第25話
信一の胸に当たった鼻の先から信一の匂いがした。
脳が、嗅覚が、反応した。
前にも嗅いだことがある匂い。
どこでだったかなあ、と思い出しているうちにだんだん冷静になってきた。
薬の効き目が切れたように、恥ずかしさが立ち込めてきた。
慌てて体を引き離した。
「すみません・・・・」
「いえ・・どうかしましたか?」
「あの、これをお渡ししたくて」
美香子は紙袋を差し出した。
強く握っていたからか、雑に扱ってしまったからか、買った時はゴージャス感を醸し出していたのに、しわくちゃで年季の入った姿に変わり果てていた。
「僕にですか?」
信一は尻尾を振って喜ぶ犬のように紙袋を受け取った。
「篠宮さんが今までもらったものに比べたら、きっと安くて質素で地味だとは思いますけど・・・」
「そんなことありません。光栄です。僕は今まで誰からも本命のチョコを受け取ったことはありませんよ。それに言ったでしょう?あなたからいただけるものはなんだって嬉しいと。大切に食べます」
「賞味期限がありますので、お早めにお願いします」
こんなこと言うつもりじゃなかった。本当にかわいくない。
信一の真っすぐな言葉が眩しすぎて、つい天邪鬼に返してしまう。
「ところで、篠宮さん洗剤は何を使っていますか?」
「洗剤ですか?僕は○タックですが・・臭かったですか?」
信一が自分の腕や襟のあたりを必死に嗅ぎ出した。
こんなに慌てる信一は珍しくてかわいかった。
その姿があまりにも可笑しくて、美香子は声を出して笑った。
「臭くないですよ。そんなに必死に嗅がないでください。なんだか少し懐かしい匂いがしたので聞いただけです。お気に障ったのなら、すみません」
美香子が頭を下げて信一の顔に視線が戻ると、いつものように優しく微笑んでいるかと思いきや、真剣な表情をしていた。
何か思いつめた表情にも見えて、そんなに気分を悪くさせてしまっていたのかと美香子が反省していた。
ホームに電車が入る音がして、ガタガタガタと大きな音が聞こえてきた。
「・・・・ですか?」
信一が何か言った。
電車の音で聞こえづらかった。
美香子は耳を信一の方に向け「何ですかー?」と声を張り上げて訊いた。
電車が止まって一瞬の静けさが戻ってきた。
改札を抜けて数人が駅構内を足早に通り過ぎていく。
「何でもありません。そろそろ帰りましょうか」
美香子は「はい」と答えて改札に向けて歩き出した信一のあとを追った。
さっきホームに停まった電車が、またけたたましいほどの大きな音を立てて走り去っていった。
電車に乗ると先ほどまで真剣な表情で黙っていたのが嘘のように信一の態度は戻っていた。
最近観た映画や最近の仕事の様子などたわいもない話を美香子に振って、話が途切れないようにしていた。
まるで、さっきの話を二度と触れられないようにするために。
信一は美香子を家まで送ると、颯爽と来た道を帰っていった。美香子はまだ信一がどこに住んでいるか知らない。それどころか年齢や家族、今の会社に来る前のこと、よく考えたら知らないことばかりだ。
唯一知っているのは、前世の記憶があるということ。
美香子は部屋に入ると、ベッドに横たわった。
一気に疲れがきた。慣れないことばかりで想像以上にエネルギーを消費していたらしい。
静かな空間に一人でいると、考えなくていい深いところまで思考を巡らせてしまう。
信一が前世の記憶がある。いまだに半信半疑だが、そういう前提にする。
前世についての話をする以外、信一は頭が良くて気が利いてまともどころか完璧な人間だ。だから、少しずつ信じてきてしまっていた。
しかし、前世の記憶があるだけで、それ以外の何かを受け継ぐことなんてあるのだろうか。
そもそも前世とか後世とか、どういう仕切りになっているのだろう。
美香子は頭を抱えた。
これまで考えたことも触れたこともないテーマで、ただでさえ疲れている頭が悲鳴をあげたようだ。
一息ついて落ち着かせる。
考えたって仕方がない。正解にたどり着けることがないテーマだ。
美香子はゆっくりと体を起こして水を飲もうとキッチンへと歩いた。
「思い出したのですか?」
あのとき、信一は確かにそう言った。
何を?と思って聞き返したが、元から聞こえていないと思ったらしく、それ以上踏み込ませてもらえなかった。
その前に話したのは匂いについてだった。
だから、信一の匂いを、ってことになるだろう。
しかし、匂いまで受け継ぐことなんてあるのだろうか。
美香子はコップになみなみと注いだ水を一気に飲み干した。
枯れきった体に、脳に、水分が行き渡って潤っていった。ようやくこわばっていた体がリラックスしたように感じた。
今頃になって、お腹がすいてきた。
美香子は、今日の分の夕食のおかずを冷蔵庫から取り出した。
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