第79話 現実はどこだ

 ……風が吹いている。まるで身体を撫でるような柔らかい風だった。微睡みの中、もう少し寝ていたいという強い想いに身体を委ねると、しだいに動こうという意思すらもなくなっていく。


「……氷兎君」


 明るく優しい声が聞こえる。誰の声だろう。未だに俺の身体に動こうという気は起きなかった。


 多分女の子だろう。きっとすぐ近くにいる。


「氷兎君、起きて」


 誰かが身体を揺すってくる。仕方なく目を開けてみれば……まだ薄らぼやけている俺の視界には、水色の空といくつかの雲が見えていた。そして、視界の隅には胸の大きな女の子が……。


「………ッ!?」


「きゃっ」


 あまりに異様な光景に、俺は飛び起きた。隣で女の子の驚く声が聞こえたけど、そんなことはどうでもいいとすら思えていた。


 見渡す限りの晴れた空。下の方には田舎の風景が見える。田圃や川が流れる、現代の日本では見ることすら難しいような世界。俺が寝ていたのは、丘のような斜面だった。地面は柔らかい芝生で覆われ、触っているとなんだか心地いい。


 まるで、異世界にでも来たみたいだ。俺はさっきまで……。


「……俺、何をしていたんだっけ」


 記憶がハッキリしない。でも、ここじゃないどこかにいたはずなのだ。それはきっと建物の中だったはず。こんな景色のいい場所じゃなかった。


「もうっ、氷兎君ったら……起きるならもっとゆっくり起きてよ。びっくりしちゃった」


 俺の隣にいた女の子は、七草さんだった。服装はなんだかいつもと違う。真っ白なワンピースだろうか。それに長く艶のある髪の毛には白い花のような髪飾りがつけられている。


 ……何が起きている。未だに頭の中は混乱していて、うまく事態を飲み込めていない。そんな俺の頬を、彼女は両手で優しく包み込んできた。


「……起きた?」


「ッ───」


 近い。七草さんの顔が物凄く近い。少し前に顔を動かせば、彼女の柔らかそうな唇に俺の唇が当たるのではないか。彼女の息遣いすらも感じられる。


「氷兎君、顔赤いよ? もしかして……照れちゃった?」


「い、いや……それより、七草さん。顔が近いよ……」


「……七草さん?」


 名前を呼んだら首をかしげられた。何も変なことを言った覚えはないが。だというのに、彼女はその無垢な顔を曇らせてしまった。俺にはなぜだかわからない。


「……いつも、名前で呼んでくれるのに。今日はどうしたの?」


「……名前? 俺が、七草さんを名前で?」


「桜華、でしょ?」


 その眼は俺を逃がしはしない。その腕は俺を逃しはしない。ただ俺は彼女の汚れのない真っ直ぐな瞳に射抜かれるように、その場でじっとしていた。


 俺は確かに、彼女を七草さんと呼んでいたはずなんだ。なのに、なんだって急にそんなことを言い出すのか。


「……ごめん。何が何だか……俺、確かにここじゃない別の場所にいたはずなんだ」


「……夢だったんじゃない?」


「……えっ?」


 俺の驚く顔を見た彼女は、またニッコリと歯を見せるように笑った。


 ……その笑顔に、誰かの笑顔が重なる。知っているはずの誰かなのに、わからない。


「だって、氷兎君はいつも夢を見るのが好きでしょ? 今日もまたこうやって、ここで寝てたんだから。お義母さんに頼まれて探しに来なかったら、ずっと寝てたんだよ?」


「……夢。全部、現実じゃない……?」


 ズキリッと頭が痛む。痛みがある、ということは夢じゃないんだろう。俺は確かにここにいる。


 でも……俺の薄れゆく記憶の中にある誰かの声や、思い出は……本当に間違ったものだったのだろうか。いやでも、夢の記憶は徐々に薄れていく。ならばきっと、今薄れていっている記憶というのは、夢の中での出来事だったということなのか。


「ねっ、氷兎君。一緒に帰ろう?」


「あっ……」


 彼女の柔らかい手が、今度は俺の手を掴んだ。そのまま半ば強引に、俺を引っ張っていく。目の前にいる七草さんは本物で、その仕草や行動も彼女そのものだった。


 ……なるほど、夢だったか。それにしては長く、どこか現実的な夢だったけど。記憶の中では、俺は魔術なんてものを扱っていたようだ。馬鹿らしい、厨二病を今更患ったのか。


「……なぁ、桜華」


 自然と彼女の名前が出てかた。呼びなれているような、そうでもないような。不思議な感じがする。俺の呼びかけに、彼女は振り返った。


「なぁに、氷兎君?」


 笑顔だ。心做しか輝いて見える。俺は握っている手を強く握ると、彼女の真横まで近づいていった。


「……なんでもないよ」


「変な氷兎君」


 笑う声が聞こえてくる。どうにも恥ずかしくて、俺は顔を逸らした。そして自分の家へと向かって歩いていく。そう、確か丘の上に家がある。そこにはちゃんと、父と母がいるはずだ。


 足取りも軽く、辿り着いたところには一軒家があった。確かに俺の家だ。彼女に手を引かれながら、俺は家の中へと帰っていく。


「……ただいま」


 久しぶりに言った気がする。するとすぐに、懐かしい声がリビングから返ってきた。


「おかえり。桜華ちゃん、ありがとね」


「いえ、氷兎君のお迎えは慣れてますから」


「本当、助かっちゃうよ。ねぇお父さん」


「そうだな……。いつもフラフラとしてるし、手綱をちゃんと持っていてほしいくらいだ」


 ソファに座ってテレビを見ている父さんはそう言った。母さんは、キッチンでご飯を作っているらしい。


 いつも帰ってくるのが遅かったはずなのに、どうして揃っているのだろうか。いや、それは夢の中のことだったっけ。まぁ……どうでもいいことか。


「……ねぇ、氷兎君」


 彼女は俺の手を握ったまま聞いてくる。その行動に、その笑顔に、誰か別の女の子が重なっている。


 恥ずかしそうに顔を赤らめながら、彼女は言った。


「『ひーくんって、呼んでいい?』」


 声が重なる。聞き覚えのある声だ。どこか安心感すらも覚える声だった。


『自分の名前が嫌いなの?』


 どこか遠い記憶。それは夢だったのだろうか。記憶の中では、俺は女の子と向かい合っていた。まだお互い幼い頃だ。相手の女の子の顔は……よく思い出せない。


『氷兎君がそう言うなら……じゃあ、ひーくん! そうやって私はずっと名前を呼ぶから。皆に名前が言えなくても、私はずっとひーくんの名前を覚えてるよ! 約束!』


 ……約束。そうだ、約束。忘れていた記憶だけど、なんとなく現実味があった。確かに俺は、自分の名前が嫌いだったのだから。その名前を、目の前の女の子は知っているはずなんだ。


「……ねぇ、桜華。俺の名前覚えてる?」


 何気ないように、俺は彼女に尋ねた。彼女はどこかポカンとしていたが、いつものように笑って答えた。


「何言ってるの。そんなの忘れるわけないでしょ?」


 ……そうだ。忘れるはずがない。指切りまでしたのだから、忘れてはならないことのはずだ。そういう約束だったのだから。


 彼女は笑顔のまま、俺の名を呼んだ。


「───氷兎ひょうと君、でしょ?」


 ……俺は笑って、そばに置かれていたテーブルナイフを持ち、彼女に向けた。


「………えっ?」


 彼女はそんな奇怪な行動をとり始めた俺を見て、呆気に取られていた。俺はナイフを向けるのをやめない。


「そうだな。俺の名前は唯野ただの 氷兎ひょうとだ。そうやって、自己紹介したな」


氷兎ひょうと、アンタ何やってるの!? 今すぐソレを置きなさい!!」


 母さんが知らない誰かを怒鳴りつける。しかし俺はナイフを置かない。次第に、目の前の光景がブレ始めた。家の中は赤い絵の具をぶちまけたように汚れ、その汚れの中心には槍に突き刺されたまま息絶えた両親がいる。


 目の前にいる女の子は、両目に涙を溜め込みながら俺を止めようとした。


「やめて、『ひーくん』!!」


 その名前を呼んでいたのは、たったひとりだけ。


 その名前を呼んでいいのは、たったひとりだけ。


 そういう約束だったのだ。


 目の前にいる女の子の姿がブレ始める。まるで壊れたテレビに映った映像みたいに。


「……夢はこっちだ。俺の現実は、ここじゃない」


 ……そうだ。現実菜沙はどこにいる?


 いないのならば……それはもう、現実たり得ない。これは紛れもなく、夢だ。俺の両親はもう死んだ。七草さんはこんなに俺に積極的に近寄ってこない。俺にここまで近寄ってくるのは、菜沙だけだ。


 彼女こそ、俺にとって現実の証明だったはずなのだから。


 だから……こんな夢、さっさと覚めろ。俺は彼女の元へと帰らなければならないのだから。





〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜





 身体がビクリと反応し、俺は瞼を開けた。目の前にはガラスの板のようなものがある。そのせいで起き上がることができない。首を動かして周りを見れば、どうやら俺は何かの箱のようなものに横になって入れられているようだった。


 ……そうだ。確か俺達は突入したあと、その先の部屋でガスを吹きかけられて意識を失ったんだ。ならば、その犯人が俺をこんなところに閉じ込めたのか。いやでも、内部は中々快適だな。気温も保たれて、どうしてか空気を吸い込むと満足感が身体を満たしていった。


「……真っ暗だな」


 微かな明かりのおかげでガラスの外は見えるが、暗い色をした天井だけが目に映っている。どれだけ長い間眠っていたのかはわからないが、少なくとも一時間やそこいらではない。寝すぎのせいなのか、身体が嫌に重く感じるのだ。


「……携帯も、武器もなしか。困ったなぁおい……」


 ポケットの中には何も入っちゃいなかった。武器もない。現状手詰まりだ。流石に気が滅入る。独り言も多くなるというものだ。


 叫んだら誰か来てくれないだろうか。いや、下手に動けば俺達をこんな目に遭わせた犯人……おそらく研究員が何か仕掛けてくるだろう。どうしたものか……。


「……おっ?」


 なんとか目の前のガラスの蓋を開けようと押し上げてみたところ、蓋はなんなく上に開いていった。なんだ、鍵とかかかってたわけじゃないのか。出られることに安心した俺は、蓋を開けて外に出てみた。


 まだ少し身体がうまく動かないが、なんとか大丈夫だろう。身体をほぐし、手を何度か握り直してから、俺は周りを見回した。


「……なんだ、これ」


 ……多分、手に何か持っていたならば落としていただろう。目の前に広がっている光景に、俺は唖然とするしかなかった。


 薄暗い部屋に、例えるならば病院に置いてある酸素カプセルのようなものが所狭しと並べられていたのだ。規則的に並べられたそれらは、明らかに人の手が入り込んだものであった。


 俺はすぐ隣にあったカプセルの中をのぞき込んだ。中にはまだ若い男性が安らかな顔で、まるで死んでいるかのように眠っていた。


 ……数十という台数ではない。あまりに多すぎるそのカプセルの数と、その中にそれだけの数の人が眠っている。背中に襲いくる寒気を感じながら、俺はその場に座り込んでしまった。


 ……何がどうなっているのか、俺には理解できなかった。




To be continued……

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る