月夜にて

 月夜の草原は思ったよりも寒かった、これならウィンドブレーカーを持ってきておいた方が良かったかもしれない。私は自転車を停めて、適当に自立スタンドさせようとしたが、風があるせいか無理だった。仕方なく、私はその辺に自転車を放り出した。どうせ人も来るまい。



 月からやって来たのは、目も眩むような美しさの女の子だった。見事な黒く長い髪で、伏せられた睫毛の向こうから覗く瞳は深淵の色をしていた。

 見た目は少女のそれにしか見えないのだが、しかし実年齢は300をゆうに越えている、というのが学者の見立てだった。彼女は言葉を話せず、でも名前はあるようで、一度紙に書いてもらった。が、やはり解読できず、便宜上、月からとって「ルナ」と読んでいる。本人は不服とも取れる顔つきをしていたが、次第に慣れたようで、今ではその名で呼んでも怒らない。

 ルナは草原にいた。黒檀のような艶やかな髪を垂らして、祈るようなポーズでそこに佇んでいる。

「ルナ!」

 私が近づいて声をかけると、ルナはゆっくりと振り返った。相変わらず、双眸は漆黒そのもので、何かのフィルターを通してに意識を向けているみたいだった。しかしそれでも、私を認識すると同時に彼女はにっこりと微笑んだ。

「何してるの? またお祈り?」

 ルナはこちらの話す言語を、割合でいえばおそらく6割から7割程度、理解してくれている。彼女と出会ったときの簡単な質問でそれはわかった。月から来たこと。話せないということ。私の名前を覚えてくれたこと。あまり難しく、かつ前提知識をいくつか要求されるセンテンスには対応できないということ。

 ルナはお祈り? の問いにこくんと頷いて、陶磁器のような指先で月を指した。38万キロメートルの彼方に、ガラス玉のような満月が浮いている。そこがルナの故郷であり、彼女は何らかの理由によってここにやって来た。

 理由か目的か、いずれにせよ何かしらの意図が存在し、ともすればそれは、地球に対して害を及ぼすことなのかもしれないが、いまの私にはどうでも良かった。

「ねぇ」

 ルナはやっぱりその綺麗で小さくてかわいい顔を、ゆっくりと傾げて、それから私の目を覗き込む。

「抱きしめても、いい?」

 ルナはぱっ、と顔を輝かせ、両腕を広げた。

「ありがとう!」


 いつかはルナは月に帰らねばならない。学者はそう言っていた。体構造が地球人と違うのだという。

(それでも)

 胸に彼女をかき抱きながら、私は目を閉じた。

(一緒に、いられないかな? なんとかして)

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