第10話 秘密
なぜここにこの少女が居るのかという疑問が頭をよぎったが、ダンテは意志の力でそれをねじ伏せる。
そんなことよりも優先すべきことがあったからだ。
このベアトリーチェという少女は、浮浪児であるテッドと共に居たダンテの正体を知っている。
直接言ってはいないが、俺たちの会話からその関係は察することが出来たはずだ。
なぜ彼女があんな中流階級の住まう地域、しかもわりとスラムに近い場所に居たのかは分からないが、非常にまずい事態であることは確かだった。
「あなた……」
思いがけぬ再会に琥珀色のくりくりっとした目が大きく見開かれる。
このままだとまずい。そう直感したダンテは、焦ってベアトリーチェの腕を手放してしまった。
「た――きゃぁっ!!」
ダンテの腕に全体重を預けていたベアトリーチェは、当然のように重力に負けて床へと転がる。
ガシャンッと派手な音を出したのは、彼女の腕に鈴なりになっていた手提げ袋やバッグの中に、授業で使うための黒板や
「すまない」
ダンテはすぐに謝罪すると、かがんでベアトリーチェのことを助け起こす。
その際、彼女の耳元で、
「……俺のことは知らないふりをしろ」
なんて低く小さな声で脅しつけておいた。
「怪我はありませんか?」
そう言いつつ、ダンテは素早くベアトリーチェの様子を観察する。
あの出会ったときの服よりはマシだが、木綿で出来た安っぽい服。
ボロボロにはなっていないが、ところどころ繕った跡が見られ、ずいぶんと着まわしていることが伺える。
もはやどこからどう見ても貴族に見えず、どこかの侍女かなにかかと誤解しそうだが、その侍女よりも質の悪い服を着ている所から見ると、おそらくは彼女自身が貴族――それもとてつもなく金のない貴族なのだろう。
そんなベアトリーチェがアンジェリカとその取り巻きたちの荷物を抱え、遅れてついてきたということは、大体の関係に察しが付く。
「あ……えっと、あのっ……はい」
ベアトリーチェは目を白黒させながら立ち上がると、手に付いたほこりを払う。
彼女の瞳は困惑に満ちており、まだうまく事態を呑み込めていないのだと判断したダンテは、背後にいるアンジェリカたちから見えない様に注意しながら人差し指を口の前で立てて、しーっと口止めをしておいた。
「さて、お荷物が散らばってしまいましたが……」
ダンテがちらりと背後の少女たちを見やると、ようやく彼女たちへと時が戻ってくる。
「ちょっと、ベアトリーチェさんっ。わたくしたちの荷物を乱暴に扱わないでくださいましっ」
「あなた、石板が割れていましたら弁償していただきますわよっ」
アンジェリカは黙したままだったが、彼女の威を借る取り巻きどもが騒ぎ始める。
ダンテが見ている前だと言うのに、この様に不快な叱責が飛ぶ当たり、もはや言い慣れてしまって感覚がマヒしているのだろう。
「…………」
こういった類の貴族は、ダンテの一番嫌いなタイプだ。
ダンテは落ちた荷物を観察すると、その中で最も軽そうな手提げ袋を拾い上げる。
その袋は生糸で編まれた最上質の代物で、派手過ぎず、しかし質素にもならない様に藍色で染め上げられた美しい一品だった。
「レディ」
ダンテはその手提げ袋を手にすると、アンジェリカの下へと戻り、彼女自身の手に握らせる。
「壊れた物はないですか」
「……なぜこれが私のものだと分かったのですか?」
不満顔のアンジェリカへ、ダンテは肩をすくめ、やれやれと頭を振ってみせた。
「あなたの手の中に在って、いちばん似合いそうな物を選んだだけですよ」
軽く言いきってみせたのだが、実は違う理由がある。
授業を受けるにあたり、普通は30サント四方の黒板や石板などに、石筆と言われるロウ石でできたペンを使って書き込む。
紙は非常に高価なため、特に重要な物事を記すだけに留まり、授業程度では容易く使い捨てることなどできない。
ただ、ベアトリーチェの持っていた手提げ袋の中に、ひとつだけ異様に軽いものが存在した。
恐らく、黒板と石筆の代わりに軽い紙と筆記用具を入れているからだろう。
そんな財力を持ち合わせているのはブルームバーグ伯爵家において他ならないとダンテは推察したのだ。
そしてそれは見事に的中した、というわけである。
もちろん、そんな理由はおくびにも出さないのだが。
「ふむ……」
ダンテは袋を手にして恥ずかし気に立ちすくんでいるアンジェリカの姿を、下から上へと眺めながら満足げにうなずいた。
「さすがはレディ、良い感性をお持ちのようですね」
見た目ではなく彼女の中身こそが素晴らしいのだとさり気なく褒めると、アンジェリカも悪い気はしなかったのか、片手で金色に輝く自らの髪をいじる。
「し、淑女として当然ですわ」
己の主が自身の荷物を手にしているのだ。
取り巻きの少女たちがベアトリーチェへと押し付けるわけにもいかず、しぶしぶ己の荷物を拾い、中身を確認するついでに自分たちの手で荷物を抱えたのだった。
そんな少女たちを一瞬だけ視線をやって確認すると、ダンテは再びアンジェリカへと向き直る。
「なるほど……。では私はあなたのことをひとつ知ってしまったというわけですね」
「そんなに大層な事ではないでしょう、これくらい」
「いえいえ、そういうわけには参りません。あなたの秘密を知ったのだから、私の秘密も明かさねば」
そう言って、ダンテはアンジェリカの長く美しい金の髪に触れる。
「……私の好きな色です」
「――――っ」
アンジェリカが息を飲む音が聞こえる。
それほどまでに今この時、この場所は静まり返っていた。
少女たちの視線が集まる中、ダンテは平然とアンジェリカの金髪に軽く唇を触れさせる。
「いつまででも見ていられるほどに」
髪は女の命と言うが、その聖域へ無遠慮に踏み込み、あまつさえキスをするなどもってのほかだ。
じっとダンテたちを見守っていた少女たちが一気に色めき立つ。
無礼に過ぎるという理由もあるだろうが、それ以上にダンテの戯れによる刺激が強すぎるからであろう。
「それでは失礼します、レディ」
「ふ、ふんっ」
アンジェリカは首筋までリンゴの様に紅く染まっている。
それでも必死に平静を装っているのだが、さすがにダンテの目は直視できない様であった。
ダンテはアンジェリカの横を通り過ぎ、今度こそ角を曲がって校舎の奥へと消えていった。
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