愁いを知らぬ鳥のうた

新巻へもん

ペルソナ・ノン・グラータ

 秋になると私は浦賀美佳を思い出す。初めて彼女を見た時は、単に綺麗な、そして、影のある人だなとだけ思った。後にそれが経験の無さが故の認識の甘さであることを知る。


 ***


『9月12日午前21時43分頃、東京都杉並区在住の会社員本澤幸四郎(53)が山手線渋谷駅のホームから転落し、外周りの電車にはねられ、病院に搬送されましたが死亡が確認されました。警察では誤って転落したものとみて、当時の状況を調べています』


 数字と固有名詞だけを入れ替えれば、いつでも使い回しのできそうなテンプレート通りのニュース記事を見て、私はあっと声をあげそうになった。報告書を書き上げて寮に帰る途中だったが、次の駅で電車を降り、丁度入ってきた反対行きの電車に乗り換える。


 多くの人にとっては、この記事は文字通りの意味でしかなく、本澤幸四郎が何者かも知らないし、単に帰宅時間に電車を止めた迷惑な男という程度の認識しか無いだろう。ただ、私は幸四郎には3つ違いの妻と2人の子供がいること、沢田コーポレーションの営業部長であること、そして尿酸値が高めなのが悩みということも知っていた。


 別に親しい友人という訳でもないし、直接会ったこともない。ただ、私のオフィスの机の上のファイルには顔写真付きで本田のデータがいくつも綴じ込まれていた。


 私は門の所と建物の入口で身分証明書をかざす。先ほど出て来たばかりのカードゲートに身分証明書をタッチすると速足でホールに向かい、エレベーターで目的の階に上がった。エアコンの切れた館内は蒸し暑い。汗が滲んでくるが構わずデスクの上のファイルを漁る。目的のページを開くと人好きのする笑顔が見返してきた。暗唱できるまでになったプロフィールを念の為に確認するとニュースの本澤と完全に一致する。突然、スマートフォンが振動し慌てて通話ボタンを押した。


「山形主任。聞いたかね?」

「はい。今、念のために戻って確認していたところです。本人に間違いありません」

「くそっ。ツイてないな。ようやく目鼻が立ってきたところだというのに酔っ払って転落死とはな」

「事件という可能性はありませんか?」

「そんな小説のような筋書きなわけが無いだろう」


 翌日になると、おおよその周辺情報が判明する。会社の部下たちと飲んで帰る途中だった。10月1日付で取締役に昇進することが内定してのお祝いだったらしい。そのため、最近は控えていたお酒を結構景気よく飲んでいたとの証言だった。部下と別れる時もかなりいい感じに出来上がっていたらしい。


 ホームの監視カメラではフラフラ歩いている本澤がグラリとよろめき手をぐるぐるさせた後に転落していた。すぐに電車が入って来て大騒ぎになる様子まで見て巻き戻す。


「誰かに突き飛ばされたように見えませんか?」

「この画質じゃなんとも言えんな。たぶん補正かけても無理だろ。証言でも出てこなけりゃな」

「しかし、タイミングが良すぎます」

「そうだな。確かにくせえ」


 私たちはある議員との贈収賄事件で、沢田コーポレーションを半年近く追っていた。本澤と接触して揺さぶりをかけ、もう少しで落とせそうな感触を得ていた矢先の事故に作為的なものを感じるのは当然だった。社長の沢田真一は黒い交友関係の噂がチラホラ出てくる人物だ。自分に都合の悪い相手を消す伝手ぐらいは持っていると考えていい。


「とりあえず引っ張ってみましょう」

「おいおい。殺人はうちの縄張りシマじゃねえんだ」

「分かってます。しかし……」

「そうだな。やってみるか。しかし、令状取れねえぞ」

「あれを使います」


 有価証券報告書虚偽記載。少々地味な罪状だが、その時点でほぼ確実に裏が取れていた。ただ、これでは当初目的の議員には到達できない。このカードを切ってしまうと後が無かった。一方でこのまま持っていても意味の無いカードでもある。私たちは本澤の死から1週間後、沢田の逮捕状を請求した。


 沢田の逮捕後、私たちは中野にある家を訪れる。籠の中の鳥、すなわち沢田の愛人である浦賀美佳に会うためである。会社や自宅からは何も出ず、少々焦っていた。インターフォンを鳴らして出た来た浦賀はどこか疲れたような儚げな様子の女性で、耳元のほつれ毛がその印象を強くする。かざした警察手帳を見つめる目には愁いを帯びていた。


 まだ若い浦賀には不釣り合いな高級マンションの一室で私は話を切り出した。軽く世間話をしているとキッチンに行き、冷蔵庫から氷を取り出してコップに入れ、カウンターの上の機械を操作する。カランと氷がぶつかる音がして浦賀が戻ってきた。「お砂糖とミルクは?」


 私が供応は結構だというよりも早く、島田警部が言う。

「申し訳ないですな。それじゃ、ミルクだけ」

 浦賀はミルクピッチャーから注ぐと手早くマドラーで撹拌しコースターに乗せて警部の前に置く。


「そちらの方は?」

 おずおずと尋ねる浦賀に返事をしないでいると警部が脇腹をこづく。

「私も同じものを」

 私の前に置こうと身を乗り出す浦賀のシャツの胸元がチラリと見えた。


 それから、警部が本題を切り出す。

「という訳でですな。浦賀さん。沢田社長から何か聞いたり、何かを見たりしたことはありませんかな? 知っていて隠すとあなたも罪に問われることがありますよ」

「……私には思い当たる節は……」

 伏し目がちに自信なげに答える浦賀は申し訳なさそうだった。


「何か思い出したらすぐにご連絡を」

 別れ際に名刺を渡す。マンションを出ると部長が言った。

「あの女、何か隠してるな」

「え? そんな風には見えませんでしたが」

「いや、絶対に何かある。お前、足しげく通え」

「どうして私ですか?」

「沢田もまあまあのいい男だろ。お前もうちの課イチのイケメンだからな。沢田とちょっと目元も似ているし」


 最初は沢田の取り調べから外されて不満だったが、すぐにこの任務が楽しくなった。普通は何度も訪ねられるとだんだん不快な表情を見せるようになるものだが、浦賀はそんなことは無かった。3回目には、ご苦労様です、と言われるようになり、私の大して面白くもない話に微かな笑顔も見せた。


 出されるコーヒーがアイスからホットに変わる頃には呼びかけの声を遮って、ためらいがちに言う。

「美佳と呼んでください」

 涼しくなっていたが、美佳が相変わらず、生地の薄い夏物を着ていた。ほとんど日の当たらない生活をしているせいか、透き通るような肌が目に眩しい。


 だが、私の秘かな楽しみの日々は終わりを迎えようとしていた。沢田の逮捕から20日近くになろうとしており、もうすぐ勾留の期限となる。何としても本丸の贈収賄での逮捕状が取れるだけの証拠が必要だった。

「色男さんじゃ、ダメか。そろそろ……」

「あと1日、いや、半日だけください」


 私は不退転の決意で美佳のもとに赴く。私の表情から何かを察したのだろう美佳もコーヒーを淹れた後、神妙な顔で私が言葉を切りだすのを待っていた。

「美佳さん。何かを知っているなら話してください。でないと、あなたも逮捕されてしまうかもしれません。私にはあなたをそんな目にあわせるのは耐えられない」


 警察署の御厄介になろうという人種と美佳は明らかに住む世界が違う。運が悪いと美佳はかなり怖い思いをする可能性があった。

「協力してくれたら、全力であなたを守ります」

 私の説得にかなり心を動かされたようだったが、いまだに迷いを見せる。

「あの人は恐ろしい人です……」

「どうか真剣に考えてください。私はあなたのことを」

 美佳の人差し指が次の句を告げようとする唇に押し当てられた。

「一晩ください。ですから、今日のところは……」


 翌日、私と警部は連れだって美佳を訪問する。私の必死の説得が通じず、警部の胸ポケットには逮捕状が入っていた。二人連れで現れたせいか、美佳は一瞬だけ恨めしそうな顔をしたが、すぐに表情を戻して部屋に私たちをあげた。部屋に入って私は驚く。部屋からいくつかの物が消えていたからだ。部屋の隅には大きなスーツケースが用意されている。


「どちらかに旅行に出られるところですかな?」

 警部の小ばかにしたような響きに美佳がにっこりと笑って答える。

「ええ。そのつもりです」

「そうはいきませんなあ。ご自分の立場がお分かりになっていないようだ」

「いえ、十分分かってますわ。山形さんがちゃんと説明して下さいましたもの。これから全てお話しますから」


 美佳は今まで見たことも無いような笑みを浮かべた。

「沢田が賄賂に使った裏金の口座はこれです」

 差し出した通帳をもどかしくめくると、何回かに分けて数千万円の金額が引き落とされていた。

「そちらで把握されている日付と一致するんじゃないかしら? それと沢田とあの男との会話はこの中よ」

 美佳はUSBメモリを滑らす。


「ううむ。さすがに裏社会との記録までは持っておらんでしょうな」

「ああ。本澤を手にかけた男のこと?」

 美佳は暴力団の末端構成員の名を告げる。そして、そんな表情ができるとは知らなかった明るい笑みで衝撃のセリフを言う。

「もちろん知ってます。指示を出した相手の名前を忘れるわけがないでしょう?」


 突然の殺人を自供しうたい始めた美佳に私たちは二の句が継げない。

「山形さん。私のことを守ってくださるのよね。だって、あなた、私の事を愛しているのでしょう?」

 そして、クスクスと笑いだす。


「警部さん。そんな目を白黒させなくても大丈夫よ。レコーダーがちゃんと回ってるかどうか心配しなくてもね」

「浦賀さん。あなたの先ほどの発言は犯行の自供となるのに十分ですが」

「そう? でも何の問題もないわ。あなたの胸ポケットに隠してある紙切れも私には届かない」


 美佳は立ち上がるとジャケットから外務省発行の外交官身分証明書を取り出した。

「ということなの。あなた方にできるのは私の国外追放を請求するぐらいね」

「なぜ?」

 私は言葉を絞り出す。

「なぜ本澤を始末したのかって? あの男はね、私が進めていたプロジェクトを嗅ぎつけて脅迫してきたの。最初は小銭で満足していたけど、役員の地位と私を要求してきたわ。馬鹿な男ね。限度を知らないから命を落とすことになるなんて」


 美佳は私に向き直る。

「純真な刑事さん。人は見かけによらないの。でも、あなたの真っすぐな感じは嫌いじゃないわ。これはあなたへのプレゼント。それじゃあ」

 大の大人二人を圧倒すると美佳は歩き出す。スーツケースを軽々と持ち上げると玄関から出て行った。


 魔法をかけられていたように身動きできないでいた私たちが追いかけるがエレベーターの扉は閉まった後だった。階段を駆け下りてマンションのメインエントランスから駆け出すと青いナンバーの車が走り出す。後部座席からチラリと横顔が見える。それが私が彼女をみた最後となった。


「ちきしょう。道理で落ち着いてるわけだぜ。あのスケ、最初から自分が安全だって分かってやがったんだ。だから、堂々と……」

 警部がぼやく。

「まあ、いいさ。有難くプレゼントは頂いておこう。純真な色男さんの努力の結晶だ」


 慌ただしい2週間が過ぎ私は休暇を取って羽田空港に行き、展望デッキから空の彼方へ消えていく機影をいつまでも追っていた。

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