰は感極まってぴょんぴょん飛び跳ねながら大きな声を上げた。
「うわぁぁ……、こんなに大勢の人がいるの初めて見たよ! いろんな店があってさ、ほんと賑やかだよねこの町! ずっと見てても飽きないよ!」
「手に入らない物なんて無いだろうからな。店の数だけなら都にも負けないんじゃないか。こんな人混みで迷子になったら厄介だからな、絶対はぐれるなよ」
「一磨! ちょっとお店入ってみてもいい? ほら、いっぱい面白い物が売ってるよ!」
通りに立ち並ぶ店はそれぞれ個性的で、金の刺繍が隅々まで施された豪華絢爛な着物や目玉が飛び出すほどに値の張る名刀、色鮮やかな漆器や陶磁器、最新型の七輪や氷冷器など、眺めているだけでも楽しくなる魅力的な品物が取り揃えられていた。
「そういや、お前は今日この町に来たんだったな、どこから来たんだ?」
店先に並ぶ品々を眺めながらどんどん先へ進んでいく宰の後を追い、一磨はすれ違う人にぶつからないよう、体を捻りながら話しかける。
「ここからずうっとずうっと西にある山の中だよ、私とおばばの二人で山に住んでたの。たまにおじじが遊びに来てくれたけど」
「二人暮らしか……。もののふになる為に、はるばる町へやってきたって訳か」
「春乃芽家の女は代々この竹輪を受け継ぐんだって」
宰は立ち止まって、腰の竹輪を指差した。
「昨日私の誕生日だったんだけど、おばばに新しい修行を始めろって言われたの。町にあるもののふ処にいって、とにかく仕事を沢山こなせだってさ。一人前のもののふになって、竹輪を使いこなせるようになったら、お母さんに会えるかもしれないんだって」
「修行かよ……。何やら厳しい家みたいだがよ、お袋には早い所会えるといいな。もののふの仕事は大変だけど、俺みたいなもんでも務まるくらいだから、きっと大丈夫だ。一人前になれるように俺も応援するから頑張れよ」
「ねえ、ねえ。あれは何?」
そう言って宰が指差すと、そこには何かの店を始点にして整然と二十人ほど並ぶ、長い行列ができていた。
「ああ、あれは真ん丸屋だ。まる焼っていう焼菓子を売ってるんだけど、焼きたては相当美味いんだと。それを買う為にみんな並んでいるんだ」
焦げた砂糖の香ばしく甘い香りが漂ってきたとたん、宰は突然小刻みに震え「あうううあぁぁう」と妙な声を出した。
「私、お金を持っておりませんです、ちょっとあれを買って貰ってよろしいです?」
敬語のつもりらしい妙な言葉遣いと共に、宰が一磨の着物にすがり付いて小さく丸まり、ぐっと全体重をかける。
「何でだよ!? 今から仕事なんだぞ、終わってからでいいだろ。それよりお前、金持ってないって、町に無一文で出て来たのか? 無茶苦茶過ぎるだろ!」
「お願いします!!」
「駄目だ! どうして俺がお前に菓子を買ってやんなきゃならないんだ!?」
「お願いします!!」
「たかが菓子を買うのに何分も行列に並ばなきゃいけないんだぞ!」
「お願いします!!」
「ちょっ、やめろ! 大きな声を出すな! 着物が破れるから、引っ張るんじゃない!」
一磨は慌てて宰を起こそうとしたが、小さく丸まったその体は、岩のように動かない。両手を使い、顔が真っ赤になるほどの全力で引っ張ってもまるで駄目。
丸まったまま道のど真ん中で「お願いします」と連呼し続ける宰のせいで、二人の周囲には野次馬達が集まり始めてしまった。困った一磨が仕方なく叫ぶ。
「分かったよ! その代わり、食ったらすぐ行くからな!」
その言葉を聞くやいなや、宰は目にも止まらぬ速さで行列の最後尾に滑り込むと、
「ほら、早く早く! 売り切れちゃう! ぼうっとしてたら駄目っ! ぐずっ!!」
一磨に暴言を吐きつつ、手をぶんぶん振ってこちらへ来いと指示を出した。
「こいつ……」
呆れて何も言えなくなった一磨と、期待に胸膨らませた宰が列に並ぶ事数十分、綺麗な和紙袋に入ってほくほくと湯気の上がる、いかにも美味しそうなまる焼きを三粒、愛想の良い売り子から二人はそれぞれ受け取った。
「凄いな……。ほんとに真ん丸の形してるんだな……。おっ。なかなかうめえもんだ」
早速まる焼きに齧り付くと、カリッと香ばしい皮の下から甘く煮た栗が白餡と共に現れた。その絶妙な美味しさに感心する一磨だったが、宰の方はなぜか食べかけのまる焼を手に持ったまま硬直している。不思議に思った一磨が宰の顔を覗き込むと、その頬を伝って涙がすうっと流れ落ちるのが見えた。
「お前っ! 何で泣いてるんだ!? 一体どうしたんだよ!?」
「美味しい……。ありがとう……。甘い……。ものすごく……、甘いです……」
「ちょっと待てって! 泣く事は無いんじゃないか!? 菓子ぐらい食べた事あるだろ!」
余りの美味しさに空を見上げたまま茫然となっていた宰が、一磨に肩を揺すられて少しだけ我に返る。
「お菓子? うん……私、お菓子食べた事あるよ……」
「菓子食った事あるのに、そこまで感動するか?」
「砂糖きびとかならね……」
「原料じゃねえか!」
思わず大声を出して驚く一磨だったが、道のど真ん中で宰をいつまでも泣かせている訳にはいかない。着物の袖を使って涙を拭いてやり、周囲の目を気にしながら歩き出そうとした時、
「いましたぜ! あの娘です!」
野太い物騒な声が後方から響いた。
振り返るとそこには、縞馬柄、牛柄、豹柄とやたら派手な着物に身を包んだ、見るからに凶悪そうな三人の男が立っていた。
声を上げた豹柄の男は腕を怪我しているらしく、白い布で右腕を吊っている。背丈が他の男達より頭二つ高くて横幅は倍、牛柄の着物を着た力士の様な体型の大男が親分格なのか、体型に似合わずてきぱきとした動作で二人に指示を出していた。
あんな輩に追われる奴は気の毒だな、などと余計な心配をしつつ一磨は男達の様子を何となしに見ていたが、男達が人波をぐいぐい掻き分け、自分の方へ真っ直ぐ向かって来ている事に気付いた。その血走った目を見ているうちに何やら嫌な予感がしてきたので、宰を揺すって大声で尋ねる。
「おいっ! しっかりしろ! お前、あの男達に見覚えあるか? 頼む、無いと言ってくれ! 早く、あっちを見て答えろ! おぃっ!」
宰がぼんやりとした顔のまま、迫り来る男達の姿を見て呟く。
「あっ……。あの豹柄の着物の人見た事ある……。朝、何だかすごく怒って私に纏わり付いてきたの。良く分かんないから、とりあえず竹輪で引っ叩いたけどね……」
「またかよ馬鹿野郎! お前は引っ叩く以外に、意思の疎通方法を知らねぇのかッ!」
男達が血眼になって探していたのは宰だった。一磨は宰の腕を掴み、男達に背を向け、一目散に逃げ出した。
「逃げやがったぞ! 追え! 絶対に逃がすんじゃねぇぞ!」
怒声を背後に聞きながら通りに溢れ返る人々の合間を縫いに縫い、薄暗い路地を必死になって逃げていく。
怪しげな店が軒を連ねる細い裏通りを突き進み、露天商が並べている商品なのかゴミなのか分からぬ品々の間をすり抜け、裏道から裏道へ全力で走り続けた。
どこをどう走ったのか分からない程逃げ回り、辿り着いた先は人気の無い波止場近くの倉庫街。巨漢が通れないであろう細い道をひたすら選び続けたおかげで、男達の追って来る気配は無い。
「はぁ……。まったくよ……。仕事の前にこんな厄介事に巻き込まれてどうすんだよ」
潮風が火照った体に心地良く、壁に寄り掛かって一磨はほっと一息ついた。宰は何事も無かったかのように、懐から丸焼きを取り出してちびちび齧っている。
波止場から依頼主の屋敷へ安全に向かう事のできる道順を思索しながら、何気なく横を向いた瞬間、一磨は心臓が止まるほど驚いた。
倉庫の陰から、奇抜な柄の着物に身を包んだ先ほどの男達がぬうっとその姿を現したのである。
「この町で俺達から逃げるってのは、ちょっと無理があるわな。追い駆けっこはやり慣れてんだ。悪いんだがな兄さん。うちの者が恥かかされたんだ。面子が立たねぇからよ、その娘をこっちに渡して貰えるか? それとも兄さんが代わりに責任取ってくれるのかい?」
牛柄の巨漢が凄みながら一磨に言い、身構えた豹柄と縞馬柄の男がにじり寄って来る。
宰の腕を引っ張って後ずさりしつつ一磨はちらりと背後を見た。次の横道まではのっぺりとした倉庫の壁が続くばかりで障害物が全く無い、まる焼きを食べている宰と一緒ではあっという間に追いつかれてしまう。
周囲に人の姿は無く、緊迫した雰囲気の中を潮風が吹き抜けていく。
「仕方ねぇ……。こいつを使うしかないみたいだな……」
一磨はそう呟いて、筆書きの文字がびっしり書き込まれた長方形の紙片を懐から静かに取り出した。
「おおっ!? 何それ? 一磨、それ何出したの!?」
危機感全く無しでお気楽に騒ぐ宰の事は無視し、一磨はぴんと立てた指の間に紙片を挟み込んで高く翳すと、その紙片を男達へ向けて力強く投げ放った。
手を離れた紙片が矢のように鋭く宙を飛び、男達の目の前でくるりと回転するや、大量の炎を噴き出して盛大に燃え上がる。
「凄い! 紙切れがいきなり燃えたよ! 何あれ!」
不思議な現象を目の当たりにして大興奮する宰に、一磨は男達の様子を窺いながら口早に答えた。
「劫火の御札だ! 無茶苦茶高い御札だけど、背に腹は代えられないからな!」
御札から空中へ広がった炎は燃え上がる面積を増し、炎の壁となって男達に襲いかかった。前に出ていた二人の男は着物の端に火が燃え移ってしまい、悲痛な叫び声と共に道の端へ転がると、必死になって着物の火を消し始めた。
「よし! 今のうちに逃げるぞ!」
宰を引っ張って走り出す一磨だったが、その背中に向かって巨漢が野太い声を投げ掛ける。
「ちょっと待ちなよ、兄さん達! いい物見せてやるからよォ!」
「待てって言われて待つ馬鹿がどこに居るんだよ!」
巨漢の声を鼻で笑う一磨だったが、その瞬間、掴んでいた宰の腕が急に重くなった。
「いい物!? いい物ってなに見せてくれんの!?」
振り返って見ると宰は立ち止まっており、目をきらきら輝かせて巨漢に熱い視線を送っている。
「すぐ近くに馬鹿が居るの忘れてたッ!」
一磨は全力で宰の腕を引っ張ったが、ぴくりともその体は動かない。
「来いっ、どう考えても逃げる場面だろ! 頼むから、俺の言う事を聞いてくれ!」
一磨が宰へ懇願している間に、巨漢は燃え盛る炎に臆する事無く突き進むと、分厚い手を炎の中へおもむろに突っ込んだ。腕の毛がちりちりと燃え上がっても顔色一つ変えずに炎の中をまさぐり、炎の中心部に浮かんでいた劫火の御札をむんずと握り締める。
「そいやぁぁぁあああ!」
威勢のいい掛け声を辺りに響かせながら、巨漢は燃え盛る炎の中から豪快に御札を引き抜き、なんと周囲の炎ごと真っ二つに千切ってしまった。噴き出していた炎が悲鳴を上げる如く一瞬だけ大きく燃え上がって弾け飛び、散り散りになって消滅していく。
「嘘だろ……。素手で式術の炎を掻き消しやがった……。そんな事が可能なのか……?」
何かあった時の為にと、報酬をこつこつ貯めて購入した非常に高価な劫火の御札。取って置きの御札を破り捨てられてしまい、一磨は驚きの余り棒立ちになった。
「見ろよ! あいつの顔、びっくりして声も出ねえみてぇだぜ!」
「純さんにはなぁ、そんな式術効かねえんだよ! 覚悟しろよ!」
下っ端の男達が嘲り笑う中、純さんと呼ばれた巨漢が得意顔で焦げた腕毛をぱんぱんと叩き落とす。
「お前ぇもついてねぇな。俺は極度の暑がりだからよ、体に暑さを打ち消す式術を練り込んでるのよ。そのお陰で夏は快適だし、どんなに熱い料理も平気で食える。だから式術の熱ならまず俺には効かねぇ。お前の使った御札もそこそこの品だったろうが悪いな、お前はこれで用無しだ。ちょっとそこをどいてくれよ」
勝ち誇った巨漢は一磨に悠然と歩み寄って、払うように右手を軽く当てた。
その瞬間、一磨は小動物のような悲鳴とともにふっ飛び、倉庫の壁へ思いきり叩き付けられてしまった。地面に落下して砂まみれになりながらも痛みを堪えて、宰に大声で叫ぶ。
「宰! 今すぐ逃げろ! そいつとんでもない馬鹿力だぞ!」
しかし宰はまだ純さんの言っていた「いい物」を待っているらしく、先程と同じ期待の眼差しで純さんの姿を見つめたまま、相変わらずまる焼きをちびちびと齧り続けている。
「嬢ちゃん。どうやら俺の子分が世話になったみたいだな、その礼を言いに来たぜ」
不敵な笑みを浮かべた巨漢が宰の肩に分厚い手を掛けると、その衝撃で宰の持っていたまる焼がぽろりと地面に落下した。前に踏み出した巨漢の足の下へころころ転がり込んでいく。
「あっ! まる焼が踏まれちゃう!」
叫び声を上げた宰は目にも止まらぬ速さで竹輪を腰から外すと、滑るような一瞬の動きで巨漢の左くるぶしを払い上げた。丸太のように太い脚が軽々と高く持ち上がって巨体がくるりと半回転、吊し上げられたように全身が宙へ浮かぶ。
間髪を入れず、浮かび上がった巨漢の丸いお腹を宰が竹輪で軽く突くと、打ち上げ花火が間近で爆発した如き、凄まじい重低音が辺りに響き渡って空気は激しく振動、倉庫の壁がびりびりと目に見えて分かるほどに揺れ動いた。
宰に突かれた巨漢の巨体は猛烈な速度でかっ飛んでいき、そのまま青空に浮かぶ小さな点となるや、瞬き一つする間に消え去ってしまった。
「…………」
信じられぬ光景を目の当たりにした一磨と男達は、驚きの余り無言で固まったまま、その場を一歩も動く事ができなかった。宰は何事も無かったように落ちたまる焼を拾い上げると、くっ付いた砂を丁寧に払ってそっと口の中へ入れた。
「うん……、やっぱり美味しい……」
ゆっくりまる焼を噛みしめて、味わいながらしみじみ言う。
「じゅ……純さんが……、飛ばされちまったぞ……。ありえねぇ……」
「あの娘……な、何者なんだ! に……逃げろ!」
正気に戻った男達は手足をばたつかせながら起き上がると、互いの頭をぶつけつつ大慌てで去っていった。
男達と同様、未だ驚きがおさまらない一磨は顔に付いた砂を払う事も忘れ、恐る恐る宰に近寄る。
「お前……そんななりで、とんでもなく強いんだな。あのデカブツが一撃じゃねえか……」
「デカブツ? ああ、さっきのおっきな人の事? あの人いいもの見せる前に飛んでっちゃったね、いいものって何だったんだろうね?」
「いや……、素手で燃える御札を千切っただろ……、それに飛んでったというか、お前がぶっ飛ばしたんじゃねえか……」
「なんだぁ、そんなの全然いいものじゃないよ。待ってて損したな。それよりさ、さっきのいきなり燃えた紙、あれはなぁに?」
まる焼を食べ終わった宰は、まる焼きの入っていた和紙袋を丁寧に折り畳むと大切そうに懐へしまって興味深げに一磨へ尋ねた。
「御札の事を言ってるのか。じゃあよ、説明するからちょっとだけどこかで休ませてくれ。仕事前だってのに、またぼろぼろになっちまった。まだ仕事まで時間はあるからよ」
一騒動あったものの、無事危機を乗り越える事のできた二人はとりあえず倉庫街を離れる事にした。そして町の中心部へ戻り、団子屋や茶屋などが何軒か集まって休憩所となっている広場へとやってきた。
様々な形状をした椅子や机が広場のあちらこちらに置かれていたので、空いた長椅子を見つけて腰を掛けると、すぐ横を子供たちが楽しそうに騒ぎながら走り抜けていく。
「お前は、凄い剣の腕を持っているんだな……。免状持ってるのも納得だ。いや……、凄いの一言で片づけていいのか迷うくらいの凄さだけどな……」
まだ痛む背中をさすり、茶屋で買った冷たい麦茶に口をつけながら一磨が言う。
「でもおばばはね、私の事を未熟者だ、未熟者だっていっつも、いいっっっつも言うんだよ。確かにおばばからは一本も取った事ないんだけどさ……」
怒ったように言いながら、宰も同じく麦茶へ口をつける。
「おばばってのは、お前より強いのか……。恐ろしいな……。一緒に住んでたおばばっていうのがお前の師匠なんだな」
「そんでさっきのさ、ボウワァァっていきなり燃えた紙の事教えて」
「ああ、あれは御札だ。この町ほどのでかい神社になるとな、御札に色んな式術を込めて売ってるんだ。いくらなんでも式術の事は知ってるだろ」
「あれが式術って言うのか……。おばばに教わった事あるよ。式術っていう不思議な力が世の中にはあって、いろいろと面倒な力を持ってるけど、気合いさえあれば大体は斬れるから、とりあえず斬っとけば問題ない、っておばばは言ってた」
「何、そのざっくりした対処法……。おばばってのは本当に強いのか?」
「私にもさ、一磨がやったみたいに御札をヒュッって投げてからのボウワァァできる!?」
「俺が持ってる札は簡易札つってな、投げたり、貼り付けるだけで誰でも式術が使えるようにしてある。もちろんお前にも使えるぞ」
「すごい! 私も御札欲しい! 御札欲しい!」
「よし、じゃあ、ちょっと待ってな」
そう言って一磨は辺りをきょろきょろと見回すと、出店へ走って何かを買ってきた。その手には数枚の御札が握られている。
「あれっ、御札って神社で売ってるんじゃないの?」
「お前よ、ちょっとこの御札を俺から盗むつもりで、気付かれないように取ってみな」
一磨は手に御札を持ったまま、目線をそらしてそっぽを向いた。宰はよく言葉の意味が分からなかったものの、言われた通りこっそりと御札へ手を伸ばす。
しかし、宰の手が触れたとたん御札は光を放ち、ぴりっと痺れたような感覚を宰に与えて消滅してしまった。
「びっくりした、何これ! ビリビリしたよ!」
「これはお仕置きの御札っていってな、悪い心に反応するんだ。大抵、御札ってのはやたら値が張るんだけどよ、これは子供のしつけに使う玩具みたいな物だから、そこら中で安く売ってる。実際は貼り付けないで『悪い子はビリビリするよ!』って脅かすだけどな」
「じゃあ、さっきの人達には火の御札じゃなくて、お仕置きの御札を使えば良かったね」
「ビリッってしたけどそんなに痛くなかっただろ、悪い心に応じて威力は増すけど、怯むほどじゃないから、実戦には使えない。ほら、一枚やるよ」
一磨からお仕置きの御札を受け取ると、宰は不思議そうな顔でそれを眺めた。そして一磨が長椅子の上にお仕置きの御札より一回り大きな三枚の御札を懐から出し、丁寧に並べていく。
「これが魔除けの御札と言って、今日の付喪神退治に使うやつだ。現世にやって来た常世の力、式術や怪異を元の世界に押し戻す力がある」
「これが本物の御札かぁ! やっぱり何だかお仕置きの御札とは雰囲気が違うね。早速そこに居る、うるさいちびっこ達に貼ってさ、元の世界に押し戻していい?」
「馬鹿っ、絶対駄目ッ! ちびっこの元の世界ってどこだよ!? ここだろ! 悪い奴以外に御札は使うなよ、式術は下手に使うと阿呆みたいに厳しく罰せられるからな、この御札は人に貼っても効果が無いけど、そんな馬鹿な事したら、お廻り番衆を呼ばれて即お縄になっちまう」
御札を使ってみたくて仕方ない宰は、御札を手に持って変なポーズを繰り返した。いつのまにか遠巻きに集まった子供たちが、怪しい物を見る目で宰を眺めている。
「実はよ。もっと凄い物があるんだが、見せてやろうか」
一磨は得意気に笑うと宰を呼び寄せ、懐から大事そうに巾着袋を取り出した。
深みのある紫色をしたその巾着袋は絹とも木綿とも異なる、つるりとした質感をしていて、中には人型に切り抜かれた御札、光る液体入りの豪華な硝子瓶、宝石の散りばめられた小さな箱が収納されていた。
「これ何!? すごく高そう! 触ってもいい?」
「八百万と言ってな、常世の力が人為的に宿された道具だ。どれも一回使ったら終わりの使い捨てだけどな」
目の前に現れた摩訶不思議な品々に目を輝かせ、宰は落とさないよう一つ一つを慎重に観察し始めた。
「この人の形をした御札は、さっきの御札と何が違うの?」
「それは身代わりの札だ。持ち主の身代りになって命を救ってくれる。持ってるだけで勝手に八百万が反応するから、今、俺の身に何か起きても絶対に死ぬことは無い」
「すごい! じゃあ、今ちょっと死んで見せてよ!」
「馬鹿野郎! 何で命懸けで実演しなきゃいけねえんだよ! 先祖に名のあるもののふがいたらしくてな、そいつが残した万真家の家宝なんだ。万真家は別にもののふの家系じゃないから、大した説明も無く代々受け継いできたせいで曖昧だけど、どれもこれもけっこう貴重らしいぞ。形見みたいな物だから誰も使いたがらないんだよ。使う機会も無いしな」
「この先っぽの尖がった小瓶と、ぴかぴかした箱は?」
「小瓶は鬼の泪。飲むと鬼の力が手に入るらしい。鬼っていう位だから、力が強くなるんじゃないか? この宝石箱が凄いんだ。時の呼箱と言って時間を戻すんだと」
「ええっ!? 時間が戻っちゃうの? それってどういう事?」
「ここで今、お前が戻りたい場面を頭に浮かべて俺と一緒にこの箱を開けるとするだろ、そうすると俺とお前以外の時間が元に戻る。……らしい」
「じゃあ、じゃあ! まる焼を全部食べちゃう前に時間を戻せるって事? この空っぽの入れ物にまる焼が三個残ってた時に戻るって事!?」
宰はまる焼の入っていた和紙袋を懐から大慌てで取り出し、一磨の前に広げた。
「俺も親父に同じような事聞いたんだけどよ、そういう場合まる焼もお前の一部として認識されちまうから、空っぽになったままらしいぞ。この箱に込められている常世の力次第だからひょっとしたら平気かもしれないがな」
「じゃあ、試してみる価値はあるって事だよね。さっそく八百万使ってみようか!」
「みねえよっ! 貴重だって何回言わせんだ! まる焼きぐらい自分で買えばいいじゃねえかよ!」
「やっぱり駄目か……。なんだぁ、不思議な力使ってみたかったのにな……」
宰は口を尖らせて、渋々、お札とともに和紙袋を懐へ戻した。
「そろそろ仕事の時間だから式術の詳しい話はまた後だ。今度こそ依頼主の屋敷に向かうぞ」
「うん。まる焼も無くなっちゃたしね」
「お前はまる焼きの話ばっかりだな。そんなに美味かったか?」
一磨が巾着袋の中に八百万を丁寧に戻し終えると、宰は両腕をぐるぐる回して長椅子から飛び降りた。
「よぉおおおし! それじゃあ、張り切ってもののふの仕事をやりに行こう!」
拳を突き上げながら、やたら大きな声を宰が辺りに響かせたので、周囲の人々が驚いて一斉に振り返った。
会った瞬間から問題ばかり発生しているものの、無駄に元気な宰の姿を見て、何だか今日の仕事は賑やかな事になりそうだと、少しだけ気持ちの弾む一磨だった。
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