第27話
土曜日。美香子は明代に言われた通りに本郷三丁目駅に到着した。時間は10時45分だった。
明代の家からなら東京メトロで来るはずだから、同じ路線だ。美香子は改札を出てすぐのところで待つことにした。
今日のことが気になりすぎて、あの朝から給湯室であったとき以来、怖くて信一と会っていなかった。
あの日、信一から定時前に連絡があった。一緒にご飯を食べようと誘われた。
ランチの前なら、すぐに承諾のメールを返していた。
急用ができたと嘘をつき、その後もあらゆる理由をつけて誘いを断り、会社でも顔を合わせないように避けてしまっていた。
美香子は、おととい信一から届いたメールを開く。
『僕のこと嫌になりましたか?』
そんなわけない。でも、今それを言っても態度で示すことができない。
美香子は返信することができず放置していた。信一からも何も連絡が来なくなった。
ごめんなさい、と何度も心の中で謝った。今日、モヤモヤが晴れたら、必ず返信をするから、と。
「美香子さん、待たせてしまってごめんなさい」
明代が改札を抜けて走ってきた。キャメルのPコートに白のニットとグレーのチェックスカートを合わせたカジュアルだけど上品な格好だった。通勤の時の格好とあまりにもギャップがあり、まだ本当の明代の姿には慣れない。
「いえ、わたしが早く着いてしまっただけですので。・・・ところで、これからどこに行くのですか?」
美香子は早速疑問に思っていたことをぶつけた。
本郷三丁目駅でこれまで降りたことはないし、駅周辺に何があるかも知らなかった。シンボルとなる建物も思い出せなかった。後楽園なら東京ドームがあるから、まだわかる。東京ドームに行く目的は特に思いつかないけど。
「そんなに緊張しなくて大丈夫よ。いかがわしいお店に連れていくわけではないから」
ふふ、と明代は微笑んだ。どこに行くのかは結局言わず
「ここから歩いて10分くらいで着くわ」
と出口へ向かった。
出口を出た後も迷いなく進んでいくから、何回も足を運んでいる場所なんだろう、と見当がついた。
だんだん近付くのを、まさか、と何度も頭の中で打ち消した。
どうしてこんな場所に用事があるのか。
しかし、明代は大きくそびえ立つクリーム色の建物を目の前に美香子に言った。
「着いたわよ。さ、中へ入りましょ」
そう言って明代が連れてきたのは、○大学病院だった。
明代はエントランスの自動ドアの中へ躊躇なく足を踏み入れる。
美香子は心がざわざわして、先へ進めなかった。
ここへ来るのは、五年前、大学を卒業して以来だった。
なかなか入ってこない美香子を心配して明代が外に出てきた。
「どうかした?」
美香子は何かを振り切るように大きく首を振った。
「なんでもありません。行きましょう」
中は、あの頃と何も変わっていなかった。
上に広い天井、患者で賑わうエントランス、病院独特の消毒の匂い。
どうしても、記憶がフラッシュバックしてしまう。
明代はエントランスを抜け、エレベーターで5階のボタンを押した。
日光で明るく、人がいない静かな廊下を、コツコツとヒールの音を鳴らしながら進んでいく。美香子のスニーカーのペタペタという音が後に続く。
廊下の突き当たりを右に曲がったところに部屋があった。そのドアをノックする。
中から、「はーい、どうぞー」と間延びな声が聞こえてきた。
明代が美香子を振り向いて目で合図をし、横開きのドアを引いた。
「高山さん、待っていましたよ」
入って真正面に位置するデスクの前に座った男性が椅子を回転させ、美香子たちの方に体を向けた。
髪はボサボサで、メガネのフレームがずれていて、小太りの男だった。童顔だからか、年齢は40代前半くらいに見える。
「先生、こんにちは。先日電話で話した同僚を連れてきました」
美香子が前に来るよう明代は一歩下がった。
「先生、こちらが本田美香子さんです。美香子さん、あちらがここで脳神経を専門とされている進藤先生よ」
進藤先生は椅子から立ち上がり一礼した。
「どうも、進藤です。よろしく」
美香子もかしこまってお辞儀を返した。
進藤先生は立ち上がると想像よりも身長が低かった。
「早速、本題に入らせてもらうね。高山さんから本田さんの話についてアウトラインは伺っています。と、いうのも、実は僕はそういった不思議な現象についても研究をしているんだ」
先生は言いながらデスクの方に体を向けた。そして、引き出しから何やら紙を取り出した。
「きみの話をもっと詳しく聞きたいと思っている。そして、できれば僕の研究に役立たせていただきたいと考えている。申し訳ないが、ここにサインをもらってもいいかな?」
先生は取り出した紙をデスクの上に置いた。美香子に近寄るよう手招きをする。
美香子は明代の方を見た。明代は、促すように大きく頷いた。
デスクに近づき、紙を持ち上げる。
『機密保持に関する契約書』と書かれた題名に、いくつか項目が書かれていた。
ざっと目を通してみると、研究に関する情報や研究を通して知り得た情報を他言しないように釘を刺す内容だった。最後に署名する欄があり、印鑑が必要だった。昨日、明代に印鑑を持ってくるよう連絡があったことの疑問が解消された。
「一読してみて、協力してもらえるようならサインをお願いしてもいいかな?」
先生が美香子の顔を覗き込むように見て言った。
まだ出会って数分のこの博士を信用する材料は今のところ一つもなかった。だから、美香子はサインを決意する判断に迷っていた。
明代のことは全面的に信頼している。その明代の知り合いだから信用する、という考え方もある。
美香子は書面を読みながら、唇を強く噛んだ。
「わかりました。書面に承諾して協力いたします」
美香子はサインをした紙を先生に返却した。
この男が一体どんな人物かは全く見当がつかないし、信用に値する人間かもわからない。
ただ美香子の中にあったのは、それをも超える好奇心だった。
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