Sの残響

 風の音がうるさい。

「雨、降るんかな」

 同居人に訊ねる。ややあって、さぁね、という気の抜けた返事が返ってきた。

「予報じゃ降らないっていってたけど」

「テレビなんかアテにならん」

「せやね」

 短い沈黙の後、同居人は再び蕎麦そばを啜り始めた。彼女の好物で、暇さえあれば茹でたり買ってきたりして食べている。外食も大体、蕎麦だ。彼女の趣味のようなものであり、私に口出しをする権利はない。


 同居するに至る動機は、はっきりとは覚えていない。おそらく六畳一間をルームシェアしたほうが経済的だとかそういうことだった筈だが、気づけば10年ほどひとつ屋根の下で暮らしている。

 元来誰かと寝食を共にするのはあまり好きなほうではないが、基本的にそこまでこだわりはないので、特にストレスもなくここまでやってこられている。同居人のほうはわからない。さすがに蕎麦ばかりというのも良くないと思い、たまには彼女の訴えを退けて蕎麦以外のものを食べさせていたりするが、それは彼女の本意ではないかも知れない。さりとて、文句があるなら向こうから何か言ってくるだろうから、放っておいても問題はない。だろう。

「雨、降ったらさ。蕎麦茹でたるよ」

「いいよ、私は」

「そう言うな」

 啜る音。彼女はマイペースで、私もマイペースで、争いを好まず、日々を自堕落に、かつ自由に過ごしている。



 そろそろアルバイトの時間だ。

「行ってくる」

「ん」

 私は同居人がどこで働いているのか、そして彼女もまた私がどこで働いているのか、おそらくは知らない。知ろうとも思わない。

「なんか要る物ある?」

「いいよ……帰り遅いんでしょ。自分で出る」

「そ」

 私はパンプスを引っかけて、アパートのドアを開いた。風はあっても陽射しは容赦なく照りつける……こんなんで本当に雨なんか降るのだろうか。どのみち、鞄の底には折り畳み傘が入っているけれど。

「……ざる蕎麦だったら、いいかもしれない」

 独り言のように呟いて、私は階段を降りた。



「結局茹でたんやね」

「うん……暑いし」

 気温は夜になってもなお摂氏30度を下回ることがなかった。錦糸卵と買ってきたハム、それに三つ葉を足して、同居人が茹でてくれていた蕎麦に乗せる。

「今度、蕎麦粉買ってきて家で蕎麦打とうと思うんやけど」

 録画したドラマを観ながら、彼女がそんなことを言う。

「えー? 面倒くさくない?」

「……乗り気じゃないな」

 啜る音。

「……いつやる?」

「今度の水曜日とかどう?」

「そうしよっか」

「せやね」

 喉越しがとても涼しい。

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