書斎

 深夜。

 トントントントン、と4回、素早くリズム良くドアがノックされる。

絵里子えりこ? いいよ、入って」

 咳払いののち、失礼します、と芝居がかった声を響かせて、絵里子が部屋に入ってくる。柔らかい白熱灯の光に照らされて、彼女の相貌は宗教画みたいに映える。

「どうよ。進捗は」

「まぁまぁかな。締切には間に合いそうだけど、外出て遊んでる余裕はない、って感じ」

「そっか。無理はしないでよ?」

「好きでやってることだし」

 売れっ子ミステリ作家。トリックの露呈を極端に嫌うため、自宅の地下室に特別の書斎をこしらえ、日夜そこに引き篭もって文章を紡いでいる。書斎のドアを開けられるのは、本人以外では恋人の加賀谷かがや絵里子ただ一人……私に関して、世間ではそういう認識がされているし、ついでに私は男だと思われている。性別以外はだいたい合ってる。

 ノックスの十戒を意図的に破りさえしなければ、ミステリ小説を書くのは意外と簡単だったりする。多面的に物事を見るのだ、さすれば、その時々で登場人物が置かれている状況を俯瞰することは容易に可能である……そういう創作持論が私にはあるのだが、話しても大抵の人に首を傾げられる。

「根詰め過ぎちゃだめだよ」

「わかってるっての」

 今回の依頼は、文庫本サイズで200ページ前後のジュブナイル物ミステリだ。高校生を主人公に据えると、私よりゆうに10歳は下の子たちを動かさなければならない。そう考えたら、殺伐としたサスペンスの世界に巻き込んでいることを申し訳なく思ったりもする。

「終わったらどっか遊びに行こっか」

「だね。私も羽根、伸ばしたいし」

 絵里子が提案する。彼女との交際期間はそろそろ6年、私の小説には、彼女をモデルにしたキャラクターも多く登場した。悲惨な運命を辿ることもある一方、幸福に満ち足りた人生を送ることもある。彼女はそのどれもに文句をつけたことはなかった。人間ができている、と思う。おまけに、ミステリ作家なんていう安定しない職に就いてる私を慕ってくれているのだ。

 ありがたいことだ。

「……ってか明日早いんじゃないの? いいよ、寝てきなよ」

「いいの、どうせ暇だったし。しばらくここにいる……邪魔にならない?」

「うん。大丈夫」

 そうしてしばらく無音になる。私がキーを叩く音に混ざる時計の音と、そして小さな呼吸音だけが、ここで発される音のすべてだ。

 柔らかく流れる時間の中で、私は原稿の書き上がりがきっと良いものになると確信していた。

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