道意

 新陰流の稽古では座禅をよくおこなう。己を無にして周囲の心を感じ取ることは新陰流の技法に通じるものがあり、理想的な心の在り方として何度も指南されたが、明音はこれが苦手だった。目をつむれば嫌な思い出ばかりが甦る。姉の顔、姉の手、姉の死体、あの日の森の影、道を訊ねる男の声。こううるさくては、己を無にすることなどできない。


 あきらめて立ち上がった頃には、周囲は夕日の赤に包まれていた。この時季、闇が山を包む時刻は日々早くなっている。急いで里へ戻ろうと支度したとき、寺から拝借してきた天狗の面がないことに気づいた。師匠が持ち帰ったわけではないだろう。祭りのときに使う面をなくしたと知られれば、兄弟子たちにどやされる。風に吹かれたか、野狐がくわえていきでもしたのか。神社の中を散策するうち、明音はある石の前で立ち止まった。


 幅二十三尺、高さ六尺あまりの巨岩。他の岩と違うのは、その岩の中央が鋭利な切り口で真っ二つになっていることだった。


 人呼んで天狗斬りの一刀石いっとうせき。かつて若き宗厳が修業中、ここで天狗と斬り結んだことがあったそうだ。宗厳が天狗を斬りつけたとき、天狗の姿は失せ、代わりにこの岩があったという。宗厳の剛剣が巨岩を両断したのだ。


「あたしに天狗斬りができれば、今すぐでもあいつらを殺しに行くのに……」


 明音は一刀石を見つめた。いつ見ても、その切り口は見事なまでにすっぱりとしたもので、宗厳の技の冴えに驚かずにいられない。己の何倍もの大きさの、頑丈な花崗岩かこうがんを一刀両断。これはもう神業というほかない。なんとしてもこの奥義を己がものとしたい。師匠から授かった懐剣を握りしめつつそんなことを考えているうち、ふと背後の気配に気づいて振り向いた。


 背後にあった岩の上に、上品な身なりの痩身の男が座っていた。その顔には、明音がなくした天狗の面がある。

 明音は刀の柄に手を掛けながら大声を張り上げた。


「無礼者! ご神岩の上に尻を乗せるんじゃない!」


「吠えるな、吠えるな。岩はしょせん岩ではないか」


 天狗の面を外した下から現れたのは、見知らぬ禿頭の老人だった。

 老人は岩からひょいと飛び下りると、天狗の面を明音に手渡した。


「昔の知り合いに会いに来たのだが、入れ違いになったらしい。無駄骨を折ったと落胆したところに、かわいいおなごが険しい顔で座っていたからのう。つい意地悪をして面を隠してしまった。許せよ」


「どちらさまですか。柳生の里の人ではないですね」


「どちらさまと言われても、ただの坊主じゃ。ひとまずわしのことはどうと呼んでくれればよい」


「では道意さん、一緒に里まで下りますか。夜になるとなにも見えなくなります。急ぎましょう」


「おお、優しい娘さんじゃな。ではよろしく頼むとしよう」

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