第52話 帝国の歌姫は生涯を捧ぐ

「……どちら様でしょうか?」


 ダンテはあからさまな作り笑顔を浮かべながら面をあげる。


 正面にはいつの間にか、絶世の貴公子とも評すべき男、ルドルフ・ギュンター・クロイツェフが立っていた。


お初・・お目にかかるよ、ダンテくん。私はルドルフという名前でね。お隣のお嬢さんから聞いたことはないかな?」


 ルドルフとダンテは、公式には初対面である。


 だが、こうもぬけぬけと、一切不自然なところなく嘘をついてのけるとは、ルドルフもダンテ同様に詐欺師としての素質があるのだろう。


 政争に明け暮れ、息をするように嘘をついて回っているために鍛えられただけかもしれないが。


「ルドルフ、さま……」


 道具として使われるだけの存在であるアンジェリカも、さすがに父親の政敵であるルドルフの名前と顔くらいは知っていたらしい。


 警戒心をあらわにしたのか、ダンテの腕がきゅっと締め付けられた。


 ダンテは一度アンジェリカの手に自らの手を添え、口の動きだけで「安心して」と伝えてからルドルフへと正対する。


「クロイツェフ殿下、お噂はかねがね伺っております」


 ルドルフは、例え庶子であろうと対外的には殿下である。


 絶対に継ぐことはないとしても、形だけは継承権を持ち、相応の権力と財力も持っていた。


「初めまして」


 ダンテは型通りの返事をしつつ、型通りの握手を交わす。


 アンジェリカも渋々ながらカーテシーを行ったのだった。


「それで、殿下ともあろうお方がお声をかけてくださるなど、如何なる御用でらっしゃるのですか?」


 ダンテはそれとわかるほどの作った笑みで、言外にルドルフが話しかけてきた理由を問う。


 本来は、ルドルフとダンテには一切の繋がりがあってはならないのだ。


 それこそ匂わせでもしてはならないほどに。


「いやいや、君は私の従弟を名乗ったのだろう? 興味を持たれて当然とは思わないかね?」


「……ずいぶんと良い耳をお持ちの様ですね」


 ルドルフはこの茶番を心底楽しんでいるのか、クックッと声を抑えながら笑う。


「まあね。それが私の特技なのだよ」


 これはダンテとのやり取り自体が面白かったわけではない。


 ダンテがブルームバーグ伯爵家と戦っているのを最前列で鑑賞できるのが楽しくて仕方がないのだ。


「さて、君は……」


 ルドルフは一度ジロジロとダンテの面貌を無遠慮に眺めた後、アンジェリカへと視線を移す。


 そして、


「どうかな? 私の方が美しいとは思わないかい?」


 などと意地の悪い質問を仕掛ける。


 別段、本気でルドルフがそんなことを思っているわけではないだろうが、そう言うと、アンジェリカが釣れると分かっているからだ。


「そんな事、絶対にありませんわ」


 ダンテが止める間もなく、アンジェリカは眉を吊り上げて怒りをあらわにする。


「ダンテさまの方が、絶対に美しうございますっ」


「アンジェ」


 中庭ベイリーにはダンテたち以外にも多くの貴族たちが居並んでいる。


 多少の会話こそ聞こえてくるものの、基本的には全員が皇帝のお言葉が終わるのを静かに待っているのだ。


 そんな中で、騒動を起こされるのはマイナスでしかなかった。


「そう言ってくれるのは嬉しいけれど……」


 ダンテは立てた人差し指を唇に持っていき、しー、とアンジェリカを宥めてからルドルフへ非難のこもった視線を向ける。


「クロイツェフ殿下」


「ルドルフでいいよ」


 言葉を遮られ、ダンテはわざとらしくため息をつく。


「ルドルフ殿下。陛下のお言葉がいただけたとのことですから、私たちはこれで失礼致します。お義父上をお迎えなければなりませんので」


「おや、終わったのは私だけだよ。言ってなかったかな?」


「…………ひとことも」


 ルドルフがただの庶子でありながらここまでの力を持つに至ったのは、ひとえに皇帝からの寵愛を一身に受けたからだ。


 異常とも思えるほど特別扱いを受けて裏では口さがない連中が色々と噂していたが、ルドルフ自身の才覚は本物だろう。


「お嬢さん。考えていることが顔に出ているけれど、それは間違いだと言わせてもらおうかな。陛下からの贈り物を君たちへ渡すために、私はここに居るんだ」


 アンジェリカの方がダンテよりももっと露骨なことを考えていたのか、ルドルフは皮肉げな表情を浮かべる。


 その瞳には、ダンテに向けて笑いかける時のものとは違う、明らかに冷たい感情が宿っていた。


「……そう、ですの……」


 ルドルフの瞳に圧され、アンジェリカは緊張した面持ちでうなずく。


 政争における道具としてしか扱われないアンジェリカと、前線で戦い続けるルドルフとでは役者が違っていた。


「……それで、贈り物とはなんですか?」


 アンジェリカを背中にかばったダンテが、ルドルフへと問い返すと、彼の瞳から一瞬で圧が消え去る。


「うん? まあ……聞けばわかるよ」


「聞く?」


 ルドルフはそう言うと、城と中庭を繋ぐ門の方へと視線を向けた。


 ダンテとアンジェリカもそれにつられるようにして同じ方向へと向くと――。


 ――その瞬間、世界が静止した。


 聞こえて来たのは、女性のものと思しき歌声で、楽器による伴奏で飾られてもいない生の声だ。


 しかし、それはこの世のものと思えないほど美しい至上の旋律であり、聴き入る者たち全てを音楽の世界へと引きずり込むほどの力があった。


「――――っ」


 ダンテは思わず息を呑み、ルドルフと話していたことも忘れて歌声に聴き惚れる。


 かつてダンテは貴族たちのダンスを偽物と嘲笑うような言動を取ったことがあった。


 ただ、もしこの歌を聴いていれば、そんなことなど言えなかったに違いない。


 たった一度聴いただけで、価値観を根底から覆してしまうほど、この歌声はダンテの心を震わせたのだった。






 歌が終わってもなお言葉を発することすらはばかられ、しばらくの間誰しもが息をひそめていた。


 そして、十分な間が空いて歌が終わったことを聴衆が十分に確信してから、万雷の拍手が鳴り響いた。


「贈り物は気に入ってもらえたようだね」


「…………はい」


 ルドルフの言葉で、ようやく自分が話せることを思い出したかのように、ダンテはゆっくりと頷く。


 それに満足したのか、ルドルフは笑顔で「よかった」と呟いた。


「あ、あの……今のがもしや歌姫さまで……?」


 アンジェリカは先ほどルドルフに圧倒されたことすら忘れ、勢い込んで問いかける。


 先ほどの歌声で、アンジェリカもそれほどの衝撃を受けてしまったのだろう。


 ダンテのように、その界隈に疎い者であっても歌姫とまで言われる理由は推し量れる。


 ただその実力で以って姫とまでたたえられているのだ。


「ナターリエもそう言われているみたいだね」


 先ほどの贈り物発言といい、今の言動といい、まるでその人物が既知の存在であるかのような様子であった。


「もしかして……」


 そのことはアンジェリカも察したようで、何事かルドルフに言いかけて口ごもる。


 父の政敵であることと、自分の興味である事実が葛藤となってアンジェリカの中でせめぎ合っているのだろう。


 しかし、やはり好奇心には勝てなかったのか、意を決したように面をあげる。


「その、歌姫さまとルドルフさまは、お知り合いなのですか?」


 ルドルフは、いたずらっ子というより獲物を前にした猫のような、好奇と嗜虐の入り混じった目つきでアンジェリカを見る。


「知りたいかい?」


「ええ、まあ……」


 曖昧にうなずいたアンジェリカへ、ルドルフは何も言葉を発さず軽く肩をすくめて、歌が聞こえて来た方角へちらりと視線を向ける。


 視線の方角からは、どよめきの波のようなものが、だんだんとこちらへ近づいてくるのが感じられた。


「ナターリエは私と同じ孤児院で育った子どもでね。まあ、私にとっては……勝手に後ろをついてくる子猫みたいな存在だよ」


 家族と評さないのは、ナターリエに対して情を持たないのか、それとも持ってはいけないと考えているのか……。


「私のことを慕ってくれている……らしい」


 ルドルフには、歌姫とまで呼ばれている人物から好意を向けられていても、それを受け入れるつもりはないらしい


 ルドルフの瞳は無感情に近く、呟く彼の声にはどこか申し訳なさそうな響きが混じっていた。


「私の、歌が好きだと言ったその言葉だけを心のよりどころにして、歌うことだけに自分の人生を捧げ、血のにじむような努力を重ね、あそこにまで至った」


 愛とは凄いね、なんて、ルドルフはどこか他人ごとのように呟く。


 それでダンテは理解した。


 ルドルフは、好きとか嫌いとか、愛しているとかいないとか、そういうのとは全く違うということを。


 恐らくルドルフの中にそういう感情が無いのだ。


 だから、応えられない。


 ダンテがベアトリーチェの事を好きで好きでたまらないのに、それでも応えられないのとは真逆だった。


「君たちは、自分の全てを誰かに捧げられる理由が分かるかな? 本当の意味で知っているかな?」


 ルドルフの問いかけは、分からないから聞いている、そんな雰囲気だった。


「…………」


 愛のために自分を捨てられなかったダンテには、それに対する返答を持ち合わせていない。


 ただ、アンジェリカは無言のままこくりと首を縦に振ったのだった。

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