第36話
美香子は足を止めた。
廊下にまで響いた声だった。
「高山さん?一体どういうことですか?」
美香子は明代に問いかけた。
明代は張り付けたような笑顔を浮かべたまま何も応えなかった。
口元は笑っていても目は全く笑っていなくて、不気味な表情だった。
美香子の言葉にも、ただ「ふふ」とニヒルな笑い声をあげるだけだ。
美香子は泣きそうな顔で進藤先生を見た。
先生も美香子を見て顔をしかめた。
「すまないが、専門外だ」
明代は笑うのをやめると、今度は泣き出した。
「ごめんなさい、ごめんなさい・・・」と気が狂ったように謝り続けた。
美香子は明代に恐怖を感じていた。どうすればいいのか何も考えられなかった。
「とにかく、高山さんを連れて、家へ帰るといい。僕はまだ仕事があるから付き添えないが、あとはよろしく頼むよ」
進藤先生は他人事のように言うと、美香子たちを放ってパソコンに向き合い出した。
早く部屋から出ていって欲しいと思っているのが、ひしひしと伝わってきた。
美香子は、進藤の態度に苛立ちを覚えながら明代を扉へ誘導した。
廊下へ出ると、恐怖感が増した。明代を送ることはできるが、今の明代を一人にはしたくなかった。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
成す術はなかった。
いつもの明代はどうしたら戻ってくるのだろう。
壁にもたれてしゃがみこんだ。
意図せず、また嫌な記憶が蘇った。
綺麗な顔立ちの男と向き合っていた。アキラだ。
「ねえ、少しドライブしながら話さない?」
アキラは、女性の髪を耳にかけて、唇を合わせた。ドクン、と美香子の鼓動と重なる。顔は見えていないが、この女性は沙織だ、と気づく。
「君がそんなこと言うの珍しいね。もちろんOKだよ」
家を出たところで、またもや坊主頭の男の子がやってきた。
「沙織さん、今日こそ僕と遊ぼう」
「あんたみたいな貧乏人と遊ぶわけないわ。汚らわしいからどこかへ行ってちょうだい」
「嫌です。僕、知っていますから。沙織さんが本当は・・・」
車を回してきたアキラがそれに気づいて、坊主頭を蹴飛ばした。
「おい、ガキ。ここはお前みたいなやつが来る場所じゃない。ゴミ地区へ帰んな」
アキラは鼻をつまみながら言い、噛んでいたガムを地面に吐き捨てた。
「ほら、これでも食べな」
男の子はアキラを睨みつけていた。
「さ、こいつのことは放っておいて行こう」
男性が沙織の肩を抱いた。
ズキッと心臓をナイフで刺されたような鋭い痛みを、間違いなく美香子が感じた。
「きみ、何をしているんだ?」
新しい声が聞こえて、記憶はそこで途切れた。頭の中に白い霧が立ち込め出した。
霧の中に誰か人が?
必死に声の主を探そうと意識を集中させた。頭を働かせた。
声が、外の世界からしたのだと気付いた。
美香子は伏せていた顔を上げた。
太田先生が立っていた。
「大丈夫か?」
美香子はゆっくりと頷いた。
先生は安堵の表情を浮かべ、進藤先生の部屋の方へ目をやると、美香子に顔を近づけてこっそりと言った。
「音を立てないように僕について来てくれ」
美香子はもう一度ゆっくりと頷いた。
太田先生はその返事に満足して、明代を軽々と抱き上げると、足音を立てないようにエレベーターへと向かった。美香子も静かに後を追った。
太田先生に連れられて来たのは、地下の駐車場だった。
病院関係者の車だけが停めてある関係者以外立ち入り禁止の場所だ。
太田先生は黒のセダンの後頭部に明代を寝かせ、助手席の扉を開けた。
「さあ、乗ってくれ」
先ほどまで思い出していた夢に酷似していて、美香子は戸惑いながら中へ入った。
助手席の扉を閉め、太田先生は運転手に回り、軽やかに乗り込んだ。
シートベルトを締め、エンジンをかける。
美香子たちに対して何の説明もなかった。
「あ、あの、一体どこへ行くのですか?」
痺れを切らして美香子は訊いた。
太田先生はそれには応えず言った。
「話は走りながらしよう」
サイドブレーキを「D」に入れて、アクセルを踏んだ。
車は静かに発進した。
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